『アイ・アム・ア・ヒーロー』 佐藤信介 2016

テーマに惜しさはあるにせよ、出色のゾンビ映画だと思います。
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 『HUNTER×HUNTER』よろしく、連載と休載を繰り返すことでおなじみの当ブログですが、また(たぶん一時的にですが)記事を流そうと思います。以前はだらだらと思いつくままに語っていたのですが、形式を変えて、脚本の流れを追うような形で書いていきます。

 今までのだらだら語りに比べると遊びの部分が少なく、客観性を高めているので、いわゆる「評論」に近しいものになろうかと思います。また、時間を節約したいので画像キャプチャはありません。だらだら語りを楽しんでくれていた方がいるとすれば申し訳ありませんが、これまでとちょっと違うものになります。もっぱら自分のために書くのでネタバレ全開です。しばしの間ですが、もしも読んでくれる人がいたら、またよろしくお願いします。

 さて、『アイ・アム・ア・ヒーロー』です。

 評価の高い作品である一方、クリティカルな批判意見も目にしたので、気になって観に行きました。原作は途中まで読んでいて、確かクルス編の途中くらいでストップにしてしまいました。細かい内容などは覚えていない部分もあるので、原作との異同などは考えず、一本の映画として観ていきたいと思います。

 大泉洋演じる主人公は漫画家のアシスタントをしていて、オープニングは仕事場の場面。
 序盤では漫画家を目指しつつも、花の咲かない状態が続いているという現況が示されます。持ち込み原稿を没にされたり、同期の漫画家との格差を示されたり、同棲相手に早く夢を諦めろとどやされたり、かなり辛い状況にあるのがわかります。

 話の中心はゾンビシーンになっていくわけですが、オープニングシーンで奇妙なニュースが流れ、かなり早い段階でその「凶兆」が示される。これは大きな美点です。その後もちらほらと怪しい影が出てきたりして危険を予兆させます。この映画は序盤、ほぼ音楽を用いていなかったんじゃないでしょうか。日常の静けさを演出し、あとのパニックシーンに繋げるうえでも効果的でした。

 この映画の肝がゾンビ描写/ゾンビサバイバルにあるとすると、その点は抜群の出来であったと思います。最初に変容をあらわにするのは同棲相手の片瀬那奈。ここのゾンビ描写は満点だと思います。ロメロ的なゾンビでもなく、アメリカ映画のゾンビと違うものを造型できていて、ツカミとしてはパーフェクト。それまでずっと抑えめのトーンで進めていた分、ショックシーンとしても効果絶大。ゾンビ映画にはその数だけ「ゾンビとの初遭遇シーン」があるわけですが、その中でもトップクラスにいいんじゃないでしょうか。

 その後、映画は明確に第二幕へと移行します。主人公は所持していた銃を抱え、漫画家の仕事場に行き、そこでも知り合いたちのゾンビに会う。細かい演出で言うと、主人公があの仕事場に土足で上がるんですね。あれが第二幕(=非日常)への決定的なターニングポイントを示しています。ここでもゾンビ描写がいい。人相がまるまる変わってしまうのは原作でも同様でしたが、あれで一気に人称性がなくなるんですね。

 街のパニックについても、日常が秒音ごとに侵食されていく様子が巧みに活写されていた。日本の、東京の街並みをうまく非日常化させていて、ワンシーンの中にエスカレーションがあった。直後にカーアクションも盛り込んでいて、ここもたいへんよかった。同棲相手の変容から第二幕序盤にかけては非の打ち所がありません。

 この過程で、ヒロインの一人である女子高生、有村架純と出会います。彼女と出会った主人公は、富士山を目指します。ネットの噂で、ウイルスが届かないと言われているのです。その道中で神社に立ち寄り、二人は仲良くなるのですが、ここは個人的に少しもったいなさも感じました。よく解釈すれば、それまでの危機に次ぐ危機のあとで、観客を一度緩和させてくれるシーン。しかし少しほっこりしすぎというか、打ち解けすぎの感も強いです。メロンパンを分け合う「食事効果」を踏まえているのは美点ですが、有村が大泉に平気でため口を使っていたり、音楽を聴いて安らいだりというのが、どうにも急な感じがしてしまった。

 ただ、事情はわかる。これは仕方ないんですね。というのも、彼女は直後にゾンビ化してしまうんです。それも主人公を襲わない半ゾンビになる。主人公は彼女に危機を救ってもらったこともあり、捨て置けなくなる。彼女を後半まで連れていく都合上、短い時間で二人の仲を接近させておく必要があり、強引にでも仲の良さを詰め込まねばならなかったのです。

 半ゾンビとなった彼女を連れて(カートに乗せて)、主人公は歩き始めます。着いた先はショッピングモール。ゾンビに襲われていたところを、もう一人のキーパーソン、長澤まさみに助けられます。モールでは吉沢悠をリーダーとするコミュニティが築かれていて、ほっと一安心。ここが映画の真ん中部分に当たります。

 映画の流れとして、中間地点に「束の間の解決」を置くのが綺麗なんです。そのあとに危険度を上げていくのが理想的この映画はその点をちゃんと踏まえています。多くの人が建物の屋上に逃げており、平穏を享受しているのですが、一方ではゾンビの危機もあり、組織内の不和もあるんですね。

