『M★A★S★H』 ロバート・アルトマン 1970

アメリカン・ニューシネマの輝きとは。
d0151584_23155611.jpg

 タイトルの『マッシュ』とは”MASH”=”Mobile Army Surgical Hospital”で、米軍のキャンプ地における外科病院のことです。本作は鮮戦争中に従事した軍医たちをモチーフにしており、カンヌグランプリを受賞していますが、決して戦時下の深刻な状況を描いたものではなく、軍医たちの放埒な生活を写したコメディ的な作品です。

 ロバート・アルトマンの作品を鑑賞したのは遺作『今宵、フィッツジェラルド劇場で』(2006)に続いて二作目。『今宵~』はその演出の「外し方」に大いに惑わされましたが、本作もまた、十二分に味わいきることができなかった。まだ二作しか観ていないわけですが、ぼくはこの監督、苦手かもしれないです。
 
1970年と言えばアメリカン・ニューシネマたけなわの頃で、本作も権威的なものに対する反発というのがひとつの主題であるようですが、本作ではその権威のほうがちっとも浮き上がってこないんです。だから放埒さばかりが前面に出て、緊張感がない。松本人志の話を思い出します。彼は不良がやりたい放題やっている高校に通っていたそうですが、あまりにやりたい放題で先生が押さえつけないから、逆に面白くなかったと言います。不良ってバカな生き物ですから、権威があると反発し甲斐、ふざけ甲斐を感じるんです。映画でも同じことで、彼らを押さえつける人間がいるから光るものが生まれるわけで、反発に光が宿るんじゃないんですか。この映画に出てくる外科医たちは皆不良みたいなものですが、彼らが暴れてもそれを押さえつける権威者がいないから、いたとしてもぜんぜん無力というかやる気がないから、不良の輝きが見えてこないんです。

いや、それならそれでいい。放埒ならそれもいい。アメリカン・ニューシネマの輝きはそれです。ただ、放埒であればあるほど、その後に哀しみが宿るという点も含めてアメリカン・ニューシネマはいいんです。『俺たちに明日はない』にしろ『明日に向かって撃て!』にしろ『イージー・ライダー』にしろ、そこにある敗北が映画に逆説的に輝きを与える。ニューシネマの中でぼくが一番好きな『カッコーの巣の上で』はその好例で、あれはまさにジャック・ニコルソンの放埒な振る舞いと精神病院の医師たちの抑圧が対立していて、それでも結局ああいう結末を迎えてしまうことになり、だからこそラスト、ネイティブ・アメリカンの男が去っていく後ろ姿がひどく印象に残る。別に敗北の美学を賛美するわけではない。この『マッシュ』の彼らに負けろと言っているのではない。ただ、彼らは戦っていない。何にも勝利していない。そう、彼らが戦っていないことが、ひどく不思議なんです。

 特典映像の映画誕生秘話で、この映画を褒める評論家のインタビューがあり、「戦争の張り詰めた雰囲気の中で、彼らは好き放題に振る舞うことで精神の均衡を保とうとしていた」みたいなことを言うのですが、いやいや、ぜんぜん戦争の緊迫がないんですよ、この映画。戦闘シーンは皆無ですよね。いや、別に戦闘シーンはなくていいと思うんです。ただ、戦闘シーンを描かずに戦争の恐怖というか、野戦病院の緊張感を生み出すことが鍵だと思うんです。この軍医たちは権威とも戦っていなければ、戦争の最中で必死になっているとも思えない。単にふざけているばかりです。何の対比もないんですよ。

 要するに振り子がないわけです。彼らの反権威的な、自由な振る舞いを輝かせるための振り子が。肝心の手術シーンも別段緊張感はないです。絶対にこの患者、傷ついた兵士を救うんだ、という意気込みが何も感じられない。この映画で彼らが戦うのはまさにそこでしょう。そこで戦ってくれれば何の文句もないんです。でも、この映画の手術シーンはぜんぜん緊迫していない。そこに真剣さがなければ、この主人公たちを愛せないですよ。

