『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』 樋口真嗣  2015

どうせ原作は超えられない。そう思って観ればいい。
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 ブログ休止中なんじゃないのかおまえ、というツッコミを覚悟しつつも今回、最新作かつ話題作の本作を取り上げます。このブログで新作を取り上げるのは実に数年ぶりじゃないかというものでありまして、ぼく自身めったに映画館に行かない人間なのですけれども、ではなぜ休止中の看板を掲げつつも記事を書くのか。

 といえばこれはずいぶんと面白い状況になっているからであります。関係者試写の評判と世間の評判がえらく解離しているな、というのを観るにつけ、ほんならぼくもいっちょ絡んだろかい、と思ったのであります。これが大絶賛一辺倒なら逆に観に行かないところでありますが、このような最中では自分の目で確かめたくなるのが人情でございます。

 また、あの町山さんが脚本を務めているのも大きな理由で、まあこのようなブログを続けている人間からすると、町山さんが書く本にはやはり興味を引かれてしまうわけであります。これが観に行った一番の動機かもしれません。

個人的な立ち位置で申し上げますと、原作は何巻か読んだけれどそれも数年前の話で、今の連載がどうなっているのかもわからず、「ハンジって誰だっけ」というくらいの記憶と知識であります。アニメも途中まで観ましたが、確かエレンが巨人化したあとくらいでやめたので、その後の細かい展開はほとんど覚えていない、という人間です。ゆえに、ほとんど思い入れはありません。そういう人間の文章だと思ってお読みください。

 さて、内容についてです。
 結論から申し上げますに、「そんなに悪く言わなくてもよいのではないか」くらいの感じでした。肯定派と否定派のどちらかに立て、と言われたらぼくは肯定派に立ちます。ただ、世間が絶賛ムードだったら否定派ですね。「そんなによくはないだろう」という。その意味ではかなりニュートラルな立場なんじゃないかと思います。

 原作からの改変が多いのもあって、原作ファンの皆さんは激怒しているようですが、100分弱に収めるとなると仕方ないんだろうなあ、というのがまずはあります。たとえば原作ではエレンの母親が殺されますね。印象的な場面だし、エレンの動機にも関わってくる部分なので覚えているのですが、映画では母親の存在自体が消されています。これはね、わかるんです。このサイズでミカサとの関係とか他の見せ場とかを考えると、母親がらみのくだりを入れられないんです。連載漫画とは構造が違うので、出せる登場人物や込められるエピソードにも限界が出てくる。それに母親の話を出してみてもどのみちあとあと放っておくことになる。だから切るしかない、というのはよくわかる。エレンに動機を与えるために、ミカサを強いキャラにするために大胆な改変を行っていますが、あの設定自体は一本の映画として観たときに、別段咎められるべきものではない。

 原作ありきの作品を観るとき、まず覚えておかねばならないことは、全部の要素を入れるのは無理ってことです。その意味で、映画版は絶対に原作を超えられないんです。だから、原作にはない良さを入れていればそれで勝ちだし、その勝ちを収めるために要素を絞るのはやむを得ない。変えるのも致し方ない。母を切ったうえでエレンに動機を与えるとしたなら、ミカサ絡みで行くのが一番です。

 だからね、すごく言い方は悪いけれど、「実写映画ごとき」みたいな部分があると思うんです。原作ファンの人はそこまで怒る必要がないと思う。どうやったって原作の勝ちなんだから、もっと温かい目で観てやればよろしい。ぼくは原作ファンではないですが、そういう目線で観ていたところがあります。端からハードルをぐっと下げていました。

 予告編の段階で、結構ださいです。國村準が「心臓を捧げよ!」とか言っているシーンを観て、うわあ、ださいなあと思っていた。石原さとみが出ている時点で、もう既にトレンディ臭、CM臭が出ていた。そういうもんとして観ればいいんじゃないかと思います。

 実際のところ、ぼくは冒頭部で、戦隊ヒーローものっぽさを感じていたのです。エレンとミカサとアルミンの三人が集まる、巨人襲来前のシーンがありますね。「名前問題」の入り口に当たるところで、あそこのやりとりの時点で、ああ、なんかこれは戦隊ヒーローだなと感じた。要するに、大人が大人のものとして観るのではなく、「戦隊ヒーローの世界」として観ていくのがよいのだろうと思ったのです。これまた言い方が悪いけれど、もともとが十代向けのコミックが原作なのだから、大の大人がきいきい言うのも無粋なのです。

