『インランドエンパイア』 デヴィット・リンチ 『街のあかり』 アキ・カウリスマキ 2006

カウリスマキは格好悪いから格好いいのさ

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池袋・新文芸坐にてデヴィット・リンチ監督『インランド・エンパイア』、アキ・カウリスマキ監督『街のあかり』を鑑賞。

『インランド・エンパイア』は正直きつかった。訳のわからないものは嫌いではないが、この形では正直ものすごく疲れる。この映画の魅力がわからない人間はきっと何を言っても無駄であろうし、またこの映画の魅力がわかる人間の解説を聞いたところでおそらくその良さは解せないのだろう。かなり早い段階から「ストーリー」なる概念が意味をなさなくなるため、ついていけない僕としては、三時間はあまりにも長尺だった。「ああ、いつ終わるのだろう、もしかしたらこのまま永遠に終わらないのではないだろうか、永遠は言い過ぎとしても、このまま何年も映画が続き、気づいたときには『昭和生まれのじじい』などと揶揄されるくらいに年をとってしまうのではないか」という錯覚に囚われたのも事実で、置いてけぼりを食らった人間は途中で再乗車することが許されないような、そんな映画であった。わからないことばかりというか、この映画において読解できたことが少なすぎるため、これ以上は何も書けない。

さて、そんなわけで本記事のメインは『街のあかり』についてである。いやあ、さすがはカウリスマキである。三時間のリンチ、八十分のカウリスマキ、僕の中では断然後者の圧勝であった。これは大変に素晴らしい。僕のようなものにはものすごくしっくり来る映画である。といいつつ、別にお勧めしたりはしない。というのも、この映画に共感できる人間、この映画のよさをわかる人間は(リンチの作品がそうであるように)多分相当に少数派だからである。「社会」なるゲームを「処世術」とか「コミュニケーション能力」とかいう武器を使ってうまく進めている人には特に勧めない。そんな人たちにはどうせこの映画の魅力などわかるはずがないのだ。ヤンネ・フーティアイネン演ずる主人公は「処世術」も「コミュニケーション能力」もまったくないような、本当にどうしようもない男である。彼のその姿が実に僕にはしっくりと来た。高校生の太田光は太宰治を読みながら「自分のことが書いてある」と思い、90年代の若者は「エヴァンゲリオン」の碇シンジを見て「これは自分だ!」と思ったそうであるが、それでいうとこの主人公は僕にとってそのような存在である。あらすじをアマゾンから拝借する。

ヘルシンキの警備会社に勤めるコイスティネンは、同僚や上司に好かれず、黙々と仕事をこなす日々。彼には家族も友人もいなかった。そんな彼に美しい女性が声をかけてきた。ふたりはデートをし、コイスティネンは恋に落ちた。人生に光が射したと思った彼は、起業のため銀行の融資を受けようとするが、まったく相手にされなかった。それでも恋している彼は幸せだった。しかし、実は恋人は彼を騙していた。彼女は宝石泥棒の一味だったのだ…。

あらすじには「美しい女性」とあるが別に美しくもない。フィンランドでは美人かもしれないが、日本人は彼女を美人だとは捉えないと思う。コイスティネンを陥れるハニートラップの役割を果たすのだが、その割には綺麗ではない。だが、そういうところがいいのだ。カウリスマキの優れているところのひとつである。別に美人ではないのだ。ソーセージを売っている、主人公にただ一人寄り添う女性も別に美しくない。だが、それが絶妙な味わいを醸しているのである。コイスティネンがハニートラップに掛かった理由は、むしろその女が美人ではないからこそ説得力を生む。美貌に惹かれたのではなく、偽りであったとしても自分に注目してくれた、そのことに惹かれたのである。その証左は、コイスティネンが女の正体を鏡越しに確信したシーンである。彼は窃盗団の一味であるという冤罪を着せられるのだが、絶対に女のことを警察にも話さず、有罪判決を受けて刑務所に入れられてしまう。その刑務所の中で、ほんの一瞬、おそらく劇中でただ一度の笑顔を彼は見せる。この笑顔のことを語り始めるとまた長くなるのでやめておくが、コイスティネンが彼女のことを警察に絶対に話そうとしなかった理由を僕なりに解釈すると、「彼女が犯罪者の一味であったとしても、そして自分を陥れたとしても、自分が彼女に恋をしたその気持ちだけは本当なのだ」というその精神ゆえである。裏切られたとか騙されたとか、普通の人間は憤るものだが、彼は違っていた。絶望したからではない。あまりのショックに落胆したからでもない。もしも彼女に対する怒りが彼の中に芽生えていたのだとしたら、どうして彼は犯罪者のボスを襲撃しようとしたのだ? 彼女への怒りがあるならば、彼女を殺そうとしたはずである。だが、彼はしなかった。自分が恋をしたそのことを、彼は信じていたのである。

「初恋の人というのは、恋をするということを教えてくれた人のことさ」

僕の言葉である。どこかのキャッチコピーで使ってもらいたいところである。コイスティネンの恋が初恋かどうかはわからないが、ともかく彼は彼女を恨んだりはしなかったのだ。僕が自分とコイスティネンを重ねあわせた理由はほかにもあって、彼が釈放後に始めた仕事が皿洗いだったということである。僕は逮捕されたことがないのでその点は関係ないが、僕もかつて皿洗いのバイトをしていたのである。そのための皿洗い機械、その工程などが実に僕の記憶をくすぐるものであった。ラストシーンも秀逸である。それまでコイスティネンにただ一人寄り添ってくれた女性がおり、彼はその彼女に対しても心を開こうとしなかったのだが、最後のカットで彼は彼女の差し伸べる手にそっと自分の手を重ねる。馬鹿な監督ならその後の会話なり何なりを描いてしまいかねないが、そこはカウリスマキ、当然わかってくれている。そんなことはしなくていいのだ。無駄に話をさせるべきではない。あの終わり方はまことにもって完璧である。犬が黒人少年とともにいるのもよかった。

そんなわけで、カウリスマキの傑作を観て、実に僕は気分がよいのである。
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by karasmoker | 2008-01-25 08:47 | 洋画 | Comments(0)
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