『アウトレイジ ビヨンド』 北野武 2012

北野武が描くヤクザ映画の、魅力と限界。
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ヤクザ、というのはいまやフィクションの世界では、すっかり無害化されているような印象があります。「○○につとめる主人公の正体は実はヤクザで……」みたいな設定で、ドラマが陸続と作られていますしね。ちゃんとしているヤクザ映画というのはむしろ受けなくて、というかリアルを求められるとさすがに作りにくくて、「ヤクザ」をひとつの恐怖の記号として描きつつ、別の物語を構築するのが今様なのでしょうか。

 現代のリアルなヤクザ映画、というのを観たいと思って、でも何を観ればいいやらわからなくて、借りてみました。前作も観ているのですが、細かいところは覚えておらず、観ながら復習していた感じであります。

 本作は関東の「山王会」と関西の「花菱会」の対立に警察も絡んでいって、武も絡んでいって、というような話です。前作にはなかった関西との対立で規模が大きくなっているのが二作目的な拡大要素ですね。
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山王会と花菱会というのは、まあ名前から察するに山口組でしょう。準構成員も含めれば三万人にものぼるという全国最大規模の暴力団で、代紋は「山菱」です。関東ヤクザと関西ヤクザの対立、というのは構図としてはわかりやすいですが、実際はこういうことはないんじゃないかと、何も知らないカタギのぼくは思ってしまいます。山口組は関西出身の組ですが、既に関東の団体とも親戚関係を結んだり吸収を果たしたりして進出を果たしているし、ここに勝れる勢力は、指定暴力団の中にはいないでしょう。ちなみにぼくの家から徒歩十分程度のところには極東会の本部があるようです。
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ものの本によりますれば、暴対法の強化によって、ヤクザは消耗の時代を迎えているようです。だとするとそのうち、地方自治体が合併を果たしているように、弱いヤクザは強いヤクザに吸収されていくしか道はないかもしれません。別の道としてはマフィアですね。中国、台湾、韓国、ロシアその他のマフィアとの癒着によって勢力を維持するか。

 さて、映画の話です。
 これはわかりやすく、暴力団内の派閥争いの映画です。そこに外部の要素としての北野武、あるいは中野英雄が絡んでいってぐちゃぐちゃになる。それをたきつけているのが刑事の小日向文世です。
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 本作の主人公は誰か、というと実は北野武ではなく小日向だと思います。
小日向が狂言回しになって、いろいろと仕掛けていくんですね。彼の目論見としてはやはり、つぶしあいをさせることで勢力の減衰を図るというのがあるのでしょう。ヤクザ同士の問題には警察ががっちり絡んでいるんだぞ、というのを描く役割です。まあ実際、あんな風に幹部にばんばん会いまくる役を一人の刑事に任せることはないのでしょうけれども。
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わりと抑えたトーンで進んでいくので心地よかったです。あまり叫びすぎるとインフレ化するし、ドスを利かせるのはここ一番、というのを保っているのが好きです。その分、加瀬亮の怒声が軽く聞こえてくるんですね。あれはあれでいいのであって、彼だけがぎゃあぎゃあ叫んでいると、なんだか安っぽく見えてきて、静かなベテランたちが引き立つわけです。前作の記憶はおぼろですが、前作より抑制が利いていたと思います。

 関西ヤクザの西田敏行は軽かったなあと思いました。関西のおっさんの怒声、その魅力というものがあるとしたら、西田敏行にはそれがなかったのです。ここはひとつ、吉本興業などの芸人から引っ張ってきたらよかったのになあ、と(少しきわどいですが)感じました。というか、今の時代、関西弁でドスを利かせるとしたら一番いいのは芸人だと思います。島田紳助や中田カウスは無理だとしても、オール阪神巨人あたりを持ってきたら迫力があったろうなあと夢想してしまいました。山口組と吉本興業も古くはゆかりがあるわけですし(だからこそ無理なのか)。
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 映画全体を観ると、ちょっともったいなあというか、どうしてそういう構成にしたのかな、というのはあります。冒頭部で、官僚とヤクザの繋がりが出てきます。ぼくはわくわくしたんですね。あ、そこまで踏み込んでくれるのかと。しかし、その後は一切その話は出てこないんです。結局は内部の派閥争いになってしまうし、大きなシノギにまつわるような話もない。結局のところ、ヤクザを「ヤクザの箱」に押し込めてしまった。ヤクザを抜けた中野英雄がカタギとしてやり直している、みたいな設定はあるにせよ、実社会とヤクザの話はそれ以上はついぞ出てこない。
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 そこが冒頭でちょっと描かれるだけなので、なんだかちまちました話にも見えてきました。ああ、あれ以上踏み込むのは無理かあ、という残念さはある。そこが面白いと思うんですけれど。
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 映画としてはある程度、人物の相関をはっきりさせなくちゃいけないし、広げるにも限度がありますからね。内部のぐちゃぐちゃを描くほうがやりやすいのはわかる。ただ、数年前の記事になりますでしょうか、もうぼくは『ゴモラ』を観てしまっているのでねえ。
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 うん、「北野武が描くヤクザ映画の魅力と限界」という感じがしました。
 これは他の多くのヤクザものにも通じると思いますが、ヤクザの怖さってのは結局のところ、ドスの利かせあいとかドンパチとかそういうことじゃなくて、社会に浸潤しているところだと思うんですね。『ゴモラ』はその点ですごいものを観たという感じがしました。ああいう怖さを見ると、「ヤクザ映画」というものが圧倒的に相対化されてしまう。『ゴモラ』をご覧になっていないなら是非とも観るべきです。本当に怖い奴は怒号なんか飛ばさないんだなと思わされる。静かに、ただ「葬る」ということを最短距離で仕掛ける。

 だから、すごく嫌な言い方をすると、上述したような「○○が実はヤクザで……」の夜九時台のテレビドラマと同じところにいるんです。エンターテイメントだからそりゃそうだろう、と言われればそうなんですが、だとするとこの手のヤクザ映画はもうぼくはそんなに興味がないです。そういう感覚ってないですかね。これを観ちゃったら、あとは全部いっしょだなという。ぼくにとっての『ゴモラ』がそれです。今回の作品は映画としてはよくできていたし、飽かずに観られはしたのだけれど、どうしても食い足りなくなる。
 
ヤクザ映画としては面白かったと思います。でもそれはあくまで、実社会と切り離された、ファンタジーとしての、「ヤクザの箱」に入れられた作品としてですね。その箱をはみ出るものを、ぼくは観たくなってしまうんです。





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by karasmoker | 2015-06-25 00:00 | 邦画 | Comments(1)
Commented by うぼで at 2017-01-19 16:08 x
神なんとかさんて顔だけなら私でも分かる方も出演してたのですね。大分前に若い男の子がたけしさんの「doll」て映画のパンフレットを電車で見てました。
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