『ポセイドン・アドベンチャー』 ロナルド・ニーム 1972

火よりも前にあった、水の生み出す金字塔 
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 ビル火災劇の傑作『タワーリング・インフェルノ』と対をなす、水による恐怖を描いた作品です。転覆した豪華客船の中を、救助の手を求め突き進んでいくお話です。『タワーリング・インフェルノ』と同様、これも大傑作でした。タイトルはなんだかお気楽冒険ものみたいですね。当時としてはひきのある題名だったのでしょうか。アメリカ人がつけたのだからいいのでしょうが、ぼくのような日本人からすると「アドベンチャー」というイメージからはほど遠いですね。やっていることはアドベンチャーっぽいですけれど、何しろ窮地からの脱出がテーマですから。

 内容は実に面白かったです。ジーン・ハックマン演ずる牧師が先導となり、転覆した客船の中を人々が突き進んでいく筋書きはそのまま、『タワーリング…』のポール・ニューマンが子供やおばさんを瓦礫の中導いていくのに似ていますが、あの映画に比べると大変に地味です。船内の狭い通路や排気口のような場所を探しては進んでいくので、いわゆるスペクタクル映画とはちょっと違います。水流が人々を飲み込む場面もありますが、決してそれが見せ場の中心ではなくて、あくまでもジーン・ハックマンと彼に従う9名の人間の移動がメインです。そう、この映画は乱暴に言えば、移動し続けるだけの映画と言ってもいいのです。下から迫り来る海水からただ逃げ続け、移動し続けるだけの映画。ですが、それはCG云々の大スペクタクルなどよりも遙かに良質なものになっていました。激しい動きも華麗なアクションもないです。ですがそれがゆえに、生身の人々の等身大性が如実に描かれていました。

 登場人物のバランスもいいです。おじいさんや子供やおばさんなどが大変いい味を出しています。中に一人かわいこちゃんがいるのですが、パメラ・スー・マーティンという彼女は安達祐実に似ています。有名作品にたくさん出ていてもいいのに、それほどのようです。かわいこちゃんなのに。アーネスト・ボーグナインというおじさんがすごくいいです。なんかがじゃがじゃした感じの汚いおっさんですが、これも適度な風合いです。主要キャストでいろんな世代を網羅していますが、そのばらつき具合にまったくのあざとさもわざとらしさも感じられず、ハラハラドキドキさせてくれました。

 制作費はウィキによると500万ドル。ちなみにジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997)は2億ドルだそうです。時代が違いますから単純には比べられませんけどぼくなどからすれば、『タイタニック』の甲板から大量に人々が落ちる場面のスペクタクル以上に、この映画の「地味な移動」は素晴らしかったです。人物同士の関係性が潔いんです。変にぐずぐずしていないからいい。たとえばジーン・ハックマンがパメラを抱きしめるシーンがありますが、これも別に恋愛的なものじゃないんですよね。助かりたくてあなたを頼る、必ず君たちを守ってみせる、というこの潔さ。現代ならここで恋愛に発展させるのでしょうが、そんなむにゃむにゃするようなことはしない。すごく正しい。

 そう、ここに出てくる登場人物は皆、「助かりたい一心」というのを常に抱えています。だからいいのです。そして自分勝手に行動しないのもいいんです。皆が皆、連体し合っているんです。何かにつけ、「こういう窮地では人の本性が現れるのであり、醜く他人を蹴落としてしまう」などという演出をつけがちだし、実際それはそれで正しいんだと思いますが、この人々は皆団結しており、大変気持ちのよい「助かりたい一心」があるのです。ぼくはもう思いっきり、「全員助かってくれ!」と思いながら観ていました。これはとても気持ちいいです。醜さこそ人の本性、という場所に向かわないのは健康的です。醜さこそ人の本性、とやると、それなりにリアルというか、人間を描いている感じが出るんです。でも、それは今の時代、ある意味で一番安直なんです。ありふれている。だからこそ、三十年以上前のこの潔さ、健全さに惹かれるのです。

さて、この映画はもうひとつ、現代のぼくから観るにすごく特徴的なところがあります。ネタバレになりますので要注意です。たまにはそういうことも気にかけます。

 というのは、あのジーン・ハックマン扮する牧師の最期です。てっきり助かると思っていたのに、すごくあっさりと終わりました。びっくりしました。彼はとても格好いいんですよ。牧師でありながら神に祈る姿勢を否定しており、自分で突き進めという信条を持っていて、最後の見せ場でも天に対し、「助けてくれとは言わない。だから邪魔をするな」と必死になって叫ぶ。あんなに皆を引っ張り続けた彼、活躍し続けた彼が、もうびっくりするくらいあっけなく死んでしまう。実は助かっていたよ、というのもないんです。そこにカタルシスを求めがちな、ぼくを含めた現代っ子の観客は、ちょっと度肝を抜かれますね。ああ、そんなにあっさりして終わるの、という。ただこれってある意味、現代の大作映画が完璧に忘れてしまっている、登場人物に対する冷徹なまでに冷静な距離感ゆえですよね。作り手がむやみに救いたがっていない。彼もまたその他大勢のごとく、死ぬときはさらりと死んでしまうただの人間に過ぎないのだ、という冷静な目線。『タワーリング・インフェルノ』には引き継がれず、まるで当時のアメリカン・ニューシネマのごとき人を突き放した目線。観終わってから、しばらく呆気にとられること請け合いです。

 ああ、きちんと映画というものを撮っているな、という感じがすごくします。今の時代、CGがこれだけはやると、「撮る」ということの意味合いが変質していると思うんです。後でCGを足す、というやり方で撮ると、絶対にこういうものはつくれないと思う。つまりは、「撮影」の技術自体が低下してしまうんじゃないかという危惧もあります。 いや、間違いなくそうした側面はあると思う。膨大な映画が過去に作られて、そこからたくさんの学びを得られてきたはずなのに、毎年のようにどうでもいいような大作映画ができるということはつまり、今までの技術+CG技術というものではないんです。今までの技術の部分がすり減って、CGに代わっているだけなんです。この流れが続けば、よりCGの度合いが強まり、『ポセイドン・アドベンチャー』や『タワーリング・インフェルノ』のような、あるいは邦画で言えば黒沢明の合戦劇やこの前書いた『八甲田山』のような、ものづくりの神様が宿るような映画って、少なくなってしまう気がしてならないんです。

 まあ、映画に限らず技術の発展とは常に既にそうした側面を持っているものなのかもしれませんが、こういう骨太の大作に触れると、彼此今昔併せ観ての感慨にふけてしまうのであります。
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by karasmoker | 2009-03-05 00:33 | 洋画 | Comments(0)
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