カスタム・ファクトの誘惑、あるいはその時代

 昨今、巷に広まった言葉として、「フェイク・ニュース」「ポスト・トゥルース」といったものがあります。さらには「オルタナティブ・ファクト」なる言葉まで生まれる状況でありまして、とかく「真実に触れる」ことが困難な時代であるなあと見受けます。


カスタム・ファクトとは何か?
 一昔前はマスメディアが世間の情報を独占できたものでありますが、今ではひとりひとりがメディアの時代となりまして、「マスコミは本当のことを報道していない」「ネットに真相が書かれている」という論調がそこかしこに生まれるようになりました。

 この手のことで騒がしくなるのは、とりわけ政治の世界でございます。昨年のアメリカ大統領選が好例でありましょう。ネット情報自体が政局を左右する時代にあって、ニュースひとつ、情報ひとつが武器になる。真偽不明の情報がもとから溢れていることに加え、フェイクであっても有利に事を運べばそれでいい、と考える不届き者が出てきて収拾がつかなくなり、いやはや何が真実なのかと、まことに頭を抱えたくなる時世でございます。

 この状況を表す言葉が「ポスト・トゥルース」だったのかと思いますが、ぼくなりの表現で言うならば、現代は「カスタム・ファクト」の時代ではないかとも考えます。今回はこの「カスタム・ファクト」という概念を掘り下げたく思います。

 初めに言っておくと、この言葉はぼくが思いつきででっち上げた単語です。英語的には「カスタマイズド・ファクト」「カスタムメイド・ファクト」などというほうが正しいのかも知れません。意味はと言えば、「趣味に応じてあつらえられた真実」とでもなりましょう。「セレクテッド・ファクト」という言い方も適当かも知れません。

カスタム・ファクトの誘惑
 先に要点を述べてしまいますが、人というのは何につけ、「信じたいものを信じる」のですね。既に言い尽くされた表現ですが、ともかくも人というのは自分好みの真実を選ぶ習性があるのです。

 現代では何が本当で何が嘘なのか、あるいはどれほどまで辿れば正しい理解に辿り着けるのか、非常に見極めが難しい。そこまでにいろいろな情報を吟味しなくてはならないし、うっかり信じ込まないように絶えず疑いと警戒の気持ちを持たねばならない。はっきり言ってそれはとても手間が掛かるし、疲れるし、そもそもそれだけの手間を費やしても「本当の本当」に到達できる保証などない。人が信じたいものを信じてしまうのも、まあ致し方のない状況であります。

 そうなった場合、人が選ぶ合理的な行動は何か。
 自分にちょうどいい、ないしは収まりのいい、気分的に好ましいファクトを飲み込むということです。そうしないといつまでも精神的に落ち着かないからです。

 裏を返すと、人は精神的な安定を得るためなら、本当に事実かどうかというのをまさしく二の次にしてしまうわけです。別の人が真相として提示するものがあっても、精神的に不安定になる以上は受け入れたくない。そう考えた場合、人が「カスタム・ファクト」を見出すのは、とても自然なことなのです。

 カスタム・ファクトを選択し続ける限り、精神的には安定します。なにしろ耳心地のいいものだけを選ぶわけですから、不快な思いはせずにすむ。たとえ偏見がないつもりでも、人は確証バイアス、認知バイアスに絡め取られやすい生き物でありますから、自分でも気づかないうちに、好みのファクトのみを選び続けたりもするでしょう。

 特に現代の場合、カスタム・ファクトをつくりやすい時代です。ネット広告にしてもアマゾンのお薦めにしても、そのユーザーの好みをコンピュータが読み取ってくれる。こちらが頼みもしないうちから先回りして、好きそうなものを教えてくれる。過剰なまでのサービスが、考える前に答えを与えてくれる。特殊な趣味であっても、ネットの世界を一歩踏み出せばどこかしらに同好の士を見つけることができ、自分と意見を同じくする人たちが頼もしさを与えてくれる。くれるくれるくれる。

 ひとりひとりがメディアになれる現代は、ひとりひとりが自分に最適なものを選べる時代です。古く昭和の時代はケータイもなく、テレビも家族に一台しかなく、好きな番組が見られずに仕方なく家族の好きな番組を横で見ていた、なんて風景もあったわけですが、そんな話は今ではほとんど聞かなくなった。誰でも、自分好みのものを選べます。多少お金に余裕があれば、ネットでお気に入り商品をいくらでもゲットできる。

 さて、そうなった場合、情報もまた個人用にカスタマイズされるのは、むしろ自然なことでありましょう。事実かどうかよりも、いかに好ましいか、いかに精神的に安定できるか、そちらの優先度が高くなっても、何も不思議ではないわけです。

 だから、ぼくは言うのです。現代が、カスタム・ファクトの時代であると。

カスタム・ファクトの表れ
 しかし、この状況には危険性もつきまといます。
 信じたいものだけを信じることが可能な状況を突き詰めていくと、そこには(原理的な帰結として)カルトが発生します。真実かどうかが二の次である以上、居心地の良さをひたすら求めていけば、カルト的な狂信性に辿り着くのは時間の問題となる。むしろ居心地の良くない情報が、その人の背中を押しさえするでしょう。

 既にその兆候は、ネットのそこかしこに見受けられる。
 この文章を書こうと思いついたのは、あるネット動画がきっかけです。
 固有名は伏せますが、たとえば次のようなことです。

 あるテレビ番組がありました。その内容にデマや虚偽、いいかげんな報道が多く含まれているとして、抗議の声を上げる人(A)がいました。
 ところがその抗議に対して、「言論弾圧だ!」と食ってかかる人間(B)が出始めました。

 Aは「デマを訂正してくれ」と言っているに過ぎないのですが、Bにはそれが通じない。なぜなら、Bにとってその番組内容がデマではないからなんですね。「カスタム・ファクト」のなせる業です。Bとしては番組内容を十分に事実だと信じているので、Aの要望が「言論弾圧」という概念で捉えられてしまうわけです。

 むろん、Aが絶対に正しい保証もない。同時に、Bが正しい保証もない。
 それぞれが「カスタム・ファクト」の世界に生きている。

 これを解決する方法はただひとつ、双方が話し合い、双方が納得しうるファクトを導き出すことしかありません。逆に言えば、それができさえすれば、簡単に解決できるわけで、ある意味ではとても単純なことなのです。
 しかし、それは実際のところ、容易ではありません。
 いや、それが実は、本当に難しい。

 なぜなら。

 人は信じたいものを信じてしまうからです。

 ファクトよりも、カスタム・ファクトが尊いと信じ、そう振る舞ってしまうからです。

 現代において、カスタム・ファクトの誘惑を絶つのはきわめて困難だとつくづく感じる次第です。

 そしてこれもまた、ぼくなりのカスタム・ファクトなのかもしれません。

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by karasmoker | 2017-02-24 22:13 | 社会 | Comments(0)
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