『清作の妻』 増村保造 1965

疎外された人間がその疎外された状況ゆえに放つ、哀しい光。
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『巨人と玩具』のインパクトに目を丸くさせられたぼくですが、この増村保造という人はやっぱり変わった監督だなあと思います。どのように「変わった」監督かといえば、その描写のテンポにおいて同時代の作品群と一線を画している感じがする。いや、同時代の作品群を多く観ているとはとても言えないぼくですが、ぼくが今まで抱いてきた60年代邦画へのイメージからはみ出すものを、この監督の作品は持っているのです。

後に大映ドラマの演出・脚本に携わっていることからもわかるように、この監督の物語運びは、少なくともこの『清作の妻』においては、かなりテレビドラマ的な風合いがあります。観客を待たせることなくどんどんと台詞を喋らせていくんです。この映画は明治時代(日露戦争前夜)の貧困な村が舞台で、その舞台設定自体決して饒舌な会話劇に向いたものとは思えぬのですが、この監督は沈黙を嫌悪するかのように喋りを紡いでいます。テレビドラマ的、と思うのはつまり、人物に台詞を喋らせることでその内面を観客にわかりやすく伝えている、ということです。映画の常道として、たとえば目線だけでその人物の内面を表現させたり、風景や音楽によって人物の内面を象徴、あるいは代弁させたりという手法がありますが、『清作の妻』においてはとにかく皆がよく喋る。皆がどういう人物なのか、テレビドラマ並みにわかりやすいんです。物事のタイミングや時間経過なんかも映画というよりテレビドラマ的な感じが強いです。

 どういう映画かまだ書いていませんでした。若尾文子演ずるおかねが呉服屋の隠居に溺愛されている場面から物語は始まります(どこか谷崎潤一郎の『痴人の愛』っぽいなあと思ったらこの監督はまさにあの小説を映画化しているのですね、未見ですがぜひ観てみたい作品です)。しかし映画が始まってすぐさま隠居は死んでしまい、おかねは財産の一部(一生を暮らせるほどの大金)をもらい受けます。その折り病弱な父親が死に、おかねは母親とともに故郷の村に戻るのですが、隠居との付き合いも知られているうえ付き合いも悪いおかねと母親は、人々から村八分にされてしまいます。その一方、田村高廣演ずる清作という青年が軍隊から村に戻ってきます。彼は村一番の実直で真面目な、軍隊でも模範兵として勲章をもらうような若者です。彼がおかねに惚れたことから、物語は駆動していきます。

 この田村高廣演ずる清作は、もう誰からも嫌われることがなさそうな本当に爽やかな青年です。嫌っているやつがいるとしたらそいつが悪い、というくらいの、本当に真っ直ぐで健康的な青年なのです。彼が美人ではあるけれど陰気な、嫌われ者の女、おかねに惚れてしまうところから物語的なダイナミズムが生まれるのです。前述の通り、村の人々は饒舌です。この清作も爽やかです。その分、おかねの静けさ、暗さ、陰の部分が引き立ちます。テレビドラマ的と書きましたが、ここにこそこの映画の単にテレビドラマ的ではない(つまりは現代のテレビ局主導大作映画どもとは異なる)魅力があるのです。

 おかねというのは主人公でありながら、観客とともにありながら、村の人々よりもずっと観客にとって謎めいた存在として位置しています。皆はわかりやすい。主人公である彼女だけがわからない。この対比がおかねの計り知れぬ人間性を感じさせ、であるがゆえにあの事件が生々しく迫ってくるわけです。ある意味、町田康の『告白』的でもあるなあと思います。あの小説では、村人たちが思弁と言語が直線的な人物として描かれていました。つまりはおもろいものを見ればおもろいと言い、好きな女に好きと言えるわかりやすい人々。しかしこと主人公の熊太郎はそうではない。思弁の言語化を果たせずに、自分の内面すら人に語る言葉を持たずにずっとやきもきしています。この映画のおかねを観てあの小説を思い出すのは、彼女だけが村人や他の人物とは違う文脈を生きているからなんです。

