『楢山節考』 今村昌平 1983

今昔併せて感慨深し。すごいシーンに理由なんて要らない。
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 日本アカデミー賞が発表されました。昔は知りませんが、このところこの賞ははなはだ信用ならない選択をしているので、あまり興味がありません。『おくりびと』は悪い評判を目にしませんね。最近の中ではかなり良心的な選択だったのでしょうか。未見なので書くことはできません。

 さて、今回の『楢山節考』も日本アカデミー賞を受賞しています。カンヌのグランプリを獲ったことでも有名ですね。考えてみるに、今とは違う時代だからこそ日本アカデミー賞を獲れたと思われます。きっと今ではこの映画、規制にやられてしまいますね。性的描写が結構あるので、子供には見せられないとかなんとか言って、テレビ放映にも向かず、受賞できないでしょう。賞自体に、この作品を受け止める力がないと思います。アマゾンのレビウで星一つをつけているものがあって、読んでみればそれまさに「性描写が多い。家族で観ようと思ったのに子供には見せられない」などというものでした。今村昌平は別に子供に見せようと思って撮ったわけではないだろうに、なんとも不当な評価を下すものです。いや、子供と一緒に観たっていいじゃないですか。性描写に対して潔癖すぎる風潮は大嫌いです。あなたは子供と一緒にポケモンを観て洟を垂らしていればいいのです。

 最初のほうはちょっと不安だったんです。というのも、いまひとつ役者の言葉が風情を醸していなかったからです。昔々の山奥の農村のわりに、やけに言葉の耳通りがよく、方言特有の汚さがなかったのが気になった。それはつまり作品世界の色づけにかかわる問題であって、綺麗な言葉は汚い世界を描ききれないのです。もっと汚してくれればいいのに、なまりすぎて何を言っているかわからないくらいが丁度いいのに、と感じながら観ていたのですが、途中からはあまり気にならなくなった。性描写の滑稽さや生き埋めのくだりが秀逸で、なおかつ左とん平が抜群の働きをしていたからです。ああいう表現は、観る側を安心させてくれます。ああ、見てくれのええもんだけ撮ろうとしてないな、というのがわかります。

 観る前、ぼくはてっきり、かなり凄惨な映画なのだろうと思い込んでいたんです。貧困でどうしようもなくて仕方なくて、泣く泣く母親を山に連れて行く話なんだと思っていました。ところがぜんぜん違っていて、この映画はとても明るい。貧困にあえいでいるという感じはぜんぜんないんです。でも、そうした表面をべろりとめくると、一挙に村の哀しさや残酷さが発露します。生き埋めのくだりのすごさはまさにそれで、それまでそれなりに仲良くやっていたような連中が、一挙に襲いかかる。食べ物を盗んだ村人の家を破壊し、それどころか子供さえ躊躇なく生き埋めにします。表現として非常に正しい。表面上の安穏はその実ぎりぎりの部分で維持されているのだということが伝わり、秩序や不文律はその逸脱を決して許さないのだとわかる。それまでの流れは決しておどろおどろしくないんですよ。だからこそあの場面が生きてくる。序盤に出てくる胎児の死骸もそうですが、子供だろうと何だろうと関係ないよという容赦のなさは表現として信頼できます。

 さっきの話に関連しますが、ぼくはそういうものが子供にとって有害な表現だとはちっとも思わない。むしろ世界のあり方というものを示すうえで有用だと思います。実際パレスチナで何が起こっているか、毎日報道されている通りじゃないですか。そのくせ映画の中で子供が死ぬことについて過敏に反応するなんて、どう考えたって歪んでいます。この映画で生き埋めにされる子供は、どう考えても理不尽な死を遂げています。その理不尽な死は肯定されるべきものではあり得ないけれど、その表現はまさにこの世の戯画です。戯画を否定し現実に対し見て見ぬふりで、あげくに吐くのは「子供に見せられない」。YO、朋輩、じゃあこの世界を見せないように、まずはテレビをたたき壊せ。

