『今宵、フィッツジェラルド劇場で』 ロバート・アルトマン 2007

ある意味で、こんなに困惑させる映画を僕は知らない
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ロバート・アルトマンという監督のことを、僕はぜんぜん知りませんでした。名匠として名高い人らしいのですがまったく知らなくて、この遺作が初鑑賞になります。新宿のバーでもらいました。マスター、ありがとうございました。映画のことを語れるバーが二件あって、一件では2007年のベストワンと伺い、もう一件ではぴんと来なかったと聞きました。キネ旬では昨年の第三位でした。

 さて、映画についてです。
 時間が気にならない映画というのには二種類あります。ひとつにはとても面白い映画、もうひとつには引っかかるものがないまま流れるように過ぎていく映画。この作品に関して言えば、僕の場合、後者でした。

 ストーリーのあるなしというのは映画の出来不出来に関係ありません。ストーリーがよくてもつまらないものはつまらないし、ストーリーがなくてもいいものはいい。この映画は長年続いた劇場の最後の日の話ですが、ストーリーはないようなものです。ではそうした映画に何が問われるかというと、ひとつには風情の問題があって、この映画にはどうにも風情を感じることが出来なかったんです。

ちょっとわからないのは、この映画が、こうした映画でいくらでもできるはずのことをすべて外してきていること。その外し方が徹底されているので、あるいは別の意図があるのかもしれません。たとえば、こうした劇場映画の場合、その限定空間性がひとつの武器になります。ひとつの場所で複数の人間がいる場合、あちこちに動き回る映画よりも舞台の濃度を格段に高められる。人々の間ではなく、その場所に映画としての息吹が宿る。三谷幸喜が好例ですが、ドラマでいえば『王様のレストラン』『今夜、宇宙の片隅で』『総理と呼ばないで』、映画で言えば『ラヂオの時間』『THE・有頂天ホテル』、脚本のみ携わった映画ならば『笑の大学』、こうした作品群においてはほぼひとつの場所、ひとつの舞台だけで話が進行した。その中で、場所にこそ宿るものがあった。誰もいなかったとしても、そこに何事かを感じさせる、限定空間性を大いに拡張した映像作品です。舞台出身の三谷ですから特になんでしょうけれど、そうでなくても限定された空間には、人々の生み出す独特の空気が自然に生まれてくるんです。ここで紹介した作品では『カッコーの巣の上で』が好例でしょう。しかしこの『今宵、フィッツジェラルド劇場』には、そうした限定空間の濃度がないんです。これがわからないところです。作り出そうとしてしくじっているわけではない。むしろ、そうした限定空間性を活かすことを回避しているようにさえ見える。それは登場人物が画面に映るときの大きさからも明らかです。この映画では登場人物たちに寄ったショットが多い。そして引いたショットは極めて少ない。これにより、狭い空間がさらに狭く感じられ、この劇場の広がりがまったく掴めず、なおかつどういう構造を有しているのかも明らかではない。劇場の外観も入り口が示されるばかりです。悪いといっているのではない。その意図が僕にはわからないということです。

ではその大写しになった登場人物たちに息吹があるかといえばそれもない。長く続いている劇場といいつつもそのことを傍証するような趣はなく、出てくる人々がどのようなバックボーンを抱えているのか、どういう性格があるのかもただ語られるばかりで一向に示されはしない。それは意図的と見るより仕方がありません。彼らは喋る駒でしかなく、そこには彼らの来歴を浮かび上がらせるものが何もない、たとえ妊娠した女性がいても、彼女のことが後は何もわからない。老人が死んだと言って皆が悲しんでも、彼ら彼女らとあの老人のこれまでを描き出すものがないので、こちらには何も伝わらない。繰り返しますが、それを悪いといっているのではなく、ここまで徹底的に、何一つ印象に残らないようにつくっているそのつくりの意図が、僕には見えないということです。使えるものが目の前に沢山ある。でもそれに対して完璧にそっぽを向いている。その理由がわからないんです。

そんな一方で、天使を名乗る女が出てきます。まったくもって天使らしくない彼女。ここでも外してきています。ショーの場面にしても、完璧に薄い登場人物たちが歌っているだけです。この映画はその意味で難しいです。何かを仕掛けようとしてしくじっているわけではない。むしろ何も仕掛けようとしていない。何かが起こってもよさそうな舞台設定で観客をひきつけながら、これほどまでにすべての効果を殺している映画はあるものではない。何度も言います。悪く言っているのではない。むしろこれは、僕の映画を観る目がまだまだ足りないという自分の無力さの表明と受け取ってもらうほうが穏当でしょう。ストーリーがないのに、風情もない。深みを出すことをむしろ嫌っているようにさえ見える。ある意味で、こんなに困惑する映画はない。明確な評価は避けたいです。このアルトマンという人のほかの映画を観ないことには、本当に何もいえない。

映画をいいと思うか悪いと思うかは、畢竟感覚的なものです。その映画から感じる得体の知れぬものを愛でることが醍醐味であり、その得体が知れないからこそ個人個人の独自のフェイバリットが生まれる。この映画について言えば、どういう人がどういう風情を感じるのか、僕にはまったくわからないんです。今度、新宿で聞いてきます。
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by karasmoker | 2008-02-19 00:38 | 洋画 | Comments(0)
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