『フロント・ページ』 ビリー・ワイルダー 1974

傷つけない面白さ、傷つけてもきちんと救う格好よさ
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ビリー・ワイルダー的コメディというのは、もうアメリカにはなくなってしまったのでしょうか。それとも鈍感で情報収集量の少ない僕が見過ごしまくっているだけなのでしょうか。わかりませんけれども、久々にワイルダーのコメディを観て、やっぱりいいなあと思う僕です。太田光が好きな僕は、彼がその著書で再三チャップリンに触れているのを知り、一時期チャップリンを見まくって大体の有名どころは見尽くしているのですが、そこまでぴんとこなかったんです。チャップリンが飛んで跳ねてしているものにそこまで面白さを感じない。やっぱりワイルダーのような、あるいは三谷幸喜のようなコメディにこそ惹かれるのです。ウディ・アレンなども面白いとは思うのですが、その面白さはあくまでもワイルダー的な正当なコメディあってのものだろうなと思うし。

いきなり終わりの話をするのもあれですが、この映画のエンドロール、それぞれの登場人物たちのその後が描かれているのがどうにも好きなんです。あの終わり方がいいのは、不幸の影を見せていないこと。すごく気持ちのいい終わり方ですね。死刑囚は処刑されておらず、睾丸を撃たれた博士も『不能のよろこび』なる著書を記したなど、細かいところにも救いがあって、そういうところはやっぱりいい。無理なくハッピーエンドになっているんです。ジャック・レモンとスーザン・サランドンのカップルが破局したことを知らされても、劇中でレモンが新聞記者として熱中しているのを示しているので、なんら問題ない。別れた女性が子供につけた名前もいいじゃないですか。ああいう風な終わり方はひとつの理想という感じがするんです。いや、さして難しい技巧があるわけじゃないんですけど、観終わった後の爽快感を演出するというかね。

内容についてですが、観客を飽きさせない密度というのは大事ですね。当たり前のことかもしれないけれど、娯楽作品である以上はやはりその当たり前のことが大事で、この映画でもどうでもいいような部分はほとんどない。すべてちゃんと必要な情報としてもたらされているので、弛みがないんです。展開の早いコメディですからそうなるのでしょうけど、僕にはすごく心地いいテンポだった。ぜんぜん時間が気になりませんでした。僕の場合、時間を気にしてしまうことがわりと多いんですけど、これについてはなかった。やはりそれは熟練されたテンポ感ゆえなんでしょうね。リアリティがどうだとかいうことを言われるかもしれませんけど、そんなものはどうでもいいんです、こういう映画については。リアリティというのはもちろん大事な要素ですけど、何もかもに当てはまる金科玉条じゃない。この映画はもっと気楽に楽しめばいいんです。

結構小ネタの部分で好きなのが多いですね。新人記者が小便を漏らして、それが後々フィルムの現像のときに仇になるところとか、ウォルター・マッソーが駅に仕掛けていたあれであるとか、そういう小ネタが充実していると、そのコメディはやはり優れたものになります。うん、小ネタの配置って大事ですね、そこにセンスが出るというか。だから駅の家族役を出すところなんて、本当に、僭越のきわみここにありですけど、ワイルダーはセンスがいいなあと思うわけです。スーザン・サランドンという女優はよく知らなかったのですが、非常に声がセクシーアンドプリティですねえ。あの声はとても好きです。うん、そういうところが印象に残っているところかなあ。

さっきの話に戻るようですが、誰も傷つけないというのはやっぱり格好いいんですよ。何かにつけて穏やかじゃない話を持ち出して人目を引いてっていうエンターテイメントが多い中で、誰も傷つけていない。いや確かに娼婦は窓から転落したし、博士は睾丸を撃たれてしまったけれど、そういうことは後でちゃんとフォローしていますからね、『不能のよろこび』として。これは三谷幸喜でもばっちり受け継がれていて、結局誰も傷つかないようにつくられている。そういう作品って、本当に素直に「面白かった」と思えます。道具みたいにぶち殺しまくった挙句面白くない、という作品もある中で、誰ひとりとして傷つけずに面白いものをつくるというのは、やはり巧みなんですねえ。うん、まあ、この辺で。
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by karasmoker | 2008-02-11 01:16 | 洋画 | Comments(0)
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