 話がそれました。『楢山節考』では性描写が多く出てきますが、どれもこれも滑稽で笑ってしまいます。決して綺麗じゃなくて、生々しくて、馬鹿げている。キム・ギドクの映画にも通ずる身体性で、特に左とん平がばばあとやるくだりは最高です。とある事情から誰とでも通ずるようになった倍賞美津子に、あいつは臭いという理由で左とん平がふられるのですが、これが実に愉快です。この映画における左とん平の役柄はとても大きくて、犬とやろうとするくだりも楽しい。あれは道化の役回りであると同時に、哀しさも醸していますね。あげくにばばあとやってしまうところが、もう哀しくてどうしようもない。でも、面白いんです。この性描写を通して、人々の愚かさや息づかい、生きることの汚さというのが立体的になってくる。キム・ギドクの『魚と寝る女』(2001)を思い出しました。

 女性の汚さはいい感じでした。あき竹城がその一人で、脇でしっかり映画を支えていました。ぼくがこれまで持っていたあき竹城に対する「うるさいおばさん」イメージと違って、若々しさと瑞々しさがありました。決して美人というわけでもないのに、とても美人に見える瞬間があり、この山村の風土とよく調和していた。顔に大きな痣のある女性も良かったです(漫才師らしいですね)。山奥の村にいる若い女という感じ。垢抜けていなくていい。あれが美人だったら興ざめなんですが、適度にブスな感じなんです。良質なキャスティングだったし、痣もかゆいところに手が届いている。あの痣がなんとも哀しくて、生き埋めのくだりでもあの女の存在が活きています。役者で嫌だったのは倉崎青児くらいです。一人だけ垢抜けた感じがあって、現代の薄っぺらい感じがあった。今現在に活躍している若手俳優に似ていて、演技や台詞回しに汚さがありませんでした。

 さて、この映画の際だった演出はやはり後半ですね。中盤までたくさんの役者が出てきて村の活気やなんやが表されていながら、ラスト30分はほとんどが沈黙劇。緒形拳と坂本スミ子が黙々と山を登るシーンは、中盤までとの対比でとてつもない濃度がありました。坂本スミ子が一切喋らないんです。しかしその沈黙の中に、それまで快活であった彼女との対比が生まれる。ネットで見てみれば、緒形拳と坂本スミ子は一歳しか違わないんですね。それでも、母と子として何の違和感もなかった。一切喋らずに苦難の登山をするシーンは引き込まれます。30分間、見事に魅せてくれました。この映画のいいところは、あの姥捨てにあまり必然性を感じさせないところです。貧困でやりようがないというようなわかりやすい方向に持って行っていないんです。それが悲壮感とはまた違う、えもいわれぬ雰囲気を帯びています。坂本スミ子の母親は自分から望んで山に行きます。緒形拳もそれを止めようとはせず、ただ母の強い意志を感じて山を登り続けるのです。そこには、貧困なる明白な理由とは違う、それでいて風習だからというただの惰性でもない、不思議な感動があります。それでもやはりいざとなると、母を捨てるのが辛く、緒形拳は母の胸に顔をうずめて泣き、そんな子の頬を母はぴしゃりと叩きます。一切の説明はありません。あんなシーンを、ぼくは他に知らない。

山から下りる最中にあった、あの出来事もいい。あれを挿入することで、決して緒形拳と坂本スミ子の姥捨てを綺麗なものにせず、姥捨ての残酷さも照らしている。雪が積もりすぎている感じがしましたが、まあそれはいいです。ラスト、家に帰った緒形拳が母の名残を感じつつ、物語は終わります。台詞はありません。感傷もありません。表現のバランスがこの上なく、すごい。そりゃカンヌグランプリも獲るでしょうというできばえです。

