『愛を乞うひと』 平山秀幸 1998

「ほのめかし」の必要。
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 昔、ちらっと見かけた虐待シーンが脳裏にこびりついていて、いつかは観ねばと思っていた映画です。監督は『学校の怪談』シリーズや『必死剣鳥刺し』の平山秀幸氏。
 
 主演は原田美枝子で、一人二役を演じています。①戦後の時代と②現代とを行き来する構成で、それぞれの時代における「母」を演じているのですね。

 ①においては、主人公の照恵の過去が描かれます。幼少期に病気の父と死に別れ、母に引き取られたあとで、虐待を受ける生活が始まります。
 ②では照恵が大人になっていて、娘との二人暮らしが描かれる。照恵は亡き父の遺骨の行方が気がかりで、やがて娘とともに遺骨探しのため、台湾へと出掛けていきます。照恵の父は、台湾人だったのです。

 ①ではやはり虐待シーンが印象に残りますし、娘の不遇さが痛々しい。最初の明確な虐待は、煙草を掌に押し当てる場面ですね。祭の日に友達が誘いに来て、娘は母にお小遣いを求めるのですが、差し出した掌に煙草を押し当てる。事態の残酷さを描くうえで巧みであります。優しさを求めた瞬間に、暴力が返されるというのは、虐待描写として効果的であったと思います(言い添えておくと、ここではあくまで、脚本的手法に着眼して話をしています)。

 虐待シーンを容赦なく描いているのは、映画として切実であると思いました。國村準演じる義父は傷痍軍人で、子供には優しいのですが、母に対してはまったく無力。人格的にも卑屈で、虐待の怪我を物乞いのネタにしてしまったりする。もどかしいのは、この人には悪意がないということなんですね。貧しい生活の中、ほくほく顔で中学の制服を買ってきてくれたり、いい人なんです。単に、弱さをどこまでも内面化してしまったような人なんですね。暴力的な母親との対比が、なされていました

 あくまで映画手法の話ですが、「主人公をいじめる」というのは効果的な手法のひとつです。主人公が不遇の目に遭っていると、その分だけ観る者の哀れを誘いやすく、入れ込んで見せることができます。この映画では家庭内のみならず、学校での不幸な状況が描かれもしていて、観ている側は否応なく、主人公を励ましたくなってしまいます。

 嫌なシーンの多い①に比して、②は緩和剤の機能を担っています。
 大人になった主人公には娘がいて、演じているのは野波麻帆。①のか弱い娘とは反対に健康的な女子高生で、溌剌とした性格が観客をほっとさせる。90年代的な外見であることが、また余計にいいのですね。観てもらえばわかりますが、いい感じの90年代風情を放っている。ああいうのは、いいなあ。

 ②においては台湾のシーンが結構多いのですが、ここは脚本的にはやや間延びしたところでもあります。新たな出会いがあったり、旅の風景が描かれたりはするものの、ひとつひとつのシーンで効果的な前進が果たされているかというと、疑問です。このシーンでは絶対にこれを描きたい、この映画でこれを描くならこのシーンしかない、そういう必然性がやや薄弱で、情報的にはもっと詰められるところだったように見受けます。というか正直、映画として本当に肝心な部分は台湾シーンで出てこないので、観終えてみると蛇足的な印象が大きいシークエンスです。台湾の旅の終わりでは、かつて世話になった知り合いとの再会が描かれます。そして、亡き父の過去や、虐待した母との出会いなどがわかってくるのですが、この映画の肝心な部分に触れてくれないのが残念でした。それはまたあとで語りましょう。

 やはり熱量が高いのは①のほうで、虐待を受ける人生から逃避するシーンは白眉でした。主人公には種違いの弟がいるのですが、それまでずっと何もしてこなかった弟が、ここに来て彼女を救うのです。映画的な「伏兵」の重みを教えられる場面でした。

 おおむね見応えのある映画だったのですが、残念な点はいくつかあります。
 ひとつには、台湾への旅が結局のところ活かされず、遺骨のありかはなんと、日本の役所でちょっと調べたらわかったのです! なんじゃそら。本来なら、それを先に持ってくるべきでしょう。役所で調べてもわからないので台湾に行く、という形じゃないと、台湾が活かされないでしょう。

