『ぼくは天使ぢゃないよ』 あがた森魚 1974

時代性が色濃く滲んでいる映画ですが、色濃すぎてぼくにはわからない部分も多いです。
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 フォークは割合好きな方なのですが、あがた森魚という人は知りませんでした。ぼくはいわゆる有名どころのフォークに惹かれるので、生粋のファンではないんですね。フォークの神様とも言われる岡林信康にも食指が動かず、あがた森魚についてyoutubeで楽曲を聴いてみたのですが、うーむ、ぼくの好きな系統ではありませんでした。

 この人の楽曲が好きかどうか、というのは、この映画が好きかどうかとつながるのではないでしょうか。ぼくは正直楽しめませんでした。話の内容をかいつまめば要するに、70年代前半の、貧しい若者カップルの同棲生活の話です。70年代を描いたものは好きなのですが、これはある意味、本当に70年代を知っている世代じゃないと楽しめないんじゃないかとも思います。というのは、わかりやすい懐かしさを誘発する種類のものではないからです。ぼくみたいな若者の憧憬的懐古趣味では入っていけないというか、本当にあの頃を暮らした人間のほうが、よほど楽しめると思うんです。

いかにも70年代、という風合いも確かにあります。人々の口調や振る舞いは、たとえば今につくられる70年代を描いた映画では出せない。台詞回しが間延びしていて、演技の下手さは現代的な下手さではなく、当時の下手さが醸されている。別の言い方をすれば、この映画における時代感は押し出されているものではなく、にじみ出ているものなんです。色々と技巧を凝らして虚構性をつくりだしており、その虚構自体は当時の率直な風情とは趣を異にしている反面、その虚構のつくられ方そのものに70年代っぽさが出ている、とでも言えましょうか。すなわち、率直な70年代から離れようとする意図そのものの70年代っぽさ、ということです。

具体性のない文ですね。例を挙げると、たとえばこの映画においては街並みというものがあまり描かれません。ああ、懐かしいな、とわかりやすく思わせる風景はあまり出てこない。街並みは時代を映す一番の鏡ですが、日々の生活を主軸とした映画であるにもかかわらず、その点には重きが置かれていません。逆にその日常性に狂いを生もうとする試みなのか、海辺でアニメ事務所内のやりとりを映すシーンがあったり、アニメ事務所内ではミュージカルっぽくしてみたり、ちんどん屋にハムレットをやらせてみたりして、その時代の生活感を希薄にしようとしている。

だから実経験のない懐古趣味では、入っていけないものがあります。これはぼくの知識不足のせいも多分にあると思います。ガロ界隈にまったく詳しくないというのも理由でしょうか。演技の面でも、あがた森魚と斉藤沙稚子のカップルの演技はひいき目に見ても下手です。これはあえてそうしたものなのか。確かにその下手さのために斉藤沙稚子の言い回しには現代では表しようのない風合いが出ていた。その下手さは演技が演技であることの虚構性を現前的なものにしており、この映画が素朴な日常を素朴に描いたものの対極である事実をより強めている。カメラ目線の台詞が全編にちりばめられていることもまた、そのひとつです。ただ、今これを観た当時を知らないぼくからすると、「だから、何?」なのですね。もっと色々と当時の映画状況なり何なりを知ると、また違う感想があるかもしれませんけれど。

ただ、そうした点を考えてみると、露骨に70年代的な映画であるとも言えるわけで、映画『Always  三丁目の夕日』(2005)的なものが太刀打ちできない地平にあると言えます。『Always』は有り体に言って時代性の捏造と選り好みされた記憶によって成立した映画であり、それゆえのわかりやすさが興行的成功を招いたわけですが、実際に昭和30年代につくられた映画を観れば、あの映画には絶対に描かれないものが当然ながら表れている。この『ぼくは天使ぢゃないよ』にしても、いつか1970年代を振り返る作品が生まれたとき、その映画には絶対に描かれようのないものが表れています。意図的に表されている、のではなくて、自ずから表れています。

と、ぼくは感じたのですが、実際に当時を知る人々は、今この映画をどのように受け止めるのでしょうか。気になるところではあります。
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by karasmoker | 2009-03-08 21:17 | 邦画 | Comments(0)
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