 これからこんな作品が出たとき、果たして日本アカデミー賞は許容できるでしょうか。『三丁目』だの『フラガール』だのに最優秀をくれているような賞、いやそれよりも深刻なこととして、そういうものが一番だとされている現状。一番というのは、この『楢山節考』のような作品にこそ、やはりふさわしいのです。
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by karasmoker | 2009-02-21 07:13 | 邦画 | Comments(16)
Commented by 通りすがり at 2010-05-25 04:47 x
「子供に見せられない」というどこかの評価に対してよっぽど気に入らなかったんだね。
この映画は単に今村得意のドギツイエログロ見世物なだけ。
子供が見たっていいでしょうよ。でも何の得がある?倍賞美津子とババアのオマンコ?村人の生き埋め?婆さんを崖から蹴落とす息子?
それを見て年寄りを大事にしようね。それとも年寄りは山に捨てちまえかな?w
昔の部落民はこんなことをしてたんだ!けしからん!か?

不快感しかねえよ。こんな映画wwwwww

外国で賞もらったから崇めてるだけって事に気付け。
Commented by karasmoker at 2010-05-25 23:57
コメントありがとうございますwww。
>子供が見たっていいでしょうよ。でも何の得がある?
映画を損得で観たことがないのでよくわかりませんがwwwwwwwwwwwww学べるもの、得られるものを「得」という言葉であえて呼ぶならば、綺麗ではあり得ないこの世のひとつの側面をきちんと見せている点で、「得」があるのではないでしょうかwwwwwwwwwww。
>不快感しかねえよ。
はい、貴方の感覚を頼みもしないのにわざわざ教えてくれてありがとうございますwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww。wを使うという品のなさまで露呈していただき、ありがとうございます。
>外国で賞もらったから崇めてるだけって事に気付け。
 受賞作でも崇められぬ作品は多く、このブログでもいくつも感想を述べております。どういった点がこの映画の駄目なところか、おそらくはとても映画にお詳しい方とお見受けいたしますので、大変恐縮ではございますが、どうかぼくめにご教授願いたく存じます。
Commented by 星降る子 at 2010-12-09 08:53 x
この映画、☆も観ました。とても深みのある素晴らしい映画だと思いました。表面だけ すらりと撫でて出来上がったような映画と違い、人間の歴史、心底の真実と哀しみ、、抉り取っている秀作さと思います。子供もある程度の年齢になったら、大丈夫だと思います。素晴らしい記事に拍手です。
Commented by karasmoker at 2010-12-20 23:45
コメントありがとうございます。
Commented at 2010-12-21 05:45 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by karasmoker at 2010-12-21 20:24
コメントありがとうございます。どうぞリンクしてください。PCから閲覧できないのが残念です。ケータイをいじる趣味がないもので。
Commented by ge at 2011-01-23 01:28 x

ただいまこの映画をみた。すごい映画、すごい監督だと思った。ただ一つ、俳優陣全体は肉付きが良くて、あまり寒村で飢えを生き抜いた人にはみえない。もっとダイエットさせればよかったのに。いまのパキスタンの道端に普通に見える人の顔をみればわかる。不朽な映画と思うよ
Commented by ge at 2011-01-23 01:28 x

ただいまこの映画をみた。すごい映画、すごい監督だと思った。ただ一つ、俳優陣全体は肉付きが良くて、あまり寒村で飢えを生き抜いた人にはみえない。もっとダイエットさせればよかったのに。いまのパキスタンの道端に普通に見える人の顔をみればわかる。不朽な映画と思うよ
Commented by karasmoker at 2011-01-23 04:28
コメントありがとうございます。おっしゃるとおり、確かに綺麗すぎるきらいはあると思いますね。
Commented by ATS at 2011-08-26 15:07 x
あなた様の文中に

「今とは違う時代だからこそ日本アカデミー賞を獲れたと思われます」
とありましたね。
確かにそうかもしれません、

しかし納得いかないのは
これからこんな作品が出たとき、果たして日本アカデミー賞は許容できるでしょうか。『三丁目』だの『フラガール』だのに最優秀をくれているような賞

という一文です

時代背景によって求められるものは違います
今には今のニーズや社会背景
人々が求めているものを敏感にとらえ反映する事ができてこその大作なのではないでしょうか?

