『チェ・ゲバラ&カストロ』 デヴィット・アットウッド 2002

 どうか真面目にやってくれ。

 ネットの情報によれば、これはもともとテレビドラマらしいのです。なおかつ、3時間以上あるものを2時間に収めたらしいのです。道理で粗雑な物語運びだと思いました。今世間ではチェ・ゲバラものが公開中ですが、きっとそっちのほうがはるかに見応えがあるでしょう。今日取り上げるこの映画は別に観なくてもいい種類の映画です。パッケージにはゲバラをでかでかと映しつつ、内容はカストロの一代記です。ゲバラよりもカストロが好きなぼくはそれでいいのですが、こういうのは観る人間のことを考えていません。映画を作った人には何の罪もないのですが、輸入してなおかつ2時間に切ってパッケージングした日本人が駄目です。パッケージの見てくれに力を入れて、顧客が借りさえすればそれでよいと思っているはずです。いい映画をお届けしたいなどとつゆほども思っていないはずです。そいつには映画業界を辞めてほしいと思います。

DVDのそういう背景を知ったので、この映画のことをあれこれ言うのは控えたいところです。何しろぼくはきちんとした完成品を観ていないわけですから。ただ、このDVDを観るのはよしたほうがいいよ、ということはこの記事でお伝えしておこうと思います。

これで終わってもいいのですが、一応滑る弁舌に任せてもう少し余談を並べましょう。

 この映画はキューバの話なのにほとんど英語です。カストロもゲバラも英語を喋ります。アメリカにおけるテレビドラマなのでむべなるかなという感じですが、やはり言語の問題は大きいのです。ぼくは英語のリスニングもまともにできず、スペイン語など単語ひとつも知りませんが、そんなぼくでも言葉は気にかかります。というのも、その言語言語が持つ響きというのが、その世界観にとってきわめて重要だと思うからです。それぞれの言語には特有の響きがあり、意味こそわからずとも響きの差異は解せます。絶え間なく流れるその国特有の言葉は、その映画の、その国の景色やにおいを伝える有用な装置なのです。ぼくにとって外国語は音楽に似ています。歌詞のない音楽に似ています。音楽は理解できるできないではなく、それが生むリズムやメロディ、音響を楽しむものですが、ぼくにとって映画における外国語は、つまりそうしたものに近いのです。だから今回の映画は、その点でも残念でした。

 ごく当然の話ですが、発話とはその言説内容がすべてではありません。それを発話している人間がどういう感情を持っているのか、どういう人間性を持っているのか、という、メタレベルのメッセージ性があるのです。まさにフィデル・カストロの演説こそそれを教えてくれる。「演説」、今風に言えば「プレゼン」なのかも知れませんが、そこで大事なのは内容よりも話し手が持つ雰囲気なのでしょう。内容を知るだけなら文章を読めばいいのですから。そのとき、やはり言語に見合った響きというものがあるのであり、その響きはその人間自身が意図しない部分を露呈させるのであり、すなわち当の人間自身が制御できない、非随意な生の部分を見せるのです。

長々と何を言いたいのだ、と言われるかも知れません。それ以前に誰も読んでいないかも知れません(きっとそうだ。そうに決まっているのだ)。このことを映画に関連づけ、いくつかのことを語れますが、そろそろ疲れてきたので今回は平易な内容へと繋げましょう。

昨今、字幕よりも吹き替えで映画を観る層が増えているという話があります。ぼくはこれにとても憤っているのです。憤る理由はここまでの話で書いたので繰り返す必要がないでしょう。そりゃあ英語が堪能な人からすれば、字幕で観ているレベルでは英語の細かい言い回しが分かっていないから駄目だ、となるかもしれません(きっとそうだ。そうに違いないのだ)。しかしそういう人でも、どの映画でも字幕なしですべて解せる、というわけではないでしょう。その意味で言えばその人だって字幕の恩恵にあずかる人です。だからあなたと私は友達です。どうかいじめないでください。

それよりも吹き替えの話です。あげくにタレントを起用する始末です。いや、それならそれでいいんです。タレントを声優に起用した糞映画を吹き替えで観ている人とは住む世界が違うから勝手にしろです。でも、そんなやつらに映画業界がすり寄るのは言語道断であります。そんな映画関係者は獅子身中の虫であります。この話を続けると教育問題まで言及しなくてはなりません。だけど、ぼくにはピアノがない。それを話せる頭もない。心はいつでも半開き。伝える言葉が残される。ああ、ああ、ああ、ああ。
暴走しそうです。この辺にしておきます。
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by karasmoker | 2009-01-27 06:11 | 洋画 | Comments(0)
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