M-1グランプリ2008 ぼくはオードリーを支持する

今回は映画とは関係ありません。

普段はテレビなど観ないけれど、ぼくはこのイベントを毎年大変楽しみにしている。緊張感みなぎる生放送を見終わった後、ただの視聴者なのにどっと疲れる。特に今年は疲れた。レベルは上がっていると思う。というかM-1仕様の漫才を体得している漫才師達が全体的に多くなっていると思う。だが、今回のM-1は少し残念である。ぼくはどうしても、NONSTYLEの優勝に与することができぬのである。2003年のフットボールアワー以来のことである。

いや、技術的な面で言えば、優勝はNONSTYLEに間違いない。だからその点について、否定的な態度をとるつもりはまったくない。ただ、ぼくは松本人志が放送室でかつて述べたことに大いに賛同するのであって、その彼がNONSTYLEを選択したことに、大きな違和感を抱いたのである。放送室でM-1を振り返る回が大変待ち遠しい。
 
 松本は2002年のM-1グランプリを評し、優勝はますだおかだではなく、フットボールアワーであるとした。そのとき彼は言っているのである。技術的にはますだおかだは大変高いものがあるが、今までの漫才をきっちりとやっているな、というだけのことであって、彼らの漫才は新しい面白さを生み出してはいないと。そして、それでは漫才というものは向上していかないのであると。

 今回のM-1、繰り返しになるが、技術面で言えば圧倒的にNONSTYLEだ。ナイツは塙の一方的な進行に土屋が合いの手のごとき突っ込みを入れるというスタイルに始終していた。オードリーはナイツに比べて突っ込みの態度が多様性に富んでいた(スタンダードな突っ込み、受容、いなし、笑い合いなど)が、春日は自分のペースに走りすぎており、時として何を言っているのかわからないほど早口になったり、笑い待ちができぬまま次のボケに行くこともあった。その点、NONSTYLEには非の付け所がない。昨年の(あえて今年ではなく)キングコングのごときハイスピード漫才でありながら、キングコングに比べて間を重んじている。漫才の間を、ではない。客の笑いの間を、である。あの自分を突っ込むような、脚を叩くときの一言がその役割を果たしている。わかりやすさという点においても他の最終決戦二組に比べれば上だ。上手さで言えば、ダントツであり、五票の獲得もその点、道理の通ったものであろう。

 しかし、である。NONSTYLEには新しさを感じられないのである。現代にほどよく調和したますだおかだ、というか、きっちりとしたM-1仕様の漫才というか。キングコングのボケに比べればベタさはないものの、予想もつかぬようなボケはなかったように思うのである。ぼくには、オードリーのほうが圧倒的に面白かった。

 ネット上ではわかりやすい分かれが散見される。「NONSTYLEは面白かったが、オードリーは何が面白いのかわからなかった」、似たような構文で、「オードリーは面白かったが、NONSTYLEは全然笑えなかった」。ぼくの場合、後者なのである。この点、面白かったというこの点は、万事が結句「好み」に収斂するほかない。前段で述べているように、技術という点において、オードリーはNONSTYLEを下回っている。だが、あえて言うなら、ぼくは技術なんてものはどうだっていいと思っているのである。いや、これは語弊がある。技術は必要だ。言い直そう。
「最終的な部分において」、技術はどうでもいい。
笑いには、意味はない。ただ、意味を超えるものがある。技術とは理論の集積とその体現であり、たとえどんなに技術があろうと、それは笑いとは、本質的には関係ないのである。だが、そう言い切るのはあくまでも危険であり、しつこいようだがあくまでも技術は必要なのであり、なおかつコンテストという場においては、それが重要な審査基準足らざるを得ない。
 
ここまでだらだらと要領を得ぬことを書いてきて、わかったことがある。ぼくは、技術による面白さにはあまり惹かれないということである。むしろ、たとえ拙劣であったとしても、訳のわからないものが好きなのだということである。笑いは意味を超える、という自説の示すところはすなわち、そのようなものである。オードリーの春日のボケは滅裂である。だからいいのである。滅裂なボケと自分の話をする突っ込み、という点で中川家を想起したが、中川家とも明らかに違う。礼二が持つスタンダード的突っ込みと、若林のつっこみはまるで違う。若林の応変な振る舞いが、滅裂さをうまく中和している。そしてこのことは、いわゆる「技術」とは別種の妙技なのである。

ここまで書いてきて(もう読む者もあるまい)、2004年のM-1をどう捉えるか、という問題が想起された。ぼくのNONSTYLEへの評価は、アンタッチャブルの支持と矛盾しないのか。南海キャンディーズへの支持を表明しなければ、ことの筋目が通らぬのではないか(その点、中田カウスの審査はさすが筋目が通っている)。

 これは山崎と石田、という二人のボケの違いに答えの糸口がありそうだ。ぼくがNONSTYLEに面白みを感じなかった理由、その重要な部分が、石田の「自分の脚を叩きながらの一言」にあるように思われる。ぼくにはあれが好ましくなかったのである。あれをすることにより、ボケが十全にボケ的であり得なくなってしまうのだ。先ほど述べた滅裂さが消えてしまい、両者の対立性が減じる。アンタッチャブルの山崎と柴田は、滅裂と常軌の対立となる。ブラックマヨネーズにも対立がある。その対立は化学反応となり熱を帯び、面白さに繋がる。ところが、石田と井上には対立による熱がない。感覚的な物言いになるが、ボケがツッコミの外側に出て行かないのである。簡明に言えば、両者に独自の個性が見えぬというか、両者の独立性が浮き出ていないのである。

 そろそろ疲れてきた。もう本当に読む者もあるまい。妙な誤読をされたくはない。ぼくはあくまでも、自分がどう感じ、どうしてオードリーを支持するのかということを明らかにしたいだけであり、他意は微塵もない。NONSTYLEを持ち出すのはあくまでも比較材料としてであり、批判であるとか悪口だとかそんなものではまったくない。ただあくまで、ぼくにとっての優勝者は、オードリーであるということを述べたいだけである。M-1に登場した漫才師達すべてに、満腔の敬意を表する。
 ここまで読んだあなたは、つわもの万歳。
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by karasmoker | 2008-12-24 01:30 | 邦画 | Comments(0)
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