『愛のコリーダ』 大島渚 1976

性的怪物の肖像
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今から80年前、1936年に発生した「阿部定事件」を描いたものです。大胆な性描写ゆえ、公開時には大幅な修正なんかもあったようですが、今ではHuluを開きワンクリックで観られる。時代の変わるものよなあ、と思う次第であります。

 主人公は松田英子演じる阿部定、事件の被害者である吉蔵役は藤竜也。定は料亭の主人である吉蔵に惹かれ、めくるめく淫蕩の世界へと溺れていきます。

吉蔵に出会う前から、彼女が性に対して敷居の低い人間であると知らされます。浮浪者の男にせがまれて、簡単に局部を見せる。相手の局部を触る。普通だったら拒むだろうという出来事を先に見せることで、性への開放性が描写されます。また、定は料亭に勤めているのですが、そこの先輩といさかいを起こし、あわや刃傷沙汰になる。このように、「終盤で起きる事件の要素を、序盤に忍ばせる」のは、整った脚本といえましょう。

 吉蔵は正妻がいるのですが、性に奔放なたちで、すぐさま阿部定に手を付けます。彼女のほうもまんざらでなく、二人は情事のうちへと溺れていきます。モザイクこそかかっていますが、この映画の性描写は本当に誠実です。ごまかしのセックスもどきではなく、きちんと口淫のさまを映し出し、その精液を飲んださまも描く。二人の情愛が深まっていく様子が、真っ向から活写されています。

 第二幕となるのは、擬似的な結婚の宴。芸者衆を呼んで二人の契りをあらわにし、果ては彼女たちをも巻き込んで性交に至る。恋愛映画においては多くの場合、二人の関係を揺るがす「恋の障害」があるものですが、この映画にはそれがない。いや、阿部定は正妻ではないため、あるにはあるけれど、ほとんど遠景としてしか描かれない。それでいて盛り上がるのはひとえに、ごまかしのないポルノシーン、松田英子の熱演、そして日常性との混融模様あってのもの。本作では他人が観ていようが、平気でおっぱじめちゃうんですね。ひたすらに性が暴走していく様子、というのが描かれているがゆえに、障害などなくとも映画には絶えずハラハラが宿り続ける

 中間ポイントのあたりで描かれるのは、食と性の混融
 料理に出た食材を、阿部定は己の股ぐらに含ませ、それから吉蔵に食べさせる。こんな「食事効果」もあるのかと吃驚しました。食事シーンには、人々の結びつきを高める効果がありますが、それがこれほどあからさまに性と結びついた例を、ぼくは知りません

 中間を過ぎると、凶兆の気配が色濃くなります
「ペニスを切る」という事件で有名な阿部定ですが、それにまつわるやりとりがここで登場する(ちなみにこのシーンでは、ペニスでなく陰毛を切り、口に含みます。食事効果のだめ押しですね)。「正妻とヤったら殺す」という台詞で独占欲の高まりが示され、彼が暮らす家のガラスを、割るに至ります。暴力が次第に、はっきりとしたものになっていくわけです

 基本的には二人の交合が描かれまくる作品ですが、時として外部の視点も取り入れていて、効果的だと思いました。二人の部屋がいかに乱れているかを、女中の視点で語らせる場面がそうですね。体液のにおいで臭くなっている、というのを彼女の登場で示しています(おブスさんの女中ですが、彼女はやや大根でした)。客観視点を入れることで、狂気の深まりをわかりやすくしているのです

 二人の情愛はまさしく狂気に至っていき、いわゆる「首絞めプレイ」が出てきます。中間地点の食事シーンが「生」を表すのに対し、「死」を表すビートになっています。

 もうひとつ面白いなあと思ったのは、カンダウリズムのくだりです。独占欲が強まる一方で、阿部定は吉蔵に対し、老いた芸者とのセックスを求めたりもするのですね。部屋で二人がまじわっているところに、老婆の芸者がやってくる。その芸者とまじわるよう吉蔵に言い、吉蔵は吉蔵で実際にやってしまう。ここはまさしくカンダウリズムだし、しかも相手はババア。もう何がなにやら、という精神状況に至っています(カンダウリズムの意味はググってください)。ちなみに映画中盤、阿部定は小さな男児の局部を触ったりもしていて、年齢的な禁忌さえ、もはや見えなくなっているかのようでした。

 第二幕から第三幕への移行点は微妙ですが、強いて挙げるなら軍人が行進する場面。
 舞台は1936年で、戦争への足音が高まっていく時代。制服を着た軍人たちが行進し、沿道から日章旗が振られる中を、吉蔵はとぼとぼと逆行していくんですね。周りの男とはまったく違う道を選んでしまう彼の姿が、あそこに集約されています

 首絞めプレイがエスカレートし、最終的に吉蔵は殺されてしまいます。そして有名な、局部切断へと至るのです。松田英子は特に美人というわけでもなく、だからこそリアリティがいっそう引き立つなあと感じました。あれがわかりやすい美人だと、どこか綺麗事のにおいがしてしまうんですが、松田英子は平べったく凹凸の少ない、いわゆる日本人顔なんですね。それが時代感をより確かなものにしていたなあと見受けます。

 ただ、映画全体を通して、惜しくてたまらない点もあります。吉蔵の人間性がちっとも見えてこないんですね。彼はいわば『痴人の愛』よろしく、最初は制御できていたものができなくなり、それに飲み込まれていく役回り。その過程で彼女の狂気に向き合い、強がりながらも対峙しているのは、わかるんです。

 けれど、彼の背景が薄いんです。最終的には、彼が自ら死を望んだ風にも見えるわけですが、そこに至るまでの生活感とか、彼の人生感みたいなものが、どうにも描かれていない。阿部定の狂気はたぶんに描かれていたのですが、吉蔵はどうもへらへらと余裕をこいてるだけで、切実さがない。あれだとへらへらしながら死んでいった色情狂みたいに見える。彼の人生もあったはずだろうと、そこがもったいなく思えてなりません。

 ともあれ、ごまかしのない性愛描写は素晴らしいものがあるのでして、その狂気性も十二分に描かれていました。こちらの予想を超えてくる突飛さに溢れ、放縦なる性の営みが身体性をもって迫ってきます。これはもう、お薦めであります。
 

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by karasmoker | 2016-06-02 00:00 | 邦画 | Comments(0)
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