『恋空』 今井夏木 2007

きわめてポストモダン的、シュルレアリスティック、アンチ映画史的、攻撃的なすんごい映画です。
d0151584_2373436.jpg

 いい映画ばかり観て過ごせればそれに越したことはない、というのはひとつの真理ですが、また同時に、いい映画がいい映画であることに対して感謝を捧げる、という営みも映画観(えいがみ)として重要なことだと思われます。そのためにはひどい映画をあえて観る、というのも決して無為なことではありません。なのでぼくは二時間を棄てることをいとわず、こういうのも観てやるんだ! というわけで、『恋空』です。

 宮台が「ただの駄作と切り捨ててはいけない」と論じ、「我々が一ミリたりとも共感できぬものに対し号泣する人々がおり、衝撃的であった」という内容のことを書いていて、それでも長らく敬遠しておったわけですが、ええいままよ! と叫んで『恋空』です。

 これはすごい映画です。こんな映画は観たことがありません。
 そもそもケータイ小説なるものは近代文学のカノンを多分に無視した表現であります。近代文学の文豪たちがあの手この手で模索し続けた表現を棄て、人物描写、内面描写、情景描写の説得性を自ら積極的に排した、いわばポストモダン的な表現と言えましょう。映画はその妙味を多分に活かしています。この作り手たちは、あえてこうした表現をつくりあげているのです。

 駄作、という言葉がありますが、それは何を指すのか。感動させようとして感動させられず、盛り上げようとして盛り上げられないなど、演出の不備、脚本上の不備が駄作の条件となります。つまり、目論んではいるが目論見に失敗している作品が駄作の要件です。ですがこの作品は、決して作り手の目論見から外れてはいないと思われます。作り手はきちんと、ケータイ小説を映画化しようと努めているのです。だからこそ、ケータイ小説が近代文学の数多きカノンを打ち破ったのと同様に、この映画もまた映画史が教えてきた幾多の教訓をいとも簡単に棄て行くのです。『No Country For Old Men』という映画がありますが、この『恋空』の副題にこそそれはふさわしかろうと思われます。つまり、旧来の価値観ではとても太刀打ちできず、もしも万が一まともにこの映画を鑑賞しようと思えば、鑑賞者は強烈に頭を打ち付けられることは間違いなく、その意味で大変前衛的な映画なのです。

 活劇の古典的な売り文句に、「笑いあり涙あり」というのがあります。映画で言えば、性と暴力が古くから人気の装置で、「セックスあり! バイオレンスあり! カーアクションあり!」などといえば、観客は胸躍らせて劇場に足を運ぶわけです。それに倣ってこの映画を喧伝するなら、「レイプあり! 流産あり! 難病あり!」という悲劇のオンパレードであります。いつの時代も性的描写、暴力描写が表現批判のやり玉にあげられますが、この映画はそれどころの騒ぎではありません。何しろレイプや難病という深刻な話題を、観たことがないくらい異常に軽く扱っているのであり、映画の出来映えを踏まえてもこれをこそ有害な表現として指弾するのが保守派の務めであろうにもかかわらず、世間の教育者たちは誰もまともに怒っている気配がないのです。これはすごいことです。レイプをされても傷ひとつなく、流産しても悲しむ気配がなく、難病に陥っても衰弱の様子がないという、きわめてシュルレアリスティックな表現なのです。これは映画の演出的不備を意味しません。映画はケータイ小説という原作に忠実に、「説得力を生むための描写」などというものを一切度外視しているのです。これはこれまでの映画の文法では語れない一大事なのです。

 まともに観ていたら頭がおかしくなります。この映画こそがまさに現代的作法の体現なのです。ケータイ小説が近代文学の歴史に対し積極的な断絶を計ったことに符合し、この映画の人物たちも過去なるものを次々に忘却し、未来へと進んでいきます。レイプのくだりが終わればその残滓も余韻もなく、「はい、レイプのくだりは終わり。これからは流産のパートに映りまーす!」と声高らかに宣言し、まったく別の話に移行していく。これはつまり現代日本の直接的な風刺なのです。歴史を重んじず、次から次に流行に乗り、世間を騒がせた大事件も日々の話題として消費し何も学び取ろうとしないという、現代人の戯画なのです。

 この映画は駄作ではありません。駄作という呼び名はもっと別の映画のためにあるのです。これは等身大の女子高生を主人公とし、なおかつ超常現象的な出来事が何一つ起こらないにもかかわらず、きわめてポストモダン的かつシュルレアリスティックであり、我々が普通抱くであろう感情なるもの、心情なるもの、そうしたリアリティをはるかに超越しているのです。また、一見清純そうに見えてその実学校でセックスをしてしまうというのは、あのナンバーワンAVメーカー、エスワンが誇る人気シリーズ「学校でセックスしよっ!」を彷彿とさせる演出であり、それでいてまったくセックス的な気配を、もうまったく感じさせないという点においては、この上ない奥ゆかしさを感じずにはいられません。

 ことほどさように大変すごい映画なのです。ぜひ観てもらい、こんな映画が現実につくられたのか! と驚いて欲しいです。レイプも流産も難病もこれほど手軽に希薄に表現できる作り手たちの人間性を心底疑いますが、きっと、とても頭のいい人たちが作っているんだと思います。いや、皮肉ではありません。この作り手たちは、「狙って1点」をとっています。狙って100点を取るのも難しいですが、「狙って1点」をとるのはある意味もっと難しいのです。ストライクを取るより、一本だけピンを倒すほうが難しかったりするのです。バカな女子高生を泣かせる、というのは、ぼくにはできない芸当です。仮にできたとしても、バカな女子高生を泣かせつつ、同時に多くの映画観(えいがみ)たちを困惑させるなどという芸当はどう転んでもできません。それを軽やかにできてしまうのは、相当クレバーな人たちです。きっとこの作り手たちは、自分たちの人間性が疑われることもいとわず、新たなる表現を模索しているのでしょう。そうです。そうに決まっています。ぼくはこの作り手たちが、表現というものの未来をどう捉えているのか、とても興味があります。近代的価値観、評価軸に自ら背を向ける勇気が一体どこから湧くのか、そして何を目論んでいるのか、大変興味があります。

 えっ? そんなこと考えていないって? まさか、まさか。
 ただ女子高生相手のお金儲け、バカな観客相手のお金儲けをしたいだけだって?
 まさかまさかまさか。
 そんなはずはありません。だって、もしそうだとしたら。
 ぼくはこの作り手たちを殺しにいかなきゃならないじゃないですか。
[PR]
by karasmoker | 2009-04-21 19:27 | 邦画 | Comments(0)
←menu