『グレムリン』 ジョー・ダンテ 1983

凶悪、とは呼びたくない愛嬌。

「お菓子系」という言葉があります。これは元々グラビア関係の用語らしいのですが、ぼくの脳内辞書においてはまったく違う意味があります。ぼくがひとりごつときに使う「お菓子系」とは、「まったく毒にも薬にも栄養にもならないけれど、おいしい」というものです。このほうが用法として適切な気がします。この用法を広めたいと密かに思っています。

 さて、『グレムリン』はつまりそういう映画でした。別にこれを観ようが観まいが、人生には何の影響もありません。ですが、それなりに面白くは観ました。小さな悪魔が愛嬌があるし、変化のたびに驚かされるのがいいです。水を浴びせたら増殖する、というのもあほっぽくてよかった。毛玉がぽんぽん抜けて増えるのがいいですね。そのくせさなぎになるとそのさなぎがグロテスクで、そういうちょいちょいの変化が気持ちいい。プールに落ちたときの大袈裟なまでの波立ちや、暗闇から大群が出てくるときの感じも、楽しいものをつくるなあの一語ですね。観ていてなんだかわくわくするというか、おどろおどろしくないんですね。モグワイ状態より、グレムリン状態のほうがぼくには可愛かった。モグワイ状態はなんだか、可愛さを前面に押し出す感じが嫌です。どうもこんにちは、チワワみたいな犬が嫌いな者です。「かわいい~って言われるのをわかってやっとるな」というあざとさというか、ぶりっこ感があります。

 凶暴なグレムリンがわいわいやっているのは可笑しいんです。人間を襲うから凶暴なんだけど、どこか憎めないところがあるというね。最初は可愛かったものが凶暴化する、というので言うと『チャイルド・プレイ』のチャッキーがありますが、あれは単純に怖いんです。でもこのグレムリンは凶暴化してからもお茶目なわけです。酒場のシーンは絶品ですね。映画でわあちゃあしているのも愉快。というのはやはり、別にこのグレムリンには悪意がないからなんですね。そう、グレムリンについて「凶悪」という形容をするのは間違いで、彼らは人間を殺すことに執心しているわけではないんです。彼らはあくまでも欲望に忠実なんですね。それが酒場のシーンに象徴されていて、人間を襲う意志があるのではなく、欲望を満たすうえで邪魔な存在を排除する、というだけのことなんです。あるいは、欲望のままに遊び続け、人間に迷惑をかけてしまうんです。つまりは人間の戯画です。

 この手の映画ではあまり人間を殺してほしくなかったですね。大迷惑をかけても、人間を死なせてほしくはない。被害を受けた人間は死んだかどうかはっきりしない状態になっていますが、彼らについては多分に死を感じさせる終わり方になっていた。痛い目に合う、くらいがいいんです。犬嫌いのばあさんはかなりポピュラーになっていましたが、見る限り「絶対死ぬやん」という感じの飛び方だった。あれは「辛うじて生きているよ」っていう風にしてほしかったです。

そうすると人間の手で爆殺されるシーンにももっと味が宿ったように思う。グレムリンを悪として扱うよりいいと思うんです。悪はあのモヒカンのグレムリンだけでよくて、あとはいたずら好きの欲望的存在にしてほしかったというのがありました。そのほうがラストの中国人の台詞が生きたはずで、人間の愚かさも引き立ったはず。毒か薬になったはず。まあ、お菓子を作ろう、という発想であるなら、これは皆余計な思案なのですが。

 数ある映画の中の、数あるクリーチャーの中で、このグレムリンというのはちょっと特殊ですね。いい意味でのあほっぽさを持っているので、気楽に観るには丁度いいのではないでしょうか。これは劇場よりDVDで観るほうが楽しい種類の映画でしょう。
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by karasmoker | 2009-01-26 11:05 | 洋画 | Comments(0)
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