『おくりびと』 滝田洋二郎 2008

核心部分の説得力の問題。それともぼくがずれているのか?
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現代日本に生きる一応の映画観(えいがみ)としてはシカトしておれぬというわけで、観てみました。あまり期待せずに観てみました。あれだけ評価されているということは、疑ってかかれということですから(ああ、いつからそんなひねくれた人間になったのだ)。

 この映画は意図的に非日本的につくられていると思いました。山形の田舎が舞台だというのに、主人公の本木・広末夫婦が暮らす家はどう見てもヨーロッパ的だし、山崎努の会社にしたって事務所の様子がやけにこじゃれていて所帯くささがないし、チェロというアイテムもまた欧米的な装置です。都会を離れて田舎にやってきた夫婦ですが、決して田舎と都会の対比はなく、あくまでも舞台は欧米的、非・伝統日本的なつくりを有しています。方言こそ田舎っぽいですが、全編を通していかにも田舎っぽい感じはない。この演出によって日本独特の儀式をより特化して浮きだたせるというわけでしょう。海外で評価される一因じゃないかとも思います。欧米人が入りやすい舞台設定ですし、日本映画というより洋画的な風合いが漂っていました。山崎努の振るまいなども、日本のおっさんという感じがあまりないですし、本木雅弘の端整な顔立ちはいわゆる日本的な顔ではないですし。

 撮り方自体もよく、物語の前半部は、ああ、確かに評価されるだけのことはあるなあ、と感心しきりでした。ただ、ただ、ただ、です。丁度中盤くらいで、激しい違和感がぼくを襲いました。ネット上で見られる予告編の場面にもあった、あのシーン。あれに違和感を抱くぼくのほうがおかしいんですか?

 主人公が納棺夫をやっているとなって、それを友人が蔑みます。納棺に立ち会った遺族がその場にいた不良をどやしつけるとき、本木を指して「あんな仕事につく人間になってもいいのか!」みたいなことを言います。これだけでも違和感があるにせよ、まあ田舎の考えというのもあるし、取材を重ねた結果ああいう状況が見えてきたというなら、まだわかるんです。ただ、広末があんな風に反応するというのがもうわからない。都会でウェブデザイナーをやっていた若い女性が、あれほどの忌避感を示すというのがついていけなかった。しかもそのときの台詞が、「触らないで! 汚らわしい!」です。汚らわしいって言葉、若い女性が使わないと思うんです。結構抑制の利いた、舞台設定こそ洋画的ではあるもののリアルな描写を続けてきたのに、あそこでもう、乗れなくなりました。

行定勲の『GO』でも同じような場面がありました。窪塚洋介演ずる主人公が在日朝鮮人だと知った瞬間、それまでいちゃいちゃしていた柴咲コウが急にすさまじい拒否反応を示す。これね、登場人物が年長者ならぼくは、ああ、まあそういう反応をする人もいるのかなあで済ませられるんです。でも、若い世代だったらぼくはちょっと信じられないというか少なくとも、そこまで嫌わないよ! と強く思ってしまう。ぼくがずれているんですか? 『GO』では柴咲コウの父親が朝鮮人を嫌っており、その教育を受けたというエクスキューズ(そう、まさに映画的エクスキューズ!)がありますが、この『おくりびと』の反応って、現代日本でそれも都会で暮らしていたような若い女性にとって、違和感のない描写なんですか? ぼくがずれているんですか? 納棺夫を穢れた職業だと、若い女性が思っているんですか?

 確かに古く、穢れの思想は日本にありましたし、死体を取り扱う仕事は社会的に身分の低い仕事とされていたというのもわかりますし、インドでは制度的にカーストが廃止されたとしても依然階層的差別は根強く、死体の処理は下層の人々の仕事だとも聞きます。確かに死体を扱う仕事に対する忌避感情は伝統としてあるのは認めます。ただ、現代の日本の若者が「汚らわしい!」と叫ぶほど嫌っているとは、ぼくはとても思えません。仕事を知って一度出て行った妻・広末ですが、子供ができたと言って笑顔で帰ってきます。ただこのときも、仕事はやめてほしいと言い続ける。「子供がいじめの対象になる」と言う。いや、あの田舎ならそうかもわかりませんが、日本全体を見渡したときに、いじめの対象になりますか? 