それは楢山節考に当てはまることだと思います。

私はけっして「三丁目」や「フラガール」がアカデミー賞にふさわしくない作品だとは思いません。
それぞれにとらえた時代背景を巧みに写実しています
せっかくのあなた様の優れた作品評価の文面も

最後の1文では
結局自分の主観から見て好きな作品かそうでないかということになってしまいます。
それは映画好きから言わせてもらえばとても残念な事です
Commented by karasmoker at 2011-08-26 19:00
コメントありがとうございます。
ぼくとATSさんの捉え方の大きな違いは、『三丁目』『フラガール』を優れた映画、大きな賞にふさわしい映画と思うかどうか、ひとつはこの点にあると思うんです。
 特に『三丁目』について、「それぞれにとらえた時代背景を巧みに写実しています」という捉え方はぼくと大きく異なる。『三丁目』についてはブログで触れたことも幾度かありますが、一言で言えば、「単に美化し、その美化している部分に萌えている」から駄目だと思ったのです。美化できない記憶、糞みたいな町並み、でもそれでも自分の過去だ、社会の過去だ、として愛でることが記憶の尊厳であるはず、というのがぼくの考えです。つまり、あの映画は「時代を歪曲して美しく仕立て直し、愛でている」ように見えたので、「巧みに写実」とは到底思えない。この映画は2001年に崩壊したはずの「オトナ帝国」を繰り返している。それが仮に「ニーズ」だとして、それに応えることが映画の役割なのか。ここにも意見の相違が見られるようです。過去の歪曲的美化を求める声に迎合することが「大作」の仕事だとは、ぼくは思いません。
Commented by karasmoker at 2011-08-26 19:09
また、「時代背景を巧みに写実」ということでいえば同年に賞を争った『パッチギ!』に軍配が上げられるべきでしょう、ということも言い添えておきます。

 『フラガール』については『三丁目』ほどの過去萌え映画だとも思いませんでしたが、話の重要なモチーフである炭坑、炭坑夫たちを軽んじているのが気になってしまいました。あの映画では、終わっていく炭坑と、始まるフラダンスが対比されているわけですが、「田舎にフラダンスなんて」という偏見を打ち破ろうとする脚本的進行が強いあまり、かつて街を支えた炭坑の人々への敬意がない。炭坑夫を父に持つ少女のエピソードが印象的です。彼女は街を去るときにたくさんの同輩に見守られますが、炭坑夫の父には何のフォローもない。そのアンバランスさを肯定できなかった。『三丁目』にせよ『フラガール』にせよ、エンターテイメント性は十分にある作品だと思います。ただ、両者とも過去への敬意が決定的に抜けていると思えた。それが「今のニーズ」? ぼくにはわからないニーズなので、問題の「一文」を添えたという次第です。
Commented by 名無し at 2013-06-19 03:42 x
この作品は好きです。
ただ過去への敬意や忠実な再現がそんなに必要かね…。そんな事言ってたら時代劇なんてどーなんのさ。
過去への敬意は必要だと思うけど全ての映画、全てのアカデミー賞受賞作品がそうである必要は無いと思う。
そんなのつまらない作品ばかりになるよ
ばいばい
Commented by 名無し at 2013-06-19 03:42 x
この作品は好きです。
ただ過去への敬意や忠実な再現がそんなに必要かね…。そんな事言ってたら時代劇なんてどーなんのさ。
過去への敬意は必要だと思うけど全ての映画、全てのアカデミー賞受賞作品がそうである必要は無いと思う。
そんなのつまらない作品ばかりになるよ
ばいばい
Commented by 平名 at 2014-06-19 01:17 x
 自由に成ったと云われながら表現が不自由に成って行く現実 不思議なものですね 人間世界は、 名無しさんの意見ももっともだが
Commented by karasmoker at 2014-07-06 00:51
コメントありがとうございます。
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