『コンタクト』 ロバート・ゼメキス 1997

ジョディのアイドル映画。
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最近は訳もなく大作を続けて観ています。今回の『コンタクト』はウィキによると制作費9千万ドル。9千万ドルかけての大作ですが、ぼくはこの映画、ジョディ・フォスターのアイドル映画のように思うのですね。

 2時間半の間、ずっとジョディ・フォスターが出ています。とりたてて好きな女優ではないので、あれだけ出続けていると辟易します。彼女のための映画みたいにも思える。当然にして彼女の役柄は真っ直ぐで実直で研究熱心でという設定になっていますから、そんなに面白くもない。なんだかなあ、というのが正直なところです。一人の人物を追い続ける作品が悪いのではもちろんありません。ただこの映画の場合、それなりに大規模な設定を施し、大金を賭けてできた大作なのですから、彼女でずっぱりにされてもなあということであって、しかも彼女が特別なのはただ終盤で特殊な経験をするところだけであり、その意味で言うと描き方が面白くないです。

 宇宙人から設計図が送られ、それをもとに特殊な装置の建造が始まります。一人の人物の手によってそれが破壊され、大爆発するのですが、それまでの部分はずっと安穏としていて、違う言い方だと退屈。というのは、このジョディ・フォスターの役柄をどうも好きになれない、というのがあるんですね。

 宇宙との交信をしたいのにそのための予算が打ち切られる、となり、その決定をしたドラムリンという人物のところに抗議しに行くのですが、そのときの台詞が引っかかった。税金で仕事をしているのだから役に立つ活動をしないと駄目なのだ、とドラムリンが説明し、それがなるほど道理の通ったものなのですが、このジョディ扮するエリーは感情的に、「だから何よ! この研究は私の人生なのよ!」みたいなことを言うんです。もうこの時点でぼくはこいつが嫌いです。おまえの人生なんか知らんがな、ということですから。そこは嘘でも虚勢でも、その研究がどれほど有意義なのかをちゃんと説明しなくちゃ行けないでしょう。それを「私の人生」などと言って怒って立ち去る。バカ女です。

 その後ドラムリンが邪魔だなあみたいになるんですが、このエリーってどうもぼくからすると純粋に宇宙の研究をしたい、交信をしたい人間に見えないんです。宇宙との交信ができたぞとなって、マスコミが詰めかける記者会見のシーンがありますが、このとき研究の中心人物だったエリーをさしおいて、ドラムリンが舞台に立ちます。これをエリーは不服そうにしている。ジョディ・フォスターとしては自然な態度ですが、エリーの態度としては引っかかる。彼女は科学者で研究、交信をするのが目的のはずなのだから、別にあそこで自分が目立つ必要はないのであって、こうなるとこのエリーという女をやはり好きになれない。あの場合、エリーの味方の誰かが不服そうにしていてもエリーは気にしていない、くらいの描き方にすべきじゃないでしょうか。そうしないと二時間半出続けるこの女を応援する気持ちになりにくいんです。

 映画について言うと、宇宙との交信を進めていく中で科学と宗教の対立図式が描かれていて、それが物語の要所を担っているのですが、なぜ宗教側があのプロジェクトで科学を敵視するのかがぼくにはよくわかりません。神の領域的なことなんでしょうか。

 映画と離れてしまいますが、ぼくはこの「神の領域」なる表現がわかりません。クローン技術で人間をつくりだすことができる、というものに対し、それは神を冒涜するもので云々と批判されたりしますが、ぼくからすると、「神への冒涜だ!」みたいなことを言うほうが神を冒涜している気がする。神が人間を生み出したのだとして、神は超越的な存在なのでしょう? だったら神は、人間がクローン技術を生み出すことくらい織り込み済みじゃないですか? 人間が技術の発展で新たなことができるようになったところで、神の領域になんて踏み込めないと思うんです。人間が何かを行ってもそれは全て神の掌の上にあると考えなければ、本当の意味で神の超越性を信じることにならないと思うんです。

 話がそれました。そう考えることもあって、なぜこの映画での宇宙との交信が宗教者の怒りに触れるのか、よくわからなかった。別に神に会うと言っているんじゃないんです。地球外生命体に会うと言っているだけなんですが。
 
 恋愛パートもいらんなあと思う。あれこそジョディへの接待みたいな感じがぷんぷんします。この映画で恋愛パートは重要じゃないです。研究や宇宙との交信という方向と何も関係がないし、むしろもっと周囲の技術者たちを重く描いて欲しいです。ジョディ本人か、もしくは事務所が押したんでしょう。「恋愛のシーンを入れてくれ」と。それがなければもっと短くて濃度のある話になったのに。

 映画として面白かったのは、散々待たされた後やっとの、あのトリップシーンです。
 ただ、ここでもやっぱりジョディ大写しです。いい加減にして欲しいです。あのトリップシーンなら、それこそ『2001年宇宙の旅』的に、トリップのうねりを全画面で映せばいい。9千万ドルも使っているのであり、キューブリックの頃から30年経っているのだから、観客に魅惑を与える映像だってもっと魅せられる。それなのにこの映画はトリップの様子の傍にジョディの頭部を映すものだから、映像的に面白くない。なおかつ彼女の目線に同化できないので、結局は彼女への移入を阻害している。あのトリップがこの映画における映像的魅力を一番伝えられるシーンだった。なのにもかかわらず、「頑張るジョディ」ばかり映している。何をやっているのか。

 浜辺のシーンは画として面白いです。嘘みたいに綺麗な浜辺で、あのシーンは特殊だった。あれをもっと活用すれば映画的なスペクタクルが花開いたんですが、このときもやっぱり…。

 ここ最近大作を観続けていますが、どうも「もったいない」と感じることが多い。映画はバランスが大切です。この映画のバランスはよくないと思います。もっとこうすれば、とずぶの素人のぼくが思うのですから、映画作家たちはもっと思うんじゃないでしょうか。それともこれは素人ゆえの愚見に過ぎず、あれで正しいのでしょうか。それでもやはりこの映画は「ジョディ過ぎ」ます。ジョディ大好きのあなたにははお薦めです。まあ、そんな人はとっくのとうに観ているわけですから、じゃあ誰にこの映画をお薦めましょうか。
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by karasmoker | 2009-03-25 23:08 | 洋画 | Comments(0)
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