『奇妙なサーカス』 園子温 2005

なんだかんだ言いながらも、とりあえず観ろとしかいえないし、是非観てほしいですね
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園子温作品は『紀子の食卓』に続いて二作品目の鑑賞なのですが、今回も強烈でした。強烈な映像を撮る、作品を撮る監督は歴史上世界に数多いると思いますが、日本ではこの人が今現在、ダントツのトップなんじゃないかと思います。ホラーとかスプラッターとか、そういうレベルの強烈さではなく、もっと嫌らしいというか、かなり屈折した強烈さがあります。この点においては、今の邦画界で良心的な作品を生み出す黒沢清、青山真治といった人々とはそもそも住む世界が違う感じがします。どっちが上とかじゃなくて、ぜんぜん違う方向を向きながら、日本の映画を支えているという感じ。

まず述べたいのは、この人が使う役者たちは皆、瑕疵のない演技をするということ。役者の力というよりもこれはもう監督の力だと思うんです。なかなかそういう監督は今、いないと思いますね。先に揺ぎ無い世界観を構築した後で役者を遊ばせていて、役者は決してその世界観を壊さない働きをしている。これは何なのでしょうか。定評のある役者たちを使っているというわけではないのに、定評のある役者たちががんばるよりもはるかに良質なものに仕上がっている。その映画の持つ空気、エネルギーがそうさせているんですね。思い切り突飛な世界であり、まあ言えば非現実的な世界であるはずなのに、ちっとも浮いた感じがなく、その世界の人間として役者がそこにいる。こういうことができる監督は、繰り返しになりますが、現代の日本映画には非常に稀だと思うんです。

あと、音楽の感じもものすごく僕は好きです。今日の僕は、酔いながらの帰り道、「名前のない仔犬」をずっと口ずさんでいました。『紀子の食卓』でも、穏やかな音楽をずっと鳴らしながらの登場人物の独白があり、彼らはそのナラタージュの中、社会から漏れていく。あれねえ、音楽なしのナラタージュだと駄目なんですよ、声のもたらすものが強すぎるから。声が情報になって、喋っている自意識が浮き出てきて、絶対浮いてしまうはずです。でも、この監督はそれをさせない、絶対に浮かせない。音楽によって独白を中和し、あるいは独白をも音楽化して、ナラタージュにしている。おどろおどろしい音楽なんて使わないんですね。それが既に陳腐であることを知っているというか、だからこそありきたりな音楽の構成は絶対にしない。先ほど述べた「名前のない仔犬」も自分で作曲しているというし、クレジットでも監督・脚本・音楽・園子温となっているし、かなりその点においてこだわっているのがわかります。役者をその世界の住人にするうえで必要な音楽という演出を、非常にたくみに活用している。僕はあまり音楽に明るくなくて、映画を観るときもあまり重視しないんです、実際。サントラに惹かれるということもあまりない。でもこの監督の場合は別です。この人の使う音楽のセンスは実にすばらしい。その点に注目して観てみてください。

あのー、おそらく映画っていうのは、その世界観を完璧に提示した瞬間に、ほとんど勝ちだと思うんです。不味い映画がどういうものか、そこに共通しているのはひとえに、世界観がしっかりしていないことだと思う。この映画はまあ言ったらめちゃくちゃな部分が多いというか、むしろまともな部分のほうが少ないというか、有体に言って現実的な感じは全然ないですよ、学校のシーンひとつとっても、もうありえない世界です。でも、それをして突飛過ぎるとか、非現実的だとかいうそしりを投げる鑑賞者は悪いけど馬鹿だと思いますね。そんなことはすべてわかった上なんです。むしろ現実性に拘泥して世界観をまともに作り上げられないほうがよほど愚かというか、どうでもええことに縛られとんな、と思うわけです。かといってまあ、迂闊に真似はできないところではあるんですけどね、なまじぶっ飛んでしまうと、今度は足元が崩れてしまうことがあるので。この映画の場合、冒頭からあの訳のわからぬショーのシーンで始めていますよね。最初から、「この感じでいくで、ついてきてな」という態度を示しているのが大変好ましいと思います。

ストーリー的な部分で話すと、まあこの映画をストーリーだけ切り取って語ることは無理なんですけど、めちゃめちゃ嫌な話で、めちゃめちゃ嫌な真相がありますよね。この映画の場合、移入が難しいです。観ている人の大半はおそらく、あの少女に移入して世界を眺めていくと思うんですよ、でも、途中から母親がメインになって、「あら?どういうことなんや」となっていって、どうやらあの少女がこの母親と同じになっているらしいぞ、と思って、で、最後に裏切られると。だからもう、大半は妄想のもとに繰り広げられているんですけど、あのサーカスシーンを冒頭に設定してラストに入れて、すべてを包み込む形になっているじゃないですか。だからもう、何が現実かとかどうでもいいんですね。そもそも映画における現実ってなんやねん、ということでもあって。夢オチは最悪やというのが世の中の常識となっていますけど、これはもう夢オチとかそんな次元にもないし。最初のほうからのどこからどこまでが本当のことで、どこからどこまでが妄想なんやというのもよくわからないじゃないですか。そう、だから、ストーリーについて云々語るのは無意味かもしれないですね。これこれこういう話やで、というとこに落ち着けないです。難しいですよ、この話の筋を人に説明するのは。いや、それはやろうと思えばできるけど、それが正しい解釈として成立しているかというと、あのサーカスのラストですべて怪しくなりますからね。

いずれにせよ、久々に強烈なものを観たなあという印象です。それは見た目のグロテスクさもさりながら、もっと別の部分ですね。グロテスクな映画なんていくらでもあるわけですけど、この映画のグロテスクさって、可視的にスクリーンで描かれている表現以上のものです。その点を感じることができないと駄目です。見た目のものはあくまでも見た目でしかないでってことがわからないと楽しめようもありません。

R-18ということですね。まあこれは、あらゆる意味でテレビではできないです。ただその分、こういう映画を映画批評家が褒めていかないと映画が伸びていかないと思うんですけど、批評家内での評価はどうなのでしょう。詳しくないので知りませんけど、ある意味で、これがメジャーになってもそれはそれでまずいなあという気がするし。難しいのは難しいですね。この映画を宣伝する文句を書きなさいといわれたら僕は、なんだかんだと書いた上で言うのもあれですが、「とりあえず観ろ」としか書けません。でも、凡百の映画よりもはるかに、映画という媒体でしかできないことを成し遂げているのは、これはもう間違いありません。
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by karasmoker | 2008-02-22 04:33 | 邦画 | Comments(0)
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