 そう思って観てみればよいのです。巨人描写にしてみても、ぼくは別に文句もないし、よくできていたと思います。ぼくが『進撃の巨人』の原作において、うまくやったなと思ったのは、巨人という存在自体のアイディア。あれは言ってしまえば、怪獣とゾンビの掛け合わせなんです。ゾンビを巨大化させたとも言えます。考えてみるに、大昔のゾンビ映画だって「人間丸出しやん」というのは多いし、怪獣映画だって「着ぐるみ丸出しやん」というのはいくらでもある。でも、それでも面白いものは面白かったし、本作の巨人は充分なクオリティです。ハリウッドと比べて、なんて言う必要はない。悪いけど、今のハリウッドがつくる映像表現だって、ぼくのうちに焼き付いた「思い出のあの場面」には勝てない。

 これは『パシフィック・リム』の記事で書いたことですが、「子供の頃の原体験は超えられない」という諦念がぼくにはあります。いくらCG技術の進んだ戦闘機やロボットが出てきても、かつて観たビートル号やホーク1号には勝てません。たとえ張りぼての模型でも、原始的な仕組みでつくられた背景の空であっても、当時はそれを夢中で観ていたし、あれを超えるものはないんです。ぼくたちはついクオリティうんぬんをうるさく言いたがるけれども、年のかさんだ観巧者を気取るより、おお、CGは気合いが入っているなあ、うむうむ、と生温かく観れば楽しめるというものです。

ところで、キャラクターについて述べます。
 原作は西洋人がメインで、ミカサが東洋人で、という構図ですが、本作はどうしても日本人メインになる。そうなったとき、逆にミカサに非・日本人的要素を入れるというのはうまい考え方だと思いました。水原希子はアメリカ人と韓国人のハーフだそうで、周囲との異物感をつくるための配置として正しいと思います。原作のミカサに思い入れのないぼくとしては、なかなかええ感じやないかと観ていました。モデル出身者は画づらをつくるときにやはり重宝するようです。演技? 再三申します通り、演技どうこうをつっついてもこの映画はしょうがないです。どのみち、ある程度ださいんです。

 話はずれますが、ドラマ『半沢直樹』で、上戸彩が出てきたシーンでぼくはだいたい失笑していました。ああ、もう取り返しがつかないくらいCM臭がついているなあと感じてならなかった。石原さとみもそれに近いです。彼女は確かに華やかではあるけれど、過去の業績ゆえのCM臭によって、この映画全体がつくりごとであることを現前させる。だからね、『たけしの挑戦状』風に言えば、「こんな映画に、マジになっちゃってどうするの?」というのがちょっとあるわけです。ぼくが言うのではありません。広告代理店に愛された彼女の存在感が、そうささやくのです。

 リヴァイに変わるシキシマ=長谷川博己については、底知れなさが足りなくて残念でした。格好いいやつじゃなくて、「かっこつけマン」になっていました。確かリヴァイというのは東洋人っぽいキャラクターだったと思うんですが、ミカサに異物感を与えたように、リヴァイにもハーフっぽい、逆に彫りの深い俳優を当ててもよかったんじゃないでしょうか。そのほうが謎めいた感じがもっと出たと思うし、エレンにとっての「超えるべき壁」感が強くなったんじゃないでしょうか。それと、國村準は人情風のおっさんという感じがありすぎて、あれはもっと硬質な、軍人的配役があり得たのではないかとも思いました。あれが原作の誰だったか、覚えていない人間の意見です。

 総じて言いますに、「生温かく観ていたぼくには、それなりに楽しめた」というところです。どのみち原作は超えられないのだから、ガチでけなすような代物ではないし、手放しで褒め称えるのもどうかしている。町山さんの脚本はどうであったか、といえば、多言はいたしません。後半もありますので、それを観るまではなんとも言えません。映画を観ている間、99パーセントが暇でも、ラストの1パーセントでひっくり返してくる作品をぼくは知っています。ただ、町山さんの語ったこの話を、覚えておこうと思います。彼自身に跳ね返るブーメランになりませぬことを願い、後編を待ちます。

 それまでは今一度、休止に入ります。





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by karasmoker | 2015-08-05 21:00 | 邦画 | Comments(0)
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