『巨人と玩具』 増村保造 1958

半世紀も前に、この半世紀のことは既に語られていた。 
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 大手キャラメル会社の宣伝部を舞台とした話です。他社との競合に奔走する宣伝マンと、彼らによって見いだされた市井の女の子がスターダムにのしあがっていく様を描いています。

 まず、50年以上前にこれだけの映画が撮られたことに驚嘆します。誰しもが感じることとして、会話のテンポがすごい。公開当時、批評家受けはよかったものの観客受けがよくなく、監督の増村保造は「俺は十年早すぎた」と語ったらしいのですが、なるほど多くの日本映画に比して、あるいは現代の洋画を含めて捉えても、目を見張るようなテンポで会話が織りなされている。当時の人々は目を丸くしたに違いありません。饒舌な演劇を観るような心地よさがあって、時間的にもほどよく、話の終わり方もその突き放し感がよく、観客に合わせるのではなくむしろ「このテンポで行くからついてこい!」と挑戦するかのような撮り方、台詞のスピードが実に好ましい。

 広告戦略についても、合田という熱血宣伝マンのやっていることは古臭さを感じず、むしろ現代にまで通じていることではないでしょうか。合田は街頭でスカウトした女の子、島京子をキャラメルの宣伝のイメージガールに起用するのですが、この女の子がちっとも可愛くない。露骨に歯が汚く、会社内では「虫歯」と仇名されるような下層階級の女の子なのですが、いざ宣伝に打って出ると大人気になります。合田曰く、「宣伝に有名スターを使えば、人々の目こそ惹くが商品名が頭に残らない。しかし無名の新人を使えばその新人が商品とセットで人々の脳裏に焼き付き、有意な宣伝になる」とのことで、広告の詳しい事情は知りませんが、現代でも使われる方法なのではないでしょうか。思えば田中麗奈を有名にしたのはオレンジジュース「なっちゃん」のCMであり、彼女は長らく「なっちゃんの女の子」としてイメージされていたと思います。最近でいえばアイドルとは異なりますが、ソフトバンクの黒人などがそれに当たるでしょう。彼の存在はそのままソフトバンクの企業名とともに認知されています。新人アイドルや個性的な素人、無名俳優を使うというのは、あの映画から50年を経た今でも使われる手法であり、その意味でぜんぜん古くさく感じないのです。

会議で大量の宣伝を提案する熱血宣伝マン合田に対し、病弱で物静かな上司が「君は宣伝を過信している!」と怒ります。しかし合田は言います。
「あなたはずれている。知らないんだ、マスコミの時代を。現代の人間は赤ん坊以下です、犬以下です。彼らは考えないからです。昼間は奴隷のように働き、夜は酔っぱらうか麻雀かパチンコ、出なければラジオを聴くかテレビを眺めるかです。頭の中は空っぽです。この空っぽの頭の中に我々は繰り返し繰り返したたき込むんです。おいしいキャラメル、栄養のあるキャラメル、そうすれば彼らは自然と手を出す。マスコミは全てを強制できるんです!」
 これは20世紀後半におけるマスコミ、広告にとっての本音であり、過信もやむをえぬ神話だったのではないでしょうか。テレビの影響力が乏しくなり、新聞雑誌の売れ行きが落ちていると言われる現代であっても、この主張は依然意味を持っていると思われます。多言は避けますが、現代における宣伝屋、広告屋の主義は畢竟、この合田の主張そのままであると思われてなりません。

 役者も皆いい味を出していました。合田役の高松英郎、島京子役の野添ひとみもさりながら、アポロ製菓の宣伝部の女性(キャスターの三雲孝江に似ていますね)や写真家の春川(この男の下賤でどこかシニカルな立ち居振る舞いはぼくの目指すおっさん像でもあります)などが素晴らしく、個性の強い面々の中に川口浩演ずる新米宣伝マン西を置いたことで、観客を移入しやすくさせている。関西弁の専務もいいです。あそこにこてこての関西弁を置いたことで、会話劇に綾が生まれている。濃い関西弁のリズムは標準語との対比で際だち、会話全体がメロディアスなものになっている。役者が本当にいい。

 島京子の変貌ぶりにはびっくりしました。最初はもう不細工なんです。汚い。でも、踊りのシーンでは誰だかわからないくらいだった。まったくの別人になっていました。あのギャップはうまい。汚さとスター街道の差異を非常にわかりやすく表現しています。すごい。汚い女子が綺麗になる話でいうと、誰もが思いつくのがヘップバーン主演の『マイ・フェア・レディ』。これは1964年の大ヒット映画ですが、それよりも早く、あの映画を超えたものができています。

最後の終わり方もいいですね。どう終わるのだろう、と途中から不安になるのですが、放り出して終わりました。あの放り出し方は格好いいです。あほみたいに虚しい終わり方です。考えてみるに、この話に体のいい終着は必要ない。カタルシスとなる結論などありえはしない。自社がつくった景品を着込み、その馬鹿らしさに包まれながら終わっていくあのラストは大変に秀逸。

 50年前の「現代劇」ですが、今観ても十分見応えがある。いや、この映画は半世紀を経た今にしても、まったく古くなく、不思議なことにまだ邦画が活用し切れていない新しささえも孕んでいます。おすすめです。
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by karasmoker | 2009-03-10 11:15 | 邦画 | Comments(0)
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