『エクソシスト』 ウィリアム・フリードキン 1973

中途半端に原作をなぞる必要はない。
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「有名すぎて逆に観ていなかった」シリーズ、『エクソシスト』です。この後の時代にはゾンビ映画とかスプラッターとかが花開き、特殊撮影、特殊メイクの技術も上がっていい作品が沢山つくられていきますが、あの悪魔に取り憑かれた少女の姿は、この頃のものとしてはかなりいいんじゃないでしょうか。安っぽい感じもないですし、技術が足りていないなあと思うこともなかった。1973年当時としてはかなりショッキングな映像と映ったことでしょう。

 冒頭は意外な始まりでした。悪魔に憑依されベッドで寝そべる少女のイメージが強かったため、イラク北部の遺跡採掘の場面から始まって意表を突かれた。ただ、全体を通して捉えたときに、この場面いるかなあ、とも感じます。神父がある悪魔の像を発掘し、それがどうやらかつて戦った悪魔のものであったということなんですが、どうもこの序盤のシーンは浮き上がっているというか、別のやり方でそれを示すこともできたんじゃないかという気がしてしまう。悪魔の像と神父の対峙が後々の対決を暗示しているのはわかりますが、むしろイラクの鮮やかな景色のほうが色濃く焼き付いてしまうんです。

 ぼくが観たDVDはディレクターズカット版で、公開版より十分少々長いのですが、やはりディレクターズカット版とか完全版とか、それが必ずしもいいわけではないと思いますね。その作品が大好きなファンにはよさそうですが、長さを感じるいちげんさんも多いはずです。この映画で言うと、取り憑かれるまでがちょっと間延びしてしまった。カラス神父の母親のくだりってそれほど必要なのでしょうか。あの神父の家庭事情云々を描くより、あの神父が一生懸命悪魔と戦うシーンをもっと盛り込んでくれた方が楽しめた。結局この映画って、そこじゃないですか。先々まで残る名作だと思いますが、人々の心に残るのはあの悪魔との格闘シーンのインパクトだし、あの神父と母親の話が印象的だという人はほとんどいないんじゃないでしょうか。原作で描かれているエピソードを中途半端に盛り込んだ感じは拭えないです。いや、盛り込むなら盛り込むで、あの母親は精神病院に入れられるじゃないですか。あの精神病患者たちのありようと悪魔に憑依された少女の対比で何事かを語れたと思うんです。それをする気がないなら、やっぱりあの母親とのエピソードは要らないと思ってしまう。

 うん、これはディレクターズカット版で、あのシーンも入れたい、このシーンも入れたいと思ったからかもわかりませんが、どうもその分、中途半端な入れ具合で意味がなくなっているところが多かった。あの母親が女優をやっているという設定で、ドラマだか映画だかの撮影シーンがあるんですが、あれを描写して何を描きたかったというのでしょうか。これももったいないんですよ。女優、俳優は自分とは別の人格をそこに発生させる人々であって、それはこの映画の悪魔の憑依、別の存在がある人物の人格に乗り移ることのメタファにもなり、ここにもなにがしかを込めるヒントは隠されていると思うんです。いや、それをすると確かにもっと長くなるし、そもそも話の主軸であるところの悪魔憑依のインパクトがぶれる恐れがあります。だから本気でそれを描けばすごく大変になる。だったら、端から入れなくていいんじゃないでしょうか。あの母親が女優であるという設定自体、必要ないです。

 さて、気になったことを沢山述べてしまいましたが、この映画でいいのは子役のリンダ・ブレアです。可愛すぎない、適度な愛らしさがあります。余計なことをあれこれ描くくらいなら、あの子と母親の交流を通してもっとあの子を大きく描くべきだった。いや、十分に存在として意味があるんですが、もったいなかったですね。その点を置いてみれば、このリンダに関しては文句のつけようはありません。父親の不在は正解ですね。この映画には父親は要らない。身体の異常が原因では、と言われてリンダがあれこれ検査をされるシーンでも、苦しがっているところなどはとても可哀想に思えました。ぼくはおそらく世間一般の人に比べて子役に感情移入する度合いがきわめて弱いと思うのですが、このリンダの検査のシーンは可哀想な感じがよく出ていました。
 
 リンダが悪魔に冒されてしまう場面も、感傷性が少なくてよかった。悪魔に冒されているときは本当に精神を支配されており、中途半端に意思表示して感傷性をもたらすという愚を犯していません。だからこそ、あの腹に浮き出た"help me"が効果的になります。子役に演技させるのでなく、あの視覚的演出で控えめに見せたのはうまい。悪魔に冒された彼女の描写については言いたいことがありません。ブリッジ姿で歩く有名な場面も、いくぶんの滑稽さはあるにせよ、「何が起こっているの?」という不可思議さを生むうえで意味がありましたし、なんかよくわからない緑色の液体を吐くシーンについても、なんであんな色の液体が出るのかはわかりませんが、毒々しい感じを高めたという点がいいので細かいことはどうでもいいです。白目を剥き出しにしているのも、単純ではありますがインパクトがありますね。なんだかんだ言って、目が白目になる、というのが一番直感的に怖いです。コミュニケーションできない感じが一番伝わります。

 悪魔祓いのくだりでは、映画の出来とは直接には無関係な感想も浮かんできますけどね。ああ結局、キリスト教の神対悪魔という構図なのか、という。悪魔って、ぼくの中ではもう訳のわからない存在なんです。だから怖いというか、不気味さがあるんですけど、結局これはキリスト教信仰の枠組みの中に収まる悪魔なのだな、というのはあります。その意味では強くない。宗教とか信仰とかそういう枠組みを超えた恐怖こそ真に悪魔的というか、どうしようもないものだと思えるので、結局は神と直線的に対峙しているものとしてしか捉えていないのかというのは少し残念です。

 最後、ここからはネタバレですが(まあ三十年以上前の名作ですからネタバレも何もないか)、カラス神父も遺跡発掘していたあのメリル神父も死んでしまいます。メリル神父はまだいいのですが、カラス神父の最期はもっと重々しくても、仰々しくてもいいんじゃないかと感じてしまう。『ポセイドンアドベンチャー』では牧師が死にます。あの死のあっけなさは効果的だったんですが、この映画の場合はせめて、取り憑かれた悲壮感がもっと強くてもいい。そう感じるのはラストシーン、物語で大した働きも見せていない二人の男で終わったからです。この映画はあの対決の余韻で終わってもいいのに、「正直おまえら何もしてないやんけ」な人たちがごちょごちょ喋って終わるんです。あれをするなら、もっとカラス神父の最期を濃く描いてくれと思いました。『ポセイドンアドベンチャー』のスコット牧師の最期が印象的なのは、あの後ものすごくさらりと映画が終わるからだと思うんです。この映画、あのラストシーンにした理由がとても疑問。あの対決の夜で終わっていれば、たとえば救い出されたリンダの姿と泣き声を背景に暗転し、エンドロールに入っていくなんて演出にしてくれれば、鑑賞後感はもっと切なく、なおかつ良質なものになるんですが、実に置きにいった感じの終わり方でした。
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by karasmoker | 2009-04-09 02:30 | 洋画 | Comments(0)
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