 また、実のところの背景が、どうにも見えてこないんですね。
 原作があるのでそちらにはもっと書かれているのでしょうけれども、なんであの虐待した母親が、娘を引き取ったのかがよくわからない。劇中でも、娘が尋ねるんですが、ぜんぜん明確な回答はないし、せっかく台湾まで行って話を聞いても、やはり見えてこない。

 母親がなぜ虐待し続けたのかって部分も見えづらいし、父親がなぜ母親と別れたのかもはっきりとはわからない。はるばる台湾まで行ったのに、明確なものが持ち帰れていないんです。

 ただ、ここが肝心なところですが、すべてが明示される必要はないんですね。人間の境遇や背景なんてものは土台、映画の中では描ききれないものです。ではどうするべきかといえば、「ほのめかし」をすればいいんですね。ちょっとしたアイテムを用いてほのめかせば、観客の側は勝手に想像するわけです。その意味で言うと、弟が刑務所にいるのはいい設定です。彼は詐欺で捕まってしまったのですが、そこまでの人生がなんとなく透けて見えてくる。ああいうのを、本筋にもっと織り込んでほしかった。

 たとえば、なぜ母親が虐待したのかという点。老いた熊谷真実が「お母さんも子供の頃、何かあったのかねえ」なんて曖昧な台詞を言いますが、ああいうことじゃないんです。そうじゃなくて、母親に「しるし」をつくっておけばいいんです。何でもかまわない。たとえば母親の腕に大きなあざがあるとか、そういう虐待のしるしがあれば、観客は想像します。「もしかしたらこの人も昔……」みたいなことをね。「それで連鎖してしまったのでは……」と想像できるわけです。もちろんこの方法には弱点もあって、「原因の矮小化」をさせる危険もあるのですが、何もないよりはいい。とにかく、母の来歴をほのめかすものが必要だった。

 歩み寄って解釈すると、冒頭場面。
 父が娘と去っていく点から見て、なるほど母は娘に「父を奪われた」感じを受けたのかも知れない。自分のもとから愛が消えてしまったことを嘆き、娘を憎んだのかもしれない。弟が虐待を受けなかったのも、そのためと言えるかも知れない。でも、それを傍証する台詞やシーンはない。母の内面が薄い。裏路地の娼婦だった過去が描かれはするものの、それをして十分とは言えません。裏路地の娼婦が愛を得られず育ったというのは、決めつけになるでしょうし。

 つまり、この映画はもっともっと、母の物語であるべきだったように思うのです。台湾めぐりは横に置いていいから。

 物語において、情報の明示が停滞を生むと考えられる場合、「ほのめかし」を効果的に用いるべきなのだな、と勉強になりました。そうすると、「あえて描かず、想像させる」という観客側の運動を生み出せる。それをやらないと、単に情報の不足になってしまう。観客になんとなく委ねてしまうのは、違うでしょう。それをやっていないので、わざわざ娘に語らせることになった。「骨探しではなく、母捜しでしょう」って、ついに明示させてしまった。
 
 だからこそ、最後のシーンがもったいない。
 成長した主人公は、かつて自分を虐待した母親と再会します。何を語るのだろうかと思わせつつ、実際は何も語らない。それでいて、向こうもこちらに気づいているのかなと、わかるように仕向ける。

 なるほど、その手法はいいんです。語らないのが綺麗です。
 でも、何かを語ってほしいとぼくは思った。なぜなら、それまでの部分で語られていないこと/ほのめかしすらされていないことが多すぎるからです。沈黙が価値を持つのは、既に多くが語られたあと。これ以上何も喋る必要がないときに、沈黙は初めて価値を持つ。この映画では、そこが十全ではなかった。あそこで語ってはいけないんですが、もっと前で語るべきことがあった。

 劇中、「台湾の人は血縁を大事にする」ということが明示的に語られて、なるほど虐待した母も、「血縁」を大事にして引き取ったのかなと思いきや、やはりそこは何も触れられない。ならば血縁の呪い性に言及されるかと思いきや、そうでもない。

 全体を通して見応えのある映画だったのですが、その分だけ惜しい点もありました。
 ②における原田美枝子の内面に依りすぎたのと、台湾シーンに手間を裂きすぎたのが難点かなと思います。この映画の瑕疵は「ほのめかし」ひとつで十分に埋まるものだったはずであり、そこに惜しさを感じました。とはいえ、一本の映画としての強さは十二分ですので、ぜひ観てほしく思います。 

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by karasmoker | 2016-06-04 00:00 | 邦画 | Comments(0)
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