『ロスト・イン・トランスレーション』 ソフィア・コッポラ 2003

中途半端さを活かすための詰めが、中途半端。
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 アマゾンではレビウが沢山ついていて、星五つから一つまで満遍なく別れていますね。海外の監督が日本を映しているので、その分どういうスタンスで観ればいいのか困惑させるんだと思います。多くの人にとって、絶賛も酷評もしにくいんじゃないでしょうか。土台これはアメリカ人によるアメリカ人向けの映画という色合いが強いわけですから、日本人が酷評しても仕方ないという気はしますし、反対に絶賛するというのもよくわからないですね。

 松本人志が言及していましたが、やはり一本のCMで二百万ドルを稼ぐような大スターが一人だけでホテルにいるのがおかしいように思います。そこに何かしらのエクスキューズが欲しいんですが、当たり前のようにひとりぼっちですね。一言二言でもいいんです、スターの男が一人になっている理由がないと、ただでさえ日本人の観客としては観るのが難しい映画であるにもかかわらず、余計に「lost」な気分にさせられてしまいます。ですがそれは後述する意味でのよき「lost」感とはぜんぜん違います。

 日本描写のデフォルメがこの映画を語る上で外せないものになっているようですが、別にそれはそれでいいんです。この描写をマジで受け取っても仕方ないです。ただ、上記のような設定上の説明がないため、いまひとつこの演出に信頼がおけないんです。この監督はどれだけわかったうえでやっているのかな、と思ってしまう。阿部和重はこのデフォルメされた日本描写を、作り手による仕掛けだと語ります。外国人が日本に来たときに抱く違和感を、歪んだ日本描写への違和感という形で観客にも追体験させようという目論見なのだ、と語られています。つまり、この映画内における「日本」を日本人にとっても距離感のあるものとして映るように仕向け、登場人物への移入を目論んでいる、ということです。もっと平たく言えば、この映画における「日本」、「東京」は、我々が住む世界とも違う場所であり、観る者すべてにとって異国的な場所ということになります。
 
 阿部和重はこの映画のデフォルメを不快と感じる人々に対し、制作者側を擁護する形で論じているのですが、彼の論に則って捉えるのなら、むしろ逆にこの映画の詰めの甘さが露呈してしまいます。だって、もしもそうなら、要するにこの監督は、日本の独特さというものを歪めた形でしか表せない、ということですから。日本人が気づかない日本の特殊さを描くというところまで、たどり着いていないわけですから。だから変なデフォルメなんかしなくていいんです。していないところはいいんですよ。ゲームセンターの辺りもいいし、変なばあちゃんが喋りかけてくるところもいいし、ああした描写を活かすためにも、やはり妙なデフォルメをすべきではないんです。異文化の中に紛れ込んじゃったわ、な感じを出すためにデフォルメしなくちゃいけないっていうのは、詰めが甘くないですか?

 そういう意味で、「外国人だからこそ活写できる東京の風景」というのが弱い。アメリカ人がこの東京の風景を面白く思うのはわかりますよ。でも、どれもこれも「その風景は知っています」って感じなんです。で、物語自体はビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンのどうでもええような淡い慕情みたいな話で、なおかつそれがホテルの内部で繰り返されるとあって、そうなると現代東京に住む僕としては何も面白くない。だから正直、わざわざアメリカから持ってくるほどの話でもないと思うんです。日本人が観ても仕方ないんじゃないでしょうか。

 なんだかこのブログでは最近園子温ばかり褒めているようであれなんですが、それなら最近取り上げた『ハザード』の東京のほうがよっぽど外国的な違和感を与えます。ラストでちょこっと出ているだけなんですが、主人公とともにずっとニューヨークにいた観客は最後の日本に距離感を覚えます。日本人が観るなら、絶対こっちですよ。
 
 海外での出会いが一種の特別さを帯びるのはわかります。ぼくも大学生の頃インドに行って、そこで出会ったツアーガイドがいて、彼と突然別れることになり、別のガイドがついたけどその人は何も面白くなくて、アーグラーのホテルでひとり号泣したことがあります。ただ、人と人との関係を描くなら、最初に述べたように、人と人との関係をきちっとしてほしいです。スターが一人でいるなんて不可思議な状況では説得的じゃないです。あの通訳の人たちも役割で存在しているにしてもきちんとしていなさすぎです。そうやって無理に東京でのひとりぼっち感、「lost」感を出しておきながら、一方でホテルというベースを用意しているものだから結局「lost」感は薄められてしまう。次第に近づいていく二人が最後、路上で抱擁しキスをする。別れるときになって初めて愛を交わす、という仕立てなんでしょうけれど、ここは離ればなれのままのほうがいいと感じるのはぼくが日本人だからでしょうか。あそこでああやってわかりやすい愛情演出をかますところが平凡だなあと思います。たとえば離れたところで手を振って、男が女の去りゆく背中を見届ける。男が去りゆく女に背を向けたときに、女が振り返る。女もまた、男の背中しか見ることができない。たとえばそんな(まあどこかにありそうなやり方ですが)方法のほうが、この映画の風合いにそぐうと思うんですねえ。ずっとだらだらしていたんだから、変に愛を爆発させないほうがいいなあと思う。この二人、またどこかで会うな、という感じがしてしまう。もう二度と会えないと思えるからこそ、そして抱擁を交わせないからこそ、旅先の出会いには哀感がこもるんですけどねえ。このとても中途半端な映画の中途半端な関係を輝かせるには、その関係の中途半端さを活かすことが鍵だと思うんですけれどねえ。

 そんなわけで、ぼくのこの映画への捉え方は、否定的です。ご意見を賜りたく存じますね。
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by karasmoker | 2009-04-23 00:02 | 洋画 | Comments(0)
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