「山本圭一さん、芸能活動再開」を考える。

 未成年者への性的暴行事件により、芸能界を離れていた山本圭一さんが活動を再開。ラジオ番組にも出演などのニウスがネット上に流れ、ツイッター上にも賛否両論がある模様です。この件についていろいろと思うところを述べてみるのでございます。

 まず、彼が起こした事件というのは2006年7月17日深夜、函館のホテルにおいて、未成年者の女性に性的暴行をはたらいたというもの。女性は被害届を出し、北海道警によって立件されました。後に示談となり、起訴もされませんでしたが、山本さんは吉本興業を解雇されて芸能活動をやめることになりました。これがぼくの知る大まかな経緯です。

 事件前における彼の品行、あるいは事件当夜における出来事の経緯など、週刊誌において取り沙汰されたものがネット上で読めますが、ここではその記事には触れません。どれくらいの情報が本当のことなのか、まるでわからないからです。週刊誌が常に真実を述べる保証などどこにもなく、あの種の記事から彼の人間性を考えるのは、フェアではないと思うのです。ぼくには山本さんがどういう人間なのか、わかりません。

 また、事件当夜に何が起こったのか、仔細についてもわからない。週刊誌がかき立てることが本当か嘘かはわからない。たとえ本当だとしても、1のことを10にして語っていないとも限らない。世間ではこう取り沙汰されているけれど、本当は違うのではないか。そう考えるべき出来事も、世の中にはあります。本件に関しては不起訴ですから、裁判で事実関係が細かく立証されたわけでもない。

 だから、ぼくを含めた多くの野次馬の方々は、次の二つの点を留意しておく必要があると思います。事件当夜に何があったか、どういった経緯でどんな状況だったのか、本当は詳しくはわからないということ。わからないことをこうだと決めつけて考えるのは、フェアな態度ではないということ。

 この点は、この事件に関してだけの問題ではありません。だからぼくはここであえて、極論を述べます。山本圭一さんは、性的暴行をしていないかもしれません。はい、こう書くと、何を馬鹿なことを言ってるんだ、めちゃくちゃだ、どれだけひいきするんだ、あり得ないことを言うなとたくさんの批判が来るでしょう。ええ、その通りです。ぼくも彼が無実であるとは思っていません。ですが、もう一度述べるとおり、ぼくたちには何もわからないのです。わからないのに、わかった風に言ってはいけないのです。真相は藪の中。黒澤明監督の『羅生門』をはじめ、多くの映画が、ぼくにそのことを教えてくれました。

 さて、長々と書きつつも、ぼくは別にここで彼の事件に疑義を呈したいのではありません。仮に、彼の起こしたものが紛れもない性的暴行事件であったとして、彼は復帰を許されるのか? このことが本題であります。つまり、有り体に言えば、「強姦をした人間はメディアに出てもいいのか?」ということです。「不起訴だからかまわないのではないか」「少なくとも彼は刑罰を科せられた犯罪者ではない」という点の議論はここでは避けます。強姦事件の特殊性を考えると、「不起訴であることが必ずしも、犯行の軽さを示すものではない」とも言えるのです。

 では、メディアに出てはいけない理由は何か。これを考えることが、この問題を解決する最短距離でしょう。「簡単だよ。犯罪者だからだ」というのなら、どうして犯罪者はメディアに出てはいけないのか。

 不快だから。というなら、不快なものがメディアに出てはいけない理由を示さねばなりません。不快であることが理由になるというなら、ぼくにだって、出てくると不快になる有名人はいます。みんなそれぞれ、嫌いな芸能人や有名人はいることでしょう。これは理由にはなりません。

 単に不快だというだけではなく、社会通念上の問題だと言われるでしょうか。その社会通念というのがどういった実体を持つのか、ぼくにはわかりませんが、ひとつにはこういう理由があげられるかもしれません。現にツイッター上でも目にしました。
「強姦の被害者になってしまい、心に傷を持つ人は世の中にたくさんいる。彼は強姦の加害者だ。彼がメディアで笑っている姿を見るのは単に不快なだけではなく、その人たちにとって心の傷を抉られるような出来事だ。強姦の被害者がいることを、考慮していないのではないか」

 もしも世間の人々の多くがこの意見を支持するとしたなら、ぼくには少し不思議なことがあります。はて、なぜ世の中にはやたらと、「殺人事件」や「戦争」をモチーフにした作品がやたらとあるのでしょうか。子供向けのアニメでも殺人事件を扱ったものがあるし、ゲームでは戦争が花盛りです。ぼくはその種のものが悪影響であるという考え方を採りませんが(ここはあとで少し詳しく触れます)、たとえば殺人事件の被害者の遺族は、「なんとかなんとか殺人事件」という文字を見るたびに、辛い気持ちになるのではないでしょうか。戦争で敵兵をばんばん撃ち殺すゲームを目にしたら、戦争での痛々しい記憶を持つ人々は辛い出来事を思い出すのではないでしょうか。だから、こういう言い方ができてしまいます。
「殺人事件を描くものは、娯楽の一要素として人の死を描いている。殺人事件の被害者への配慮がまったく足りていない」と。殺人事件を「戦争」に置き換えても同じ意味の文ができます。

