『ゆれる』    西川美和監督 2007

時間的・空間的な蓄積の問題をどう解決すべきか
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 前々から観ようと思っていた西川美和監督『ゆれる』です。かなり期待してみたのですが、そのせいもあってか、鑑賞後感で言うといまひとつぴんと来ませんでした。わりとたっぷりと間を置く感じの演出で、嫌いじゃないはずなのに、何故か好きになれなかった。このもやっと感を誰か言葉で表してくれと願い、ネット上で探し回ったのですが、高評価を与えるものばかりで、さらっと観た限りでは辛口なものは見受けられませんでした。やはり辛口で書くというのは、多少根性が要るものです。誰も読んでいないようなこんなブログでも、誰かの目に触れる可能性がある限り、辛口がそのまま己のあほさを晒しかねないわけですから。でもまあ、それはそれでいいんです。下の文章を読んで、僕の阿呆さを指摘してくれたら、それはそれで有難いわけですから。なかなか誰も相手にしてくれないのですがね、ぶひひ。

さて、『ゆれる』が何故ぴんとこなかったのかなあと考えると、時間的・空間的な蓄積というのが物語の濃度において足りなかった、少なくとも僕にとっては足りなかった、というのがあります。たとえば、この映画において最重要点のひとつであるつり橋のシーン。真木ようこ演じるチエがオダギリ演じるタケルと出会い、恋します。そして、田舎から出たいと思い始める。飄々とした都会人となったかつての幼馴染を見て、自分の来歴が無味乾燥な灰色のように感じられてしまう。そうしたメンタリティは理解できます。
橋にまつわるくだりはその心情の具現です。山中、オダギリが橋を渡っていく。その姿を見る。自分も渡ろうと思う。香川照之演じる、タケルの兄ミツルは引き止めるが、ここにいてくれと言って自分も橋のほうに向かう。ミツルとタケル、橋のこちらとあちらが、そのまま自分のいる灰色の町と希望溢れるかのような都会に対比される。橋の真ん中に達し、タケルに手を振るチエ。そこにミツルがやってくる。

この直後で引っかかりました。チエは自分の服を掴むミツルに激高するんです。最初のハテナマークが点灯しました。いや、わかるんです。自分が進もうとするのを、自分が抜け出したいと思っている場所が離してくれない。タケルとミツルの対比は実にわかりやすくメタフォリカルです。そのメタファの構図に従えば、チエの激高もわかる。しかし、構図はあくまでも構図であって、人間ではない。あの状況で、チエがあんなにまで激高してミツルを拒絶するというのが僕にはどうにもしっくりこなかった。人の動きがメタフォリカルな構図を生み出していい具合の筋道が描けていたのに、ここに来てその構図自体が人を動かす力学になってしまった。順序が逆転してしまったんですね。意味わかります?人が動いて物語の道が出来るはずが、あらかじめできた道の上を人が歩いている、という感じを受けたんです。そういう印象を受けたゆえ、このシーンに入り込めなかったんです。そして、このシーンに入り込めなかったことが、この映画から受ける印象の方向を左右させてくれました。

 タケルの気持ちがこれまた僕にはよくわからなかったんです。
 タケルが落下を目撃したのか、したならば兄が突き落としたのかそうでないのか、それはこの物語の上で非常に大事になるわけですが、目撃していたなら何故落ちたチエのほうに向かわなかったのでしょうか。合理的な理由としては、タケルはその時点で「ミツルが突き落とした」という状況を目視したからです。事故で落ちたと思ったなら助けにいくか、助からないと思ったとしてもチエのほうに行かないというのは解せません。また、橋の上でのタケルの態度、橋の下を確認しようとしていなかったこと、それを踏まえ、やはりタケルは事実、落下を目視しており、なおかつそれが「突き落としたように見えた、あるいはそう感じた」のです。そして衝突などあって、その記憶に確信を持ち、証言台に立ってしまいます。

しかし、「七年後」のラストシーン、タケルは昔のホームビデオを見て「突き落としていない」という記憶が結実するにいたり号泣し、兄のもとへと向かいます。

人の記憶がどうたらということがこの映画に関して言われているようですが、確かに曖昧なものです。そしてそれはその瞬間だけではなく、そのときの精神状態にも左右される。同じものを見ても別物のように見えることはいくらでもあるわけです。弟は兄が突き落としたように見えた、あるいはそう感じた。であるならば、そのように見えてしまう要因、簡単に言えば「兄に対するわだかまり」があったと見るのが自然です。七年後のシーンが示唆するように、タケルは「突き落としたのを見た」のではなく、「突き落としたと思い込んだ」と見るべきでしょう。では、それは何故なのか。

僕が冒頭述べた時間的・空間的蓄積の問題というのは要するに、兄と弟の間にある溝とは何か、ということです。この弟は兄に対して何を感じているのか。逆の立場ならわかるんですが、この弟が兄に何らかのわだかまりなり劣等感なり、(名前は何でもいいのですが)「不快な感じ」を抱いていたというのが、時間的・空間的蓄積として見えてこなかったんです。それがこの映画に満足できなかった非常に大きな理由です。重厚感がなくて、なんだか薄いんです。雰囲気にごまかされてはいけません。演出のうまさもあって雰囲気的にはシリアスな感じでも、もっと奥の部分で薄い(薄いのはお前の見方じゃ、うちが教えたるわい、という方を心よりお待ちしているので誰か言うてな)。兄に対する和解にしてもそうで、七年間ほったらかしにしておきながら、ホームビデオ程度で全てを思い出し和解するというのでしょうか。雰囲気やなーという感じです。

うーん、田舎と都会のどうたら言う褒め言葉を見ましたけど、それなら同年公開の『幸福のスイッチ』のほうが、まったく別ですけどコントラストとしてちゃんと描けているし、この『ゆれる』には大して活かされていなかったと思いますねえ。装置としては機能しても、風味を醸していないという意味で。そんな感じですねえ。

我ながら辛口続きやなあ。いや、でも、それはそれでそう感じてしまったんだから仕方ないです。上記のようなことを指摘できる映画はいい映画と思うものの中にもありますが、「それは別にええやん」と、そういう映画は思わせてくれます。この映画は思わせてくれなかった。思うことが出来なかった、というわけですね。なんか文句のひとつも言うてくれるとありがたいですね。
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by karasmoker | 2008-01-25 08:43 | 邦画 | Comments(0)
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