「道徳自警団」を考える。


 古谷経衡氏の著書『「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす』を読みました。「道徳自警団」とは著者の造語で、いわば「不道徳ないし不謹慎な言動をした(と判断される)相手を、徹底的に追い込もうとする」タイプの人たちのこと。彼らはネット炎上のみならず、テレビ局や自治体の役所に対しても電話攻勢を繰り広げるなど、世間の「不道徳」や「不謹慎」に対して、苛烈とも思えるバッシングを行うといいます。

 本のタイトルの通り、著者は道徳自警団について否定的です。道徳自警団は「どうでもいい問題」にばかり拘泥し、政府や米軍などの巨悪に対しては無反応。その結果、真に論じるべき問題が隅に追いやられるうえ、自粛や規制ばかりが広がっていく現状があるとして、著者は憂いを表明します。彼らのやっていることは、まさしく中世の魔女狩りじゃないかという論旨です。

 ぼくも著者の主張にはおおむね同意です。対象者の弱みにつけ込む形で徹底的に糾弾する姿は見ていて気分のいいものではないし、自警団自身が決して、高潔な理念のもとに動いているとも思えない。まるで憂さ晴らしか嗜虐趣味の発露にしか見えない面も多々あって、彼らの振るまいが窮屈さをつくりだしている現状があるとすれば、あまり好ましいとは思えない。

 自警団の連中は巨悪を相手にしない、という著者の主張ですが、これはある意味で当然なのですね。巨悪を相手にしたところで、結局は勝てない。勝てない戦いをしてもストレスがたまるだけで気持ちよくない。それなら、勝てそうな相手を選ぶだけなんです。徹底的に叩いたら気分的にすかっとするし、正義の味方として勝利を収めるというお手軽な承認感情を得られる。何か社会に貢献したような気分にさえなれるわけです。

 ネットのみならず、テレビも道徳自警団の一部をなしている、と著者はいいます。これも道理ですね。視聴者を「いい気持ち」にさせるうえで、「自警団的コンテンツ」は有用なのです。芸能人の不倫がその筆頭です。不祥事を犯した芸能人を追い込むことで、テレビ局は正義面ができるし、視聴者もすかっとした気分を得られる。道徳自警団になると、大義名分のもとで嗜虐的快感を得ることができるのです。彼らが世間にはびこるのもむべなるかな、であります(著者は本の中で、経済的停滞が行動原理の背景にあると主張します)。

 彼ら道徳自警団がもし、違法行為を許さないというのなら、YouTubeをはじめとする動画サイトを問題視しないのはおかしい。テレビ局の番組は著作権違反のままにアップロードされ続けています。ゲーム実況もそのひとつで、あれはゲーム会社が黙認・許容しているから成立しているだけであり、法律的に捉えれば違法性はある。でも、そこについて、道徳自警団は別に動こうとしない。むしろその状況を進んで享受してさえいるかもしれません。

 以上のような振る舞いを見るに、道徳自警団は決して、高潔な動機や一貫した法的正義に基づいているとも思えない。彼らとともに武器を持ち、一団に加わりたいかといえば願い下げです。
 ただ他方、ぼくは彼らのような存在について、ある種の難しさを見出します。
 古谷氏は悪影響の部分を大きく論じている。
 けれど、彼らの存在にもまた、正当性がある
 この辺が、悩ましいところだなあと思うわけです。

 自警団である彼らは、不道徳や不謹慎を咎める。この姿勢自体は、本質的に間違ったものではないんです。違法行為を見つけたら、市民の義務として通報する。そのことが正しいならば、SNSでの違法行為に厳しい目を向けるのも間違ってはいない。テレビで差別発言があれば、それを問題視して抗議するのも、また間違ってはいない。

 彼ら道徳自警団に功績があるとすれば、「SNS上の風紀」を保っている、ないし促進したことです。一時期、「バカッター」という言葉が流行しました。バイト先やなんかで、従業員が不埒な振る舞いをしでかし、それをネットにアップする。これについて、道徳自警団が糾弾を繰り広げる。こうしたことが多く起こった結果、「ネットの危険」を社会に周知できたのではないかとも思うのです。