 こう述べると、「そういうのはフィクションだろ。現実とフィクションの区別をつけろ」と言われますでしょうか。ほう、もしそうだとするなら実に興味深い意見です。殺人事件の被害者の遺族の方には、その説明で事足りるというわけですね。あれはフィクションだ、おまえの事件とは関係がない、そんなもので心の傷を抉られるほうがどうかしている、みんなが楽しんでるんだからよしとせよと。そして、強姦の被害者に対してこう言うことを許してもらえるでしょう。「山本さんは、おまえの強姦事件とは無関係だ」と。

もうひとつ、こういう意見もあることでしょう。
「メディアは社会に対して影響力を持っている。強姦した人間がメディアに出て笑っていたら、強姦がまるで軽い罪であるかのように、扱われてしまいかねない。社会的に間違ったメッセージを放つことになる」

 はい、確かにこれはこの通りなのです。ぼくはこの考えに対して、反対論をぶつける気持ちはありません(申し添えるなら、先の考えにも実は反論をしていません)。

 ただ、物事というのは、人間の境遇によって受け取り方が違います。
 彼の存在が、誰かを勇気づける可能性だってあるのです。
 世の中には罪を犯した人間がたくさんいる。もう自分の人生は終わりだと絶望する人もいる。しかし、そんな人が山本さんを観たときには、「自分だって笑っていいんだ」と思えるようになるかもしれません。いや、別に罪を犯した人間に限らない。何かのきっかけで人生に躓いた人がいたとして、その人が山本さんを観たときに、「あんなやつだってやり直せたんだ。自分だって再起できるはずだ」と思えるかもしれません。彼の復帰はそういうメッセージを放ちうるのです。

 賛否両論が起こる出来事というのはおおむね、正の面と負の面がある。彼の復帰にも、正の面があるかもしれない。この先、彼の復帰によって救われる人間がどこかにいるかもしれず、復帰するなという人は、その人の救いをなくそうとしているのかもしれないのです。

 もちろん、負の面もあります。今ぼくが述べたことは、そっくり負の面にひっくり返る。彼の復帰が誰かを傷つけるかもしれない。でも、「誰かを傷つけるかもしれないから駄目だ」というなら、多くのお笑いは彼もろともなくなるべきだ、とすら言えてしまうのです。ハゲをいじったらハゲの人は傷つくかもしれない。ブスをいじったらブスの人は傷つくかもしれない。デブをいじったら、チビをいじったら。そこには無限の可能性がある。

「彼に影響されて、強姦への心理的ハードルが下がり、強姦に及ぶ人間が出るかもしれないじゃないか」と言われるでしょうか。これについて、ぼくは否定ができません。ただ、そのような意見に対して、ぼくはいつも「戦争」を思い出してしまいます。
 戦争のテレビゲームは、戦争への心理的ハードルを下げていないか?  

 暴力ゲームが悪影響を与えて、暴力的行動を促す。このテーゼは科学的に立証されておらず、むしろ反証されていると聞きます。だからぼくはこのテーゼを支持しません。
 しかし、ぼくの知る限り、次のテーゼには反証がありません。
 すなわち、「戦争ゲームが悪影響を与えて、戦争を肯定する考えを促す」というものです。
 なにしろリアルな戦争ゲームが出たのはつい最近のことですから、少なくとも日本国内においては、これを反証するだけの期間もないわけです。つまりぼくたちは今、「もしかしたら戦争肯定の世論を惹起するかもしれないゲーム」を、現実に許しているとも言えるのです。暴力については、現実とフィクションの区別はつくかもしれない。だけど、戦争については? 現に、ぼくたちのほとんどの世代は、実際に現実の戦争を経験していない。だから「現実の戦争」と「フィクションの戦争」を区別することは、経験的にいえば不可能なのです。どうして現実を知らないぼくたちが、フィクションとの区別がつくと、断言できるのか? 戦争ゲームで敵を撃ち殺す爽快さは、本当に戦争を肯定する気持ちを促さないのか? どうして?

 ずいぶんと話をこじらせてしまいました。ぼくが言いたかったのは、どういう悪影響があるかわからないものを、ぼくたちは既に現実に許しまくっているということ。遺伝子組み換え食品しかり、化学調味料しかり。次に原発を動かした後のこと、しかり。いろんな物事の悪影響の可能性を許しながら、山本さんだけは許さない? 

 ずっと上のほうになってしまいましたが、ぼくはフェアネスについて言及しました。好き嫌いではなく、快不快ではなく、物事をできるだけフェアに考えること。そうしたとき、彼の復帰だけにことさら目くじらを立てるというのは、ぼくの採りたい態度ではないのであります。
 



 それでも彼を葬るというならば、


 OK、


 多くのものを、ともに葬ろう。
[PR]
by karasmoker | 2015-04-24 02:21 | 社会 | Comments(0)
←menu