『ツィゴイネルワイゼン』 鈴木清順 1981

言おうと思えばどうとでも言えるんでしょうけれど。 

 ここしばらくは頭がエンターテイメントモードになっています。小説で言えば純文学から離れているのです。なので、この手の作品には深入りできない状態にあるというのが本音です。また時を改めて観てみれば違う感覚が持てそうではあります。やはり何事かを帯びている映画ではありますから。

 欧州で言うところのヌーヴェルヴァーグやネオリアリズモなどの芸術的な映画の系譜が、日本ではその昔、ATGという形で華やいだようですね。ATG系のものを、実を言えばほとんど観ていません。今のところ食指が動かないんですね。ゴールデン街などに行くと、そっち系が好きな奴らがたくさんいます。ふらっと寄った飲み屋で映画好きだというホステスがいて(ゴールデン街のカウンターにいる女は、たいがいバーテンダーの名に値しません。別にけなしているわけではなく、そういう種類の街なのです。それでいいのです。)、そういうホステスは何かというとATG系の監督をフェイバリットにあげますね。あるいは寺山修司だのガロだのうんぬんと言って、アングラ系が好きなのよ的なにおいを出しやがります。うーん、ぼくはそういうのが鼻持ちならねえというかしゃらくせえというか、どこか距離を置きたくなってしまいますね。うん、一言で言うとしゃらくさい感じがします。そのくせメジャーな作品を知らなかったり。はぁ? おいおい、振り子が小せえよこの野郎、と思ってしまいます。やっぱりメジャーを抑えつつ、マイナーも味わうというのが必要ではないでしょうか。

 さて、『ツィゴイネルワイゼン』です。
 この映画に関して言えば、ストーリーとか整合性とかそういうのって語っても仕方がないんですね。あらすじを書くことはできますけど、そのあらすじで書くこともはて正しいのかどうなのかわからないというか。きっと色々語れると思うんです。批評家には格好の材料ですね。たとえばあのめくらの(「盲目の」という言い方よりこちらのほうが適切な感じがします)三人などにしても、主人公たちのメタファだとかなんとかいくらでも言えそうです。めくらの三人もなんかよくわからないです。今は意味を解きほぐすのがとても面倒くさい気分なのです。

 きっとこの映画を褒めるときってほとんどの人が、断片的なほめ方だと思うんです。あのシーンが良かった、このシーンが良かったという感じで。全体を通してきちんと説明できる人って、本当にごく一部だと思いますね。そういう人でも細かいところを言い出すと、説明できなくなると思いますよ。解釈可能な断片を繋げて、これこれこういう映画やという言い方はできるだろうけれど、じゃああのシーンはどういうこと、などといちいちつついていったら、結局ちゃんと説明できるのは作り手だけでしょう。残念ですが、今のぼくにはできません。解釈を試みるのも今はめちゃ面倒くさいです。今日はちっとも映画評になりませんね、これは。いや、逆に言うといくらでも言えますよ、自分勝手に。たとえばこんにゃくをちぎるのは何々の象徴でとか、主人公の妻の発疹が収まって腐りかけの水蜜桃にしゃぶりつくのはこういうわけでとか、原田芳雄が観念的な世界で亀甲縛りをしているのはこういうわけでとか、サラサーテの聞こえない声は何々でとか、どのシーンについてもいくらでも言えると思います。でも、解釈しようという気は起こらないのです。冒頭で述べたように、まったくそっちのモードに頭が動きません。

 こういう表現は今、日本映画でどうなっているのか、と言えば、何を隠そう宮崎駿が担っているように思います。『千と千尋の神隠し』でも『崖の上のポニョ』(未見ですが)でも、世間的には訳のわからない感じの映画という風になっていて、でも面白いんだよなみたいになっています。訳がわからないものは好きなんですけどね。それを笑いの方向に持って行くと好きになるんですが、訳のわからないままどこを目指しているのかもよくわからないとなると、もはやぼくにはついていけないところもあります。
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by karasmoker | 2009-02-11 12:16 | 邦画 | Comments(0)
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