「バラエティ絶対殺すマン」と戦う方法。

 最近、ひとりこのブログで考え続けている『ガキの使い』問題、そして前回の「道徳自警団」問題。このあたりには、深いテーマが絡んでいるなあと思い、考えを続けていこうと思います。

 笑いと差別について、というのは昔から語られるテーマであり、最近ではテレビにまつわる規制も厳しく、表現の幅は狭められている。この方向を突き詰めていくと、およそほとんどのバラエティは、規制対象になりうると思うんです。
 
 そもそも差別とは何か。手元の電子辞書から引用すれば、
① ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
② 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その違い。
 とある。
 これって、笑いの本質部分と密接に結びついていると思うんですね。

 笑いというのはまずひとつに、差異から生まれるものです。漫才やコントにおけるボケが面白いのは、予想される普通の言動から外れているためです。どのように予想を裏切り、どのように日常感覚とは別の発想を持ち出すか。このあたりに、芸人は頭をめぐらせるわけですね。
 もちろん、そうでない笑いもあります。「あるあるネタ」が筆頭ですが、日常の中のふとした出来事を指摘して、笑いを生み出す手法もある。友近や柳原可奈子など、どこかにいそうな人物になりきったコントをするのも、あるあるの一手法。日常に対する批評的な笑いといえます。

ぼくがもし、「バラエティ絶対殺すマン」になったとしたら、これらについて苦情をぶつけるのは難しくありません。
 たとえば、この社会には知的障害者や精神障害者、あるいは認知症の老人などが多く生活しています。ボケ老人などという言葉もあるように、まさしく漫才のボケのように、突飛な言動に出る人もいるわけです。漫才やコントは、そうした人々の言動を連想させうるものであり、彼らを笑うことにつながるかもしれない。奇妙に思える行動をとった人間を笑っていいのでしょうか。笑いものにしてかまわないのか。そのうえ、ツッコミの芸人はほとんど叱責するような口調でそれを咎め、場合によっては頭部への平手打ちなど、暴行罪に該当しうる暴力を働くのです。
 漫才やコントの笑いは、特定の人々に対する差別を深めるものであると言えます。
 
 どこかにいそうな人物を演じて笑いを取るのもいけません。
 それを見て、自分の言動を笑われていると感じ、傷つく人もいるかもしれないわけですから、これを公共の電波で流せば、他人を揶揄することにつながります。デブ・ブス・チビ・ハゲなどの身体的特徴をあげつらうのも、当然御法度です。

 じゃあトーク番組なら問題ないかといえば、そうではない。芸人が自分の貧乏話を語って笑いに変えることがある。でもそれは、「貧乏を笑いものにしていいんだ」というメッセージを世間に伝えることになるのではないか。「バラエティ絶対殺すマン」は、そのような理路でクレームを入れることができます。その種の声が募れば、「芸人は自分の貧乏話をしてはいけない」という規制がつくられるのも、あながちないとはいえないでしょう。
 それだけではない。
「最近見た変な人の話」も規制できます。トークで語られたのは自分のことだ、笑いものにされたようで傷ついたと訴えを重ねれば、芸人のトークの多くを禁じられるでしょう。

 多くの笑いには、どうしてもリスクがつきまとうんですね。
 古典的なたとえでいけば、「バナナの皮で滑って転ぶ」のを笑うのも駄目です。転んだ人が後頭部を強打すれば、死亡につながる可能性もある。そのような事故を笑うのは間違っていると言えるし、転んだ人は痛い思いをしたうえに、間抜けだと笑われてさらに傷つきます。
その反応を見て笑うことは、「いじり」であり、いじりといじめは紙一重であり、教育的に問題だから規制せよ。さも正当性のあるような顔で、そんな主張することもたやすいのです。

「バラエティ絶対殺すマン」の手に掛かれば、過半のテレビバラエティにクレームを入れ、規制に導くのも難しくはない。笑いというのはその多くが、政治的正しさを逸脱するものであり、倫理的正しさから外れるものでもあるからです。そしておそらく、ほぼすべての笑いは潜在的に、反道徳的とされるリスクを抱えている。笑いが差異や批評によって引き起こされるものである以上、そこには常に、差別や排斥の種が埋まっている

 ならば、ネット番組なら「殺すマン」はやってこないのか。
 いや、いずれはネットにしたってその手を伸ばします。今でこそ、ネットの視聴者はテレビよりも少ない。だから、今はまだお目こぼしされている。けれど、この先ネット視聴がさらに広まっていけば、ネット番組もテレビと同じ運命をたどるのは必定です。それは五年後かもしれないし、十年後かもしれない。いや、もっと早いかもしれない。というか、SNSやブログでは、既に「殺すマン」がうじゃうじゃしている…………。

「殺すマン」は正しいのです。彼が目指すのはおそらく笑いのない世界ですが、言っていること「だけ」は正しい。その世界はおよそ社会主義的であり、差別や格差もないかわりに自由がないのだけれど、正しさというその一点においては分があるように思える。
「バラエティ絶対殺すマン」の理想郷は、共産主義的でもある

 ではどう抗うべきなのか。
 社会主義の正しさを、自由主義はどう打破できるのか。
 
 といえば、結局は経済問題に帰着するわけです。
 西側の自由主義が勝利したのは、東側よりも経済的な発展を果たしたからです。
前回取り上げた古谷経衡氏の書籍では、「道徳自警団を食い止めるには、経済成長が必要」と述べられていましたが、その見方は正しそうです。

 とて、経済成長が必要なんてのはわかりきっている。
 でも、社会一般においてはなかなかできないのが現状。

 じゃあ、どうすればいいのか。

 社会一般に広げると難しい。けれど、テレビ局だけならば手はあるように思う。

 スポンサーに対して、「規制のない番組のほうが視聴率が取れる」と示すことです。

 殺すマンの理想とする社会主義に抗うには、自由主義の経済的優位を示すほかない。
 視聴率が高ければスポンサーは文句を言わない=経済的な後ろ盾が生まれるわけですから、テレビ局は規制を度外視した番組をあえてつくり、数字という実績を示す必要があります。テレビ局自体、たび重なる規制によってテレビがつまらないと言われ、どんどんジリ貧になっている。この負のスパイラルを抜け出すには、自由主義サイドから逆襲をしかけるのが一番でしょう。

 どこの局でもいいし、ゴールデンでも深夜でもいいけれど、「この枠だけは規制度外視」という番組をつくってみればいい。視聴者にもそのことを伝えたうえで放送し、そこでどれだけの数字が取れるのか、スポンサーに提示すればいい。
 そこで、高い視聴率が獲得できたら?
 潮目は多少なりとも変わるんじゃないかと思うんです。追い詰められゆく自由主義圏が巻き返しを図れるチャンスです。

 もし視聴率が低かったらどうするんだ、そんな博打は打てない。
 
 だとするなら、テレビ局はこのままジリ貧。殺すマンのつくりだす社会主義的流れに飲まれ、経済的にも転落を辿るでしょう。面白い番組と視聴率が取れる番組は違う、と言われるかもしれないけれど、視聴率という「収益」が出せないなら、その面白さに経済的価値はないのです。いや、場合によっては、視聴率とは別の指標である「満足度」などを重視するのも手かもしれない。スポンサーを説得するうえでは、価値のある指標です。

 バラエティを救うための、具体的提案。
「規制を一切取っ払った番組枠をつくる。そこで、高視聴率や高満足度の結果を出す」

 さて、いかがなものでしょうか?


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by karasmoker | 2018-01-11 22:08 | 社会 | Comments(0)
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