 他の演出面でも、これは外国映画でよくあることですが、まともに日本人を使う気もないのに日本の描写をするな! あのくだりの必要性が何もわからない。日本に行って大事なオペをしてくれと言われて日本に行くのですが、台詞も明らかに日本人じゃないし、あそこでしか描かれないことなんてないし、空気は分散するし、何の得もないです。ちょくちょく日本の歌を入れてくる理由もわからない。それも日本人の発音じゃないし、この映画に日本的な要素が必要ですか? 必要ならちゃんと描けよ! 不必要なら描くなよ!
要はあれですよ、朝鮮戦争、ね、東洋の国に行っている自国の兵が描ければそれでいいと思っているんですよ。東洋っぽいのも入れておこうみたいな感じなんですよ。その辺がぜんぜん真剣じゃない!

 それとこれも演出面でまったく意味がわからないのですが、あの歯科医の男の話は何なのでしょうか。国には三人の婚約者がいるんだ、とものすごくへこんだ歯科医が出てきます。なんでへこんでいるのかと訊けば、自分の中の潜在的なホモに目覚めたと言うんです。それでもう自殺してやるみたいになって、皆がその手伝いをするふりをして自殺をやめようとするんですが、もうこの辺のくだりがぜんぜんわからない。薬を飲んで自殺を図るみたいにして、男が寝ているシーンがあり、そこに一人の女性をやり、セックスをさせて元気を出させ自殺をやめさせるみたいになるんです。いやいや、だってその前に別の可愛い女と過ごしても駄目だったんでしょ? なんであの無関係な女が救えるんですか? そうではなく、もし勃起できなかったことを自分の同性愛への目覚めと勘違いしているのだとしたら、あの薬を活かさなきゃ駄目でしょう。たとえば自殺のための薬と偽って飲ませ、それが実はバイアグラ的なものになっていて解決とかならわかるんですよ。それならあの男が死を待って寝ているシーンで、布団にちんこのテントを立たせたりすれば、笑いにもなるじゃないですか。このくだりがもうぜんぜんわからない。最後のアメフトも、なんであそこでアメフトなんですか。何やってるんですか。
 
 映画のテーマとしてはわかるんです。というか、ぼくにとってすごく嬉しいテーマではあるんですよ。戦争とかそういう苦境に置かれた人間が、笑いによって救われるというのはぼくにとって一も二もなく好きなテーマなんです。だからその分もあり、この映画の描き方は余計に嫌です。前にも『プラトーン』のとき書きましたが、アメリカが戦争を描く場合、ある意味一番難しいというか、ナイーブに取り組まないといけないと思うんです。戦争を描くときは真摯にやれよ! 戦争をちゃんと描いて戦争の何事かを語れよ! これじゃあ戦勝国のおごりだよ。徴兵で戦場来ちゃったけど、なんか楽しくやってまーすみたいにするなよ! 彼らが輝くには是が非でも、戦争の苦境と背中合わせであるという哀しみが必要なんだよ! それもなしに、権威への批判とか批評とか皮肉とか言われたって、何も伝わってこないんだよ!

 これが傑作と言われる理由がぼくにはぜんぜんわかりません。長くなりましたが最後にひとつ。この映画、原作の小説があって、それに惚れたプロデューサーとかが監督探しに奔走し、アルトマンに出会ったらしいんですが、アルトマンはなんと役者たちにアドリブでばかり台詞を喋らせており、脚本家は激怒したらしいです。それってどうなんでしょうか。だとするとこの映画、一貫していないですよねえ。脚本の、つまりは原作の旨みを削って監督が好きにやらせたわけでしょ。だったらそもそもの話、台詞をアドリブにするとかじゃなくて一からちゃんと再構成しろよ。それじゃあプロデューサー、脚本家、監督の意図が一貫していないじゃないですか。それでこの映画のこの感じですよ。すみません、ぼくはこれを傑作とも良作とも佳作とも言えないです。なぜカンヌグランプリまで獲ったのか、アカデミー賞脚本賞をまで獲ったのか、ぜんぜんわかりませんでした。
[PR]
by karasmoker | 2009-04-08 00:07 | 洋画 | Comments(0)
←menu