 おかねと清作は懇ろになり、清作は周囲の村人に笑いものにされつつも、二人は睦まじく暮らしていました。その折、清作のもとに日露戦争の召集令状が届きます。清作は当然のごとく出兵を決めて出て行きます。半年が経過し、彼は戦場で負傷して戻ってきます。しかし傷が癒えたらすぐにまた戦地へと赴くことになる。村の人々は皆、名誉の戦死を遂げよと嬉々として彼を送り出します。ところがおかねだけはそうは行かない。もう戦争に行かせたくないんです。しかしいよいよ汽車の出る時間となる。清作を戦地に行かせたくないおかね。そして送りの宴の最中、彼女はある行動を取るのです。

 何が起こるかはぜひ実際にご覧になっていただければと思います。まあ四十年以上前の作品ですから、いまさらぼくがネタバレを気にしてもどうしようもないですが、ここはまあ観てもらいたいと思います。最後はまあ、そうなるのかあ、というのはありますけれどね。最後はなんか落ち着くかあ、そこに、というのはないでもないんですが、確かにあのラストシーンはきわめて味わい深いものがあるのは事実です。あの事件からの流れはすごいですね。あれほど愛されていた清作が、そしてとても可哀想な清作が、あんな風にされてしまうのかと。あの流れにおいて、今まで文句なしに爽やかであるがゆえにどこか絵空事的な人物だった彼がぐっと人間味を増すわけで、その意味ではあの終盤の展開もむべなるかな、というところです。

 今日も長くなりました。最近はなぜか長くなる傾向があります。たくさん語りたいところが出てきてしまうのですね。若尾文子のすごさについても語りたいですが、さらに長くなるのでやめます。この映画でもうひとつだけ言うとしたら、あのデブの知的に障害のある男がいい味を出しています。『怪物くん』におけるフランケンのごとき愛着と哀しさを備えたキャラクターで、物語に綾をつけています。彼もまた疎外された人物です。疎外された人間だけがその疎外された状況ゆえに放つ、哀しい輝きを描いた作品であります。
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by karasmoker | 2009-04-10 01:03 | 邦画 | Comments(8)
Commented at 2009-09-21 05:40 x
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Commented by karasmoker at 2009-09-21 19:55
コメントありがとうございます。
見ての通りのコメント過疎であるため、とても嬉しいです。
増村作品ではまだまだ未見のもののほうが多いのですが、
何かお薦めのものはありますでしょうか。
また、他の監督の作品でも、これぞというものがあったら
ぜひ教えてください。
Commented at 2009-09-21 20:57 x
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Commented at 2009-09-21 20:58 x
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Commented at 2009-09-21 21:11 x
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Commented by karasmoker at 2009-09-22 03:04
丁寧なコメントを頂き、感激しております。
> 増村作品が好きな方~なかなか実生活では出会えません
というのはよくわかります。かと言って、たとえば新文芸坐の特集上映に来た人と話をするかと言われればそうでもないわけで。たぶん、誰しもが話したい衝動を抱きながら沈黙しているんですね。
 デ・パルマはいいですねえ。増村もそうですが、映画という表現法でなしうることを、映像技巧的なものを積極的に用い、どんどんやろうとしている点が大変好きです。ぜひお薦めの作品を観てみたいと思います。
 クラウス・キンスキーという人は恥ずかしながら名前さえ知りませんでした。こんなブログをやって偉そうなことを書きつつも、まだまだ無知かつ無教養なぼくですが、今後もお暇なときに覗いていただければと思います。
Commented at 2009-09-22 04:27 x
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Commented by karasmoker at 2009-09-22 09:54
お褒めの言葉をいただき恐縮しております。
今後もぜひぜひコメントをください。
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