 もっとも、この辺の事情についてぼくは、自分の中にずれというか、普通一般の人より許容度が大きすぎるだろうなという自覚はあります。たとえばぼくに子供ができたとして、女の子だったとして、彼女が風俗嬢やAV女優になりたいと言ったとしても、特別に反対はしないと思います。どういう動機か、ということだけが問題で、その仕事に就くこと自体にはなんら問題を感じません。それはそれでとても立派な仕事です。BONNIE PINKの歌じゃないですが、「誰かの明日を支える素敵なお仕事」です。風俗嬢やAV女優などに対し、社会の男どもは皆「お世話になっている」。お世話になっているのだから、差別したりするのはおかしいと思うんです。でもこれはきっと、世間一般の感覚からはずれていますよね。だからぼくは納棺夫への忌避感についても、自分の感覚を信用しきれないのですが、あれはあまりにもぼくの感覚とずれていました。
 
 この映画にとってあの納棺夫の仕事が中心にあるわけですから、ここは大事なところなのです。あの反応が説得的であるかどうかは、この映画をどう捉えるかという点でとても大きな影響を及ぼします。海外で評価されるのはわかるんですよ。だって日本の感覚を知らないから。でも、日本人がこれを観て賛美する人が多いということはつまり、あの人々の反応を、その通りだと感じている人が多いということです。もしそうじゃなければ、「あんな反応、普通はしないよ」となるはずです。

 あの場面に説得性を感じられなかったぼくは、たとえば吉行和子の死の場面でも入り込めなかった。あのシーンで杉本哲太や広末涼子が何事かを感じる、みたいになるのですが、予定調和だなあと思って仕方がない。ただ、余計なことを言わせなかったのは救いでした。あの後杉本や広末が何をどう感じたのかということに触れないのは正解です。あのシーンの後、仕事を見直したみたいな言明があれば、それこそ最悪ですから。

 色々と文句を垂れてしまいました。もう少しだけ言わせてもらいます。
 最後の、峰岸徹扮する死んだ父親の場面。石を握っていたのが偶然すぎる、ご都合主義すぎるとかそんな野暮なことは申しません。映画的にはそれでいいですし、ああ、父親は息子を愛していたのだな、とわからせるためにはあれでいいんです。ただ、だったらもうちょっと息子・本木雅弘が父親・峰岸徹と別れたときの年齢をあげてほしい。六歳で別れて顔も思い出せない、と言うのですが、だったらあの場面で泣くかなあと思うんですよ。これね、もっと年齢を上にしておいて、それこそ中学生くらいで別れたことにしておいて、自分や母親を置いていった親父をもっと明確に憎んでいるとするほうがいいと思うんですよ、顔も思い出せないとするよりも。そうするとあの石を見てあの父親の長きにわたる愛情の継続を感じられ、父親に対する記憶の解釈が変じ(ここが大事)、一挙に記憶に対する印象の書き換えが行われるようになり、それで号泣に至ればもっと説得的になる。この設定だと、その印象を書き換えるためのもととなるべき、昔の記憶に乏しいんですよ。結局憎んでいるように見えながら、本木が思い出すのは最初から父との温かい記憶ばかりなんです。絶対別れた年齢は六歳じゃないほうがいいって! 父親だからというだけで泣いているように見えてしまうし、強がって嫌っていただけに思えてしまう。記憶の印象がダイナミックに書き換わるという運動性に乏しいんです。

この映画は対比に満ちています。洋画的背景と日本的儀式の対比、死者と残された生者の対比、宿った子供と死に行く子供の対比、活かされ流れゆくタコと喰われる生き物の対比、女と見えながら男だった人間の表層と内部の対比、大きくごつい石と小さな卵形の石の対比、登り行く鮭と死に流れる鮭の対比。だけれどぼくが長々述べた物語上最も重要と思われる部分の対比が、弱い。

撮り方、テンポ自体は安心して観ていられるし、笑いの部分もうるさくなくていいし、終わり方はあれが一番いいです。きちんと良心的につくられている分、なぜ肝心要のところでああなるのか、と思ってしまいました。
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by karasmoker | 2009-04-17 00:02 | 邦画 | Comments(0)
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