 主人公の危険度が上がったのは、銃を失った部分。連れていた女子高生がゾンビであることもばれてしまい、組織内の不和も高まり、それまでよりも危ない状況に陥ってしまいます。自分のふがいなさを嘆く場面もあるなど、精神的な弱さもここで示されます。

 その後、食糧を得るためにモール探索に出るのですが、組織にいた岡田儀徳がリーダーの吉沢悠と反目してしまい、その結果として悲劇が増幅します。尺の都合上、反目の経過や吉沢悠のキャラなどは、やや性急なままに進んでしまった部分がありますが、致し方ないところでしょう。

建物の中でゾンビの大群に襲われ、仲間たちがどんどん死んでいく。安全圏であったはずの屋上も、あるゾンビの出現で崩壊してしまい、「束の間の解決」の反対である「どん底」へと至ります。

 その間、主人公はロッカーに隠れてその場をやり過ごしていました。第二幕から第三幕に移行するのは、彼がロッカーから出て行く場面。屋上にいた長澤まさみたちを助けるべく、勇気を振り絞って出て行きます(ちなみにこのとき、ロレックスをたくさんはめていたために助かるという描写があります。あれは序盤の片桐仁のくだりと繋がりのある展開ですね)。

ここからはクライマックスで、満足感を味わわせてくれる詰め込み具合でした。細かい経過は省きますが、これでもかというくらいにアクションを詰め込んでいる。多少しつこいかもしれませんが、しつこいくらいが丁度良いんですね。

この映画の第三幕がカタルシスを生むのは、銃の存在ゆえです。それまで主人公は一切銃を撃てなかった。それがここに来て、これでもかと撃ちまくる。これが大きな要因です。アメリカではゾンビを序盤から撃つのが当たり前ですが、日本ではそうもいかない。そこを逆手にとっての使い方としては、この上ない方法ではないかと思います。

 映画的に言うと、銃の発砲は男性性を担うものでもあります。すなわち、これまでずっと自分の男性性に自信を持てなかった主人公が、いよいよ第三幕でそれを発揮するんですね。中盤では女子高生や女性に助けられていた主人公が、ここに来てその二人を守る。作り手は明らかに「男性性」を意識している

 ラストは三人で車に乗って逃亡。結末を迎えます。ここに及んで、有村を半ゾンビ化させたことも意味を持つ。大泉と長澤と有村の関係は、父と母と子供の形をとるんですね。映画の途中、有村をカートで運んでいたでしょう? あれは赤ん坊のメタファにもなっているわけです。主人公は艱難辛苦の末に男性性を獲得し、妻子を守り、父へ至るという流れなのです。

 映画の序盤において、主人公は同棲相手との間に家庭を築けずにいました。そして、その相手を失ってしまった。序盤と結末にリンクが観られる点も美点です。惜しむらくは、序盤のテーマ設定。「漫画で成功したいんだ!」という動機をセットしたのはいいのですが、その背景にもっと、同棲相手への意識があればなおよかった。そうするとリンクの糸がさらに太くなったように思われます。同棲相手の存在/欠損をもっと意義深く描けば、女子高生たちを助ける動機がさらに補強されたのではないかと、思ったりもします。ゲームの『ラスト・オブ・アス』において、主人公のジョエルは娘を失い、その面影をエリーに重ねていた。たとえばああいうことです。

もうひとつの惜しい部分は、有村がなぜ半ゾンビに留まったのかですね。「赤ん坊に甘噛みされたから」というのがエクスキューズになっていますが、ウイルスってそういうことなのか? という疑問は残ります。有村と大泉の結びつきはあくまでも、にわかな出会いによるもの。であるため、彼を決して襲わない善良なゾンビになるのも、少しご都合主義的な感じがしてしまうわけです。

 ただ、そこまで突っつくのはしつこいかなとも思います。二人はカーアクションで、力を合わせて死の危険を乗り越えた。その点を踏まえ、絆が強まったとも言えるし、映画の制限時間の中で、できうるだけの工夫をしている。その点はすばらしいのであります。

 全体を通していえば、非常によく整えられた快作であると思います。
 お薦めであります。

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by karasmoker | 2016-05-17 01:00 | 邦画 | Comments(2)
Commented by notch at 2016-05-17 03:02 x
久しぶりの映画評、楽しく読ませていただきました。
日常から非日常への流れをあの長いカットで一気に見せられたときに映画的オーガズムを感じました。「遠くから走ってくるやつはどっちだどっちだ?わっ、ゾンビだった!」のくだりはかなり出色だったなと思いました。
ここ最近でいうと『ワールドウォーZ』にも同じようなシーンがありましたが、あれはアップ、カットの多用で単なるパニック装置としてしかその機能を果たしていなかった。引きの画で撮ることであのような演出効果を施すことができるのかと感心した次第です。
Commented by karasmoker at 2016-05-18 08:28
 コメントありがとうございます。
 大きな見せ場をことごとく成功させているのが、たいへん素晴らしかったですね。
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