『日本の夜と霧』 大島渚 1960

当時の知識があればもっと楽しめるのでしょうが、この描き方なら小説のほうが適切ではないでしょうか。
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大島渚の作品は今回が初鑑賞です。入り口としてこの作品は正しいのでしょうか。『夜と霧』(1955)といえばアウシュビッツの記録映画として有名で、これについては大学時代に授業で観た覚えがあります。全編だったか一部だったか忘れましたが、確か駒場の1323教室(ああ、懐かしい)で観まして、確か小松美彦の授業だと思うのですけれども、この人はその講座の初回授業でテレビドラマ『高校教師』(桜井幸子・真田広之主演)の最終回を見せて講義をしたりして、一種のカルチャーショックを受けた覚えがあります。『夜と霧』については、ブルドーザーが数多の死体を穴へと押しやる描写が焼き付いています。こんな映像があるのか、本物なのか、洒落になってないぞ、と衝撃を受けた記憶があります。

 さて、『日本の夜と霧』ですが、どうしてこのタイトルがつけられたのか、あのアウシュビッツ記録映画とこの映画にどういう関連があるのか、『夜と霧』の詳しい内容を覚えておらず、なおかつぼくの知識がきわめて乏しいせいもあり、よくわかりません。内容はと言うと、1960年の安保闘争とその運動における学生たちの様を描いたもの、ということになりましょう。記録映画ではなく劇映画です。この映画について語るのは、ぼくにはいささか難しい面もあります。

 この映画は公開四日で打ち切りになったそうです。松竹は興業不振を理由にしたそうですが、まあたった四日で興業不振も何もないわけで、明らかに政治的な理由なのでしょう。だから内容的には結構濃いんだと思います。ただ、ぼくはこの辺の知識に乏しいんです。「安保闘争とは何か論じなさい。」という問題を出されたら、ぼくは水増しを繰り返しつつもせいぜい四百字程度しか書けないでしょう。詳しい中身についてはまったくの勉強不足なんです。いや、興味はあるんです。学生運動とか東大紛争とかあの辺については興味があります。ただ、じゃあ調べてみるかと言えばそういう気分にもずっとならず、結局のところこの映画の深い部分についてはわからないとしか言いようがない。

 安保闘争云々、という点を差し引いて一本の映画としてどうかと言えば、まあ一人の映画観(えいがみ、と読まれたし。「本読み」の類義語として用いるが、一般的に使われている言葉かは不明)として言えることはあります。

 まずこの映画の演出として長回しが特徴的であるのはよく言われることですが、本作ではなぜか役者が台詞を噛んだりとちったりしてもそのまま演技が続けられています。役者の失敗をそのままオッケーにした理由は何なのでしょうか。単なる瑕疵なのか、それともメタ的理由を帯びているのか、考えてみたいと思います。

 映画的リアリティの話になります。考えてみるに、ぼくたちの日常会話における本当のリアリティとは、映画におけるリアリティとは違います。日常でぼくたちは言葉を噛みます。でも、映画では噛まない。でも、それをして映画のリアリティがうるさく言われることはありえない。映画とは「そういうもの」だからです。台詞を噛まず流暢に喋る、これは映画に限らず演劇でも何でもいわば当たり前のことであって、本当の日常会話のごとく台詞を噛んだりするというのは、映画では用いられることがない方法です。ぼくはそれでいいんだと思うんです。つくりごとであって構わないし、違う言い方をすれば、つくりごとに徹するべきであって、その見事な徹し方にこそ映画的快楽は宿るのです。ところがこの映画を噛んでもそれをオーケーテイクにしている。そうなると、一気に映画的リアリティがなくなる。「これは映画という虚構である」ということが一瞬にして現前化し、没入は一挙に阻害されます。

 この映画は長回しの演出により、きわめて演劇的な風合いが色濃く出ている。ほとんどが会話劇であり、ひとつの虚構を打ち立てる上で会話の持つエネルギーは当然活かされねばならない。にもかかわらずこの映画は台詞の失敗をそのまま収めている。会話エネルギーはその瞬間に霧消するのですが、これが狙いなのか何なのか。狙いでないなら、どうして瑕疵をそのまま収めたのか。狙いでなくただの失敗なら簡単なんです。この映画駄目じゃん、ということですから。狙いだとするなら、どうして映画が虚構であることを暴くような真似をするのか。ぼくが深読みしすぎなんでしょうか。

 50年近く前の映画を今観て確かに言えることとしては、この映画は一本の作品としては独立できていないということです。当時の情勢ありきの映画です。劇中で闘争の様子がわかるかといえばそうではなく、むしろ現実の闘争に明け暮れる人間がその解釈なり何なりを求めて観るべき映画なのでしょう。だから実際の話、この映画を観て安保闘争の様子を知りたいと思っても、正直わかるようにはなっていません。登場人物同士のやりとりも生き生きとしてこない。ずっと話しているだけですから。登場人物の名前を出して、あいつはどうのこうの、と批判し合ったりするんですが、その話題の対象となっている人物が何をした人なのかとか、もうひとつわからない。人の名前が印象に残らないんです。何かしでかすシーンに乏しく、せいぜいタカオという人物くらいしか印象に残りません。闘争のシーンも象徴的に旗をゆらゆらさせているだけです。あとは暗闇に人物のスポットが出てくるだけ。最初のほうでそれがあると、何か変な感じで面白く思うのですが、結局観終わったときによくわからないというほかない。

 この映画を一言で言うとしたら、二パターンの言い方ができましょう。
 ひとつ。対応年数を遙か遠くに失った映画である。これは当時の情勢ありきですから、当時を生きた人にはよくわかるものでしょうが、今となっては伝わるものに乏しい。
 ふたつ。あの当時の安保闘争の学生を知るには手がかりとなる映画である。実際あんな感じの人々もいたのでしょうし、あれこれと書籍を読んだり情報を得てから観てみると、違う発見があるんだと思います。ただ、この作品で安保闘争をより深く知ることができる、とはならない気がしますね。多少立体的に見えてくる、という感じじゃないでしょうか。

 映画のつくりとしては寂しいものがあります。劇中、何度も何度も出てくる歌があるのですが、あの歌を押す理由がわからない。哲学だ何だと論じ合う学生が、女子大生と踊るなんて軟派だ、みたいなことを言うときにあの歌が出てくるのですが、あの歌がぜんぜん軟派な歌じゃないんです。「若者よ~ 体を鍛えておけ~」と歌うのですが、現代のぼくにはいかにも老人の教えにしか聞こえず、若い男女がダンスをするときに用いる曲として大いに違和感があります。
 
 会話劇で有名なのはこの三年前にアメリカで公開された『12人の怒れる男』があり、そのパロディである三谷幸喜の舞台『12人の優しい日本人』は大好きで何度も観返したのですけれど、あれらのよさはつまり、その当人とは直接関係のない話題を通じてなお、個々人の来歴や性格がよく出ているところなんです。この『日本の夜と霧』はお互いを批判し合うのですが、そのお互いが会話の中で立体的になってこないんです。そのうえ台詞を噛むから、個々人の問題が浮き出てこない。うん、知識があればもっと楽しめるはずなのですが、これを観終えて、「ああ、ぼくにもっと知識があればもっと楽しめるだろうな」とはあまり思えません。映像ならでは、というところはなく、小説のほうがよく描けるのではないかと思わせられる。映画的魅力には欠ける、と申しあげます。
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by karasmoker | 2009-04-05 02:10 | 邦画 | Comments(0)
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