『Tokyo Real』  笠木望・湯本美谷子 2007

加減が大変に上手い。ケータイ小説原作とはとても思えない。
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『恋空』同様ケータイ小説原作の映画です。『恋空』よりも前に公開されていますね。宮台真司がこの映画について論評していて、その中で結構肯定的な捉え方をしていたので、どんなもんかいなあと思っての鑑賞です。

 ぼくはケータイ小説なるものをちゃんと読んだことがないのですが、どれくらい違いがあるんでしょうか。おそらく文体とかはほとんど違わないでしょう。なにしろケータイというメディア的に、そして読者ターゲット的にかなり物語的、文体的制約があるでしょうから、作家的個性などというものはないのでしょう。ですが、この映画『Tokyo Real』に関して言えば、『恋空』とはもうぜんぜん違う! こちらはきちんと映画の文法を遵守しているのです。あのー、ぼくはもう半分くらい