『荒野の決闘』 ジョン・フォード 1946

スタンダードを知らぬゆえのコンプレックスを感じています
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古い映画については、最近のそれと比べて、語ることに対するちょっとした抵抗があるというか、僭越さを感じるというべきか、どうしても難しさを覚えてしまうんですね。歴史を知らないことに対する強いコンプレックスがあるんです。どういう時代背景の下に、どういう文脈の下にその映画があるのかわからないことについてコンプレックスがあって、だから僕は古いものを最近観ようとしています。一応、それなりに観ていかないと結局どうにもならないなあと思っています。

確かに古いものの中には、今観ても感慨がないという類のものもあります。ビリー・ワイルダーは好きな監督ですが、『サンセット大通り』『失われた週末』などは、今の僕にはぜんぜん響きません。でも、そういうものも含めて歴史をわきまえないといけないと思いますね。そういう態度を持って観ていくと、たとえば『2001年宇宙の旅』という40年前の映像イメージを、いまだに誰も超えられていないということもわかってくる。新しいものを悪いといっているのではなくて、古いものを見ない限りは新しいも何もない、ということですね。僕が最近よく行くバーのマスターは新作映画を追いかけまくる人なんですが、それはあくまでも古いものを押さえた上でのことですからいいのです。ただ、古いものを観ないまま宣伝に乗せられ、映画館に足を運んでも、やっぱりそれは仕方ないんです。映画は話のネタにすべきアイテムではないと思っていますから。

さて、『荒野の決闘』です。なんというか、子供にもわかる格好良さみたいなのがありますね。あくまで大人向けで、子供が喜ぶようなものでは全然ないのに、子供も格好いいと感じるような。日本映画の侍とアメリカ映画の西部保安官、実際の歴史上の存在としてはぜんぜん違うものですが、侍よりも歴史が浅い分、わかりやすく格好いいという感じがあります。侍の格好良さって子供向けじゃないんですよ、でも保安官って子供にもわかるわかりやすさがある。こんなことを感じるのは僕だけでしょうか。

この映画だけの話をするにはまだ僕の歴史知識がなさ過ぎてあれなのですが、なんというか、非常にシンプルでありながら、ある種のスタンダードというものがここにはあるなあという感じがします。ハリウッド黄金時代と呼ばれるだけあって、夾雑物の少ない、純粋な娯楽映画というか。今はもう、過去に散々やりつくされていますから、何か変わったことをしなきゃいけない。普通のものをつくったら「何をいまさらそんなものをつくっている」と言われかねないわけですけど、この時代は堂々と自信を持ってひとつのスタンダードをつくることのできた時代であって、だから迷いがないんです。それに加え、先ほど言った「西部保安官的わかりやすい格好良さ」があるので、やはりひとつの王道を観た思いなんですね。あと、これはまあ映画によるでしょうけど、特にこの映画の場合、非常にあっさりしていますね。弟が殺されてしまうところとか、踊り子の女の正体が発覚するところとか、クラントン一家が保安官の一人を殺すところとか、今の時代の演出では、洋画も邦画も含めてまずありえない、あっさりとした感じ。

『荒野の決闘』というからもっと男くさい話なのかと思いきや、女性が結構絡んできたりして、その点は意外でした。観て知ったのですが、原題は『My Darling Clementine』ですからね、この原題を『荒野の決闘』と訳したのは思い切りがよすぎます。もうちょっと色気のある訳し方はなかったのでしょうか。タイトルにもなっているクレメンタインが非常に綺麗です、僕の好きな顔です。

うん、いやあ自分で書きながら今回はなんとも底の浅い映画評になりました。いかんいかん。これでは阿呆のブログだと思われても仕方ありません。やはり古いものを語るにはもっとちゃんといろいろなことを知らないといけないなあとつくづく実感します。ちょいと出かけなくちゃいけないので、この辺で。
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by karasmoker | 2008-02-07 14:39 | 洋画 | Comments(0)
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