『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー 2005

メッセージと物語が実にうまく合わさった寓話
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『ドッグヴィル』の続編である『マンダレイ』、白線や最低限の小道具だけで物語の舞台をつくりだし話題を呼んだ前作に引き続き、今回も同様の殺風景な空間で話は進められます。主人公グレースはニコール・キッドマンに代わり、ブライス・ダラス・ハワードという女優になりましたが、この人がよかったです。ウィキペディアの写真はやけに不細工なんですが、この映画の中では綺麗で、いかにも使命感に燃える女子大生みたいな感じがよく出ているんです。この映画は時間軸的に前作の後ということになっているので、グレースがえらく若返ったなあというのはあるんですけど、吉と出ました。黒人差別を打開して自主的で民主的な共同体を作らねばならぬ、という理想に燃えている彼女の表情が、なんともいいんです。この人物が一生懸命やりながらも苦闘している、苦闘しながらも懸命になっているという風情が実によく醸されている。

だからその分、結末のいっぱい食わされた感じがいいんですね。伏線が炸裂しているし、その点非常に好感が持てます。『ドッグヴィル』よりもいいと思います。ロケーションを行わずに風景を欠落させている点で舞台演劇的である、というのはそうなのですが、こういう試みは好きです。舞台演劇的ではあるが、じゃあこれを舞台でやったら同じ面白みが出るかといえば必ずしもそうではないはずで、たとえば舞台全景を上から見下ろすショットとか、魔王の井戸を回転しながら上で撮るところとか、ラストのグレーズが置いていかれる場面のカットバックとか、そういうのは舞台では原理的に無理ですからね。そういう意匠を凝らした上でのあの舞台設計は、ロケーション映画にも舞台演劇にもないものを確かに生み出しうるのです。忘れてならないのは、映画という表現形態を持ちながらあえて空疎な舞台を作り出した意味。奇を衒っているだけではもちろんなく、この方法はそのまま寓話性を高めることに直結しているのです。

グレースの人物像がいいのは、先ほどもいいましたが、理想的で愚直なところ。その人物造形が後にアイロニーを描き出します。理想的で愚直で道徳的であるがゆえに、その理想事態が持つ愚かさ、道徳自体が持つひとつの差別思想が露見してくるというのはとても小気味よい。いくつもありますけど、印象的なもののひとつが、白人が黒人たちを牛耳り続けた罰として、グレースの命令によって顔を黒塗りにされて奴隷であった黒人たちに仕える場面。これはグレースが知らず知らずに見せた差別性の表れですよね。本来なら、白人が白人として黒人に仕えねばならないはずなんです。それによって今までの刑罰となるはずなのに、刑罰を受ける者の顔、仕える者の顔を黒くしてしまえば、それはあくまでも黒人を下に見ることにしかならない。「黒人を馬鹿にしてきたけど、黒人になって嫌な気分だろう」みたいにしてしまえば結局、「黒人になるのは嫌なこと」というあり方自体は変わらないわけですから。あとはマンシとマンシーですよね。白人とか黒人とかで差別するのはやめましょうよ、と主張し続けてきたはずのグレースが結局、マンシとマンシーという区別に囚われ続け、マンシーを罵倒して鞭を放つ。奴隷解放、その後の「善き」共同体の構築、それを広めようとしつつ、無邪気に「自由」を称揚し続けるアメリカに対し、「おまえらの言うてることなんて所詮嘘やんけ、見せ掛けだけやんけ」と言うマクロのアイロニーでもあれば、それはつまり個人個人が持つ似非平等主義というミクロに向けられた矛でもあるわけで、グレースに両手離しで好感を持ち続けた輩を強烈に殴りつけてくれます。

この『マンダレイ』において最も価値ある点は、そうしたアイロニー、メッセージを中軸に据えながら、それが見事に物語機能と調和している点。物語の流れ、筋としての面白さが、そのままメッセージを伝える方法と合わさって成り立っている点。これは非常に勉強になります。『ドッグヴィル』ではその映画的特殊性に目が行ったし、監督してもその特殊な映画を成立させることに力が入っていたと思うんですが、今回はそれを我が物にしたうえで物語を作っているので濃度を高めることができている。いい映画だと思います。
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by karasmoker | 2008-03-29 00:33 | 洋画 | Comments(0)
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