『ザ・マジックアワー』 三谷幸喜 2008

三谷幸喜は従来の枠組みに疲れてきていないか?
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 とても久々の更新。
池袋の新文芸坐で10月くらいに観ました。
 舞台脚本出身、ということが大きいだろうが、三谷幸喜の映像作品は概して、限定された空間が土台となって成立している。テレビ放送で言えば『やっぱり猫が好き』『王様のレストラン』『HR』『今夜、宇宙の片隅で』『総理と呼ばないで』などがそれであり、これまで監督した映画においても『ラヂオの時間』はスタジオ、『THE 有頂天ホテル』はホテルの内部ですべてのストーリーが進行する。ひとつの限定空間に留まらない作品としては『古畑任三郎』がその代表格としてあげられよう。また、映画『みんなのいえ』でもまた開かれた状況で物語が進行する。

『ザ・マジックアワー』はひとつの架空の街「守加護」を舞台としている。特徴であった限定空間はいよいよ「街」というレベルに拡張された。その中で、これまでの映画とは異質な演出が施されるようになった。あらすじは他に任せるとして、これまでの映画と比較しながら作品の演出的特徴を考えてみたい。

 三谷幸喜の作品は基本的にリアルコメディだ。シュールな、超現実的な装置は用いられることなく、あくまでも等身大の人間達の所作や関係の配列によって物語を駆動し、笑いを起爆する。しかしそうでありながら他方、彼の作品は、他の多くのリアルコメディがそうであるように、「決してリアルではないマイルドさ、あるいは寛容さ」によって成立している。本当にリアルなものは彼の作品にはなく、むしろそれは余計なものとして退けられているのであり、彼の作品はモデル化された架空的な現実を基底につくられているのだ。現実的ではない現実、とでも言えようか。リアルじゃないと吐き捨てるのはたやすいが、彼の作品が持つその側面を受け入れることができたなら、観客はその世界を存分に楽しむことができる。『総理と呼ばないで』はその最たる例で、国政の長を描きながらもその国の行政云々という話は出てこない。三谷は政治家を主人公としつつも、政治や社会、マスコミといったものに何の興味も示していない。彼が見ているのはある閉じられた世界における人間関係や事件の面白さであり、それをより高純度で生むためにはつまらないリアルなど不要なのである。『古畑任三郎』は熱心なミステリーマニアには受けがよくなかった、と何かで聞いたか読んだかした覚えがある(ひどくいい加減な言い方で恐縮だが)。実にわかりやすい話で、『古畑任三郎』は純粋なミステリーではない(言うまでもないが、三谷はミステリー作家ではない)。コメディだ。謎解きは話の中心軸として存するが、一方で古畑、そして今泉の特異なキャラクター性があり、犯人役の個々の魅力があり、それがあのドラマの面白みを生み出しているのだ。

さて、前置きが長くなったが『ザ・マジックアワー』。この作品は上述したような「モデル化された架空的な現実」、意地悪な言い方をすれば「都合のよい現実」の上に成り立っており、その点ではこれまでの映画三作の比ではない。しかつめらしい顔をして「リアリティ」なるものを大事にすれば、到底受け入れがたい内容である。「こんなことってありえないよね」という度合いは過去の作品を遙かに凌駕しており、まさに「架空の街」ならではの架空的現実が炸裂している。その点で言えば、過去の映画作品に見られた配列設計にはやや及ばぬと感じた。架空の街の架空的現実、が生まれたせいで、そちらの面白さの比重が増し、緊迫感が減じたように思われる。要するに、我々の現実を離れたせいで、「我々の現実に基づいて我々が抱く共感や緊張感」との距離が生まれてしまった。「何でもあり」の独自の秩序を築き上げてしまうと、「どうやって解決するのだ?」というハラハラ感は原理的に失われてしまう。本作は「何でもあり」とは言わないが、架空的でマイルドな現実が生み出されたせいで、筋立てが生み出す緊迫が損なわれたようにぼくには思われるのだ。その欠点は実際、冒頭五分くらいで早々と露呈する。西田敏行のヤクザに妻夫木と深津が怯えるのだが、「街を出て逃げてもいつか殺される」ほど怖い奴らだ、という感じが、どうしても伝わってこなかった。西田のヤクザが本質的に怖い人物ではないこともそこで明らかにされているわけだが、そうなるとストーリー設計上の無理が生じてしまうことになるのだ。

舞台設定、ということで言えば、架空の街に街的な広がりを感じられなかったのが残念な点ではある。場所の力は『ラヂオの時間』『THE 有頂天ホテル』より低い。なおかつ、『みんなのいえ』の建築中の新居が持っていた場所の魅力にも及んでいないように感じた。せっかく架空の街を作り出したのだが、その住人の数がどうにも少ない。いやむろん、普通の映画と比べれば多いが、豪華な面々が多々登場した前作を観たあととなると、あの街にはもっと多くの人々の顔があってほしかった。今作は佐藤浩市と妻夫木聡を明確な主人公とする筋立てであるから、この二人の物語に重きが置かれるのは仕方がないが、街の住人がショークラブの二人とホテルのママとヤクザだけとあってはやや寂しい感じがする。あの街のことをもっと知りたかったというのが正直なところだ。『THE 有頂天ホテル』はあのホテルに行ってみたいというような魅力を帯びている。しかし、今回の街にはそれがない。

笑いで言うと、好きなところも多い。佐藤浩市と西田敏行のやりとりは面白かったが、細かいところで「黒い101人の女」がいい。あのシーンでは笑い声が劇場に響いていなかったのだが、おそらく若い観客は市川崑も『黒い十人の女』も知らず、年配の人はあれが『黒い十人の女』のパロディだということに反応できていなかったのではあるまいか。ぞろぞろぞろぞろ黒服の女が出てくるところを「なんだこりゃ」と思うかパロディだと気づくかで、笑えるかどうかは決まる。他でいうと、声に出して笑うところではないが、街でCMの撮影隊がいるシーン、名画座のポスターに「野郎死すべし」という映画がある。あんな小ネタがぼくは好きだ。「ワンチャイ」も面白い。あそこで「ワンチャイ」なる「だれやねん」的な外人が出てくるのは非常に面白い。三谷が有するああした脱力的なさじ加減は、三谷作品を観るうえで小さくも大きな楽しみの一つである。

総じていえば、そろそろ三谷幸喜の作品が従来の枠組みに疲れてきている感じがしなくもない。今回の「架空の街」はこれまでの三谷にはない(類似したものはあれど、ない)舞台設定だが、リアルから離れ始めるとすると、三谷の配列的方法はどうしても難しくなっていくように思う。そうは言いつつも、三谷幸喜が日本映画界における希有な人物であることは間違いない。三谷幸喜、という看板故、彼の功績故にハードルが高くなってしまうが、ひとつのコメディとしてはとても高いレベルにある。他にも彼の次作にまつわる難しさはあるのだが、そろそろ疲れてきたので、この辺で。
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by karasmoker | 2008-12-20 02:20 | 邦画 | Comments(0)
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