『プライベート・ライアン』  スティーブン・スピルバーグ 1998

戦闘シーンは完璧。だけど物語が…。
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こういう大作をぼくは結構見落としてきています。今まで触れる機会があったはずなのに、観てこなかったんですね。まあ、映画をきちんと観るようになってから触れることができたのは、幸福と言えばそうでしょう。

 本作は戦争ものの中でも、その戦闘シーンの白熱ぶりに評価が高い作品で、怒濤のごときそれらのシーンの濃度は時間を忘れて引き込ませるものであり、なるほどすさまじいものでありましたが、映画として心に残るものかというとそうでもなく、ではそれは何故なのだろう、というのを少し考えてみたいと思います。

 本作はノルマンディー上陸作戦に参加した一部隊が、ジェームズ・ライアンという兵卒を捜し出すのが主軸となっています(原題は『Saving Private Ryan』)。ライアンは五人兄弟の一人で、他の兄弟が皆同大戦で戦死を遂げており、それでは故郷の親が悲しむだろうとの配慮から国が救出を指示、トム・ハンクス扮するミラー大尉の部隊がどこにいるかわからない彼を捜しに行くという話です。

 映画は三時間近くありますが、これを序盤・中盤・終盤と分けたときに、序盤・終盤のシーン、つまり大規模な戦闘シーンは圧巻でした。ここは確かにすごいのです。中盤では部隊のライアン捜索の旅が描かれますが、ここはいろいろな描き方ができるところです。
 
部隊に8人の隊員がいるのですが、彼らの描かれ方はもっと味わい深くできたようにも思われます。3時間近い映画の中で、あの人々の個性というか、生き様というか、そうしたものがもうひとつ伝わってこなかったのが本音です。この8人でなくてはならない、というのがないんです。だから、ああ、あいつがやられてしまったのか、というのもなくて、隊員たちが死を嘆いてももうひとつぐっとこない。中盤を魅せる山場としてはそこですよね。3時間引っ張り続けるために、死んで欲しくない人物が死ぬと、物語に綾ができる。そこで物語に喪失感が生まれ、それでも突き進まねばならぬ苦難が浮き出てくる。ところがこの映画の隊員にはあまり魅力がない。せっかく大隊を離れてはっきりと小隊になり、ここの人間模様なり何なりをわかりやすく描けるのにあまりそれをしていない。そこはどうしてなのだろうかと疑問ですね。小隊編成にするなら、それをしなくちゃいけないんじゃないでしょうか。大隊なら別なんですが、道中の苦境があまり立体的ではなかった。せっかく台詞で「brotherhood」と出てくるのに、あまりbrotherhoodが浮き上がってこない。

 ライアンを後半までずっと出さない、というのは明確な選択です。タイトルにもなっているくらいだから、監督が違えば序盤で多少なりとも顔を見せることをするでしょう。トム・ハンクス側とマット・デイモンのライアン側の二つで並行的な構成にすることもできたわけですが、この映画はその道を選択しませんでした。デイモン側を描いておくと、いざ両者が出会ったときに面白みが生まれます。テレビ番組『電波少年』のスペシャル版、『電波少年インターナショナル』における「キャイ~ンのおつかい」はまさにそれで、両者が出会おうとしてなかなか出会えず、ついに片方のカメラがもう片方を捉えたとき、「あっ、見つけたぞ今!」という驚きと悦びが視聴者にも伝わった。この映画はその道を回避した。であるならば余計に、中盤が物語における最も重要なシークエンスとなるはずで、だからこそ中盤の描き方がぼくはとても気になりました。

 完璧にトム・ハンクス側の部隊で進んでいるものだから、マット・デイモンにちっとも思い入れが沸かない。さらにまずいことに、映画の冒頭とラスト、あの場面ではマット・デイモンに老け役をさせるでもなく、見知らぬ老人をライアンの老いた姿として出している。どうしてあんな選択をしたのか。ぼくにはよくわからないんです。選択としてベストな道を進んでいるように思えない。いや、狙いはわからないでもない。あの誰だかわからない老人をスタートで出して、その後すぐにトム・ハンクスを出す。あれによってあの老人がトム・ハンクスの老後だと思わせることができる。すると何が起こるかというと、物語のラスト、トム・ハンクスの死が予期せぬものとして映り、観客は驚き、ああ、あの老人はマット・デイモンのライアンだったのか、という驚きになる。これを狙うなら無論、マット・デイモンの老け役はありえない。しかしそんな狙いであればこの映画には不要の目論見と言わざるを得ず、だとすればどうしてあの選択をしたのかぼくにはわからなくなります。

 戦闘シーンは確かにすごい。でも、物語的な効果として、変な選択ばかりしている気がしてなりません。マット・デイモンのライアンに思い入れを感じさせないようにしたい、ということなら、その願いはわかる。実際自分があの捜索部隊として出かけたら、「誰やねん、なんでそんなやつを探さなあかんねん」となるでしょうし、実際見つけても思い入れはわかないでしょう。それよりも、死んでいった仲間のことばかりが思い出されてならない、とこうなるでしょう。そうなれば観客の気持ちに振り子ができるし、そうなれば効果的です。でも、先述したとおり、この映画の小隊の面々はあまり魅力的ではない。だから死んでいった者への哀しみが沸きにくい。語り方として、やはりぼくにはベストとは思えない。

とまあ、この映画への不満はそういったところです。うん、人物の描き方がもうひとつ弱いなあというのはどうしてもあります。アパムの弱さはもっと濃厚に描けたんじゃないかなあというのを感じていて、彼の弱さによって人が死ぬんですが、そこもあまりアパムに腹が立ってこないし、恐怖も伝わってこない。

 戦闘シーンはすごいんです。だからこそもったいない感じがする。前回の『新幹線大爆破』と同じで、いいところはすごくいいのに、悪いところが見えてくるから、結局全体として傑作とは呼びがたい。このシーンはあまり何も起こらないだろうなあ、というところでやっぱり何も起こらないと、緊張しないんですね。マット・デイモンを見つけたときくらいですよ、驚きがあるのは。あとはそうでもないなあ。煉瓦が崩れて敵と対峙したときも、もうひとつ驚きが弱かった。何でしょうね。戦闘シーンは百点なんだから、もっと物語に力入れてくれよ、と強く言いたい作品でした。
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by karasmoker | 2009-03-24 01:09 | 洋画 | Comments(0)
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