 バカッターを見過ごしていたら、今頃SNS上にはさらなるバカッターが出現していたかもしれない。ネットに対する向き合い方が緩み、ひどい動画や画像をあげる子供たちが増えていたかもしれない。道徳自警団の存在が、「ネットを使ううえでの緊張感」を青少年に持たせているという側面も、ぼくは否定できないと思うのです。「こんな画像をアップしたら炎上するぞ、やめておこう」という自制心を子供たちに植え付けたなら、それは意味のあることだともぼくは思います。

 ここに、社会哲学的ともいえる問題を見出します。

 不道徳なものを糾弾するのは、間違っているのか?

 昨年、松本伊予と早見優が線路に立ち入り、そのときに撮った写真をブログに掲載しました。すると、線路に立ち入るのは違法ではないかと声が上がり、書類送検にまで追い込まれました。

 いわば、道徳自警団は違法行為を摘発したのです。
 さて、その摘発は、間違っていたのかどうか?
 実際のところは、問題となった現地の踏切に一般人が多く詰めかけ、その一般人が線路に立ち入ったりもしたようで、むしろ違法行為を増やすという皮肉な結果を招きましたが、その事実は横に置きます。
 問題は、「道徳自警団の糾弾は、間違っていたのかどうか?」です。

 結論から言えば、間違ってはいません。違法行為に対する市民の通報義務を履行したまで、と言えるでしょう。
 何もそこまで目くじら立てなくたって、という気持ちはわかるし、ぼくもそう思う。でもこのケースにおいては、「道徳自警団はあくまで正しい」のですね。
 道徳的な振る舞いを、社会に広めよう。違法なものを許さない姿勢を、社会に示そう。
 その大義名分自体は、本質的に間違っていない。
 彼ら個人の嗜虐性がいくら下卑ていても、主張自体に間違いはない。

 ここが難しいなあと思うんです。そこの線引きが。
 道徳自警団の問題って、「線引き問題」に帰結すると思うんです。

「ベッキー・タイキック問題」もそうです。
「女性を暴行するのは不道徳である」というのはその通り。
だったら、「不道徳なものをテレビで流さないようにせよ」という主張として、まるまる認められるべきなのか。見ている人の一部が不快になる表現は、放送してはいけないのか。

 オーケー。
 ならばハゲ・デブ・ブス・チビをはじめとする表現もすべて狩るべきだ。ボケ・ツッコミで頭を叩くのも、厳密には暴行に当たるのでやめるべきだ。
 だって、不道徳だから。見ている人の一部を不快にするから。
道徳問題を持ち出すのならば、一律でなくてはならない。一部の人間や属性のみにその道徳を当てはめ、ほかの対象を放置するというその不公平もまた、不道徳である。
 ゆえに、真に道徳的であるためには、お笑いにおける多くの表現を一律に規制する必要がある。

 ……さて、ベッキー問題で騒ぐ人々は、そこまでの意思はあるのかどうか。ないとしたら、どこで線引きをしているのか。
 他方、ベッキーの件に一切問題がないという人は、どこまでの表現を許容するのか。線引きの基準は何なのか(ぼくの場合、彼女がタレントであるというその一点で明確な線を引きますが)。

 道徳自警団は、道徳的である。ゆえに、あくまでも正しい。
 けれど、その振る舞いは場合によってやりすぎにも見えるし、やりすぎではないと感じる人もいる。
 その線引きはどこでなされるのか。どこでなされるべきなのか。
 この問いについて、明確な答えをぼくは持ちません。
 いや、そもそも道徳それ自体、どのような線引きを持つものなのか、考え出すと答えはいっそう見えない。

 そろそろ疲れてきました。

 道徳自警団問題は、およそ社会哲学的な領域に踏み込んでいるなあという感想をもって、とりあえず今日はこの辺で。


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by karasmoker | 2018-01-10 19:37 | 社会 | Comments(0)
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