『セーラー服と機関銃』  相米慎二 1981

人形と後姿が魅せた、あやういバランス

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 こういう映画っていうのは、どこをどう仕掛けてくるかわからない怖さみたいなものがあるんですね。最近の映画はいい意味でも悪い意味でも整っている、うまくなっているという感じがするんですけど、今回の作品はもっと攻撃的な感じがします、時代的なものですかね。うん、芸術に走っているわけじゃないのにちょっと妙なカメラワークをしてみたりとか、たとえばそれはもう、始まってからすぐの薬師丸のブリッジに象徴されていたと思いますね。この映画はこんな感じでいくで、ついてきてなという監督の意気込みが、あのブリッジに冒頭から示されていたように見受けました。

 最近でもドラマ化されていたみたいですけど、この映画の魅力ってたぶん、テレビドラマの文法では表現できないんですよ。女子高生がヤクザになるという突飛な設定がもとにあるので、ドラマにしても面白いだろうと思いきやそうではなくて、やはりその魅力は相米慎二の長回しや遠景からのショットがあってこそなんです。だからドラマの作法では収まらないんですね。

 なんやねん、というつっこみをしたくなる映画です。それが心地よくもあったり、これはどうなんやというのもあったり。細かいところですけど是非言っておきたいのは、ラスト近く、渡瀬恒彦が大門正明をおぶい、薬師丸とともに歩くシーン。そこに出てくるひとつの人形が僕にはものすごく面白く感じられた。あれは珍妙な、心に残るシーンです。一分程度なんですけど、画面の左側には流血した大門を背負う渡瀬、中央には彼らを見送る薬師丸の後姿、そして右側にはその人形。なんか、この映画を象徴するもうひとつのカットのように思えてね。本気さと馬鹿らしさが混在しているんです。主人公の薬師丸を視点にしながら、本気さと馬鹿らしさが左右にぐらついていく、この映画にはそういう有用な小物がちりばめられていました。

三國連太郎の登場するあのカルトめいたシークエンスは僕は嫌いでした。原作ではどうだったか知らないけれど、映画では浮きすぎていたというか、どうしてあそこにあんな感じのものが入るのかまるでわからなかった。いや、確かにそれはあの作品のカルト・ムービーらしさを際立たせるものであって、仮にあの道を回避して深刻で現実的なヤクザ劇にしたら、この映画の持ち味が浮き出てこないのかもしれないけれど、それにしてもまるでショッカーの基地みたいでしたから。猿の脳みそを食うとかいうあのくだりも、あのおっさんのぶっ飛んだ感を出したかったのかもしれないけれど、原作にあったとてそれを映像化するといかにもしつこい。もうちょっと緩和した形のほうが心地よかったです。しつこい味、というのがあのシーンの印象で、「でもそのしつこさがいい」のほうには行けなかった僕です。そこだけが難点でした。

結構ばらばら感のある映画ではあるんですけど、分解しているという印象はありません。やはりさすがの仕上がりというか、きちんとひとつの空気を構築していました。それは女子高生がヤクザの組長という珍奇な設定を、ちゃんと弁えていたからでしょう。危ないラインではあるんです。珍奇な設定というのはいわば現実から非現実の幅を大きくする舞台設定を意味していて、そのため遊び場がたくさんある分、遊びをしくじりやすい。しっとりとしたラブストーリーにし過ぎたり、どうでもええことに尺を割いたりとしてしまいがちだと思うんですけど、この映画はそういう愚を犯していない。薬師丸と渡瀬の関係もすごく心地いいですね。あの関係をちゃんとしたことがこの映画の大きな勝因の一つでしょう。あれをラブストーリーにしすぎると失敗なんですが、最後のように死体に口づけするくらいの間合いであったのがいい。その関係性はもしかしたら原作の勝利なのかもしれませんが、そちらは読んでいないのでなんともいえません。
「組長に合わせて事務所の感じを変えてみました」というシーンが劇中ありましたが、あの空気もいいです。安っぽくて、ちょっと汚くて、可愛らしすぎず、決してスタイリッシュではない。その中を渡瀬が雑な掃除をそれでも一生懸命しているところなど、絶品です。ヤクザでありながら聖家族的で、しかしヤクザの因業から逃れられぬゆえに一瞬でその幸福が崩壊する。そのあやういバランスがあるからこそ聖家族性が引き立つ。実に巧妙でした。

これはなかなかの作品だなあと思います。最近はいい映画にめぐり合うことが多く、非常に楽しいです。
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by karasmoker | 2008-02-01 13:08 | 邦画 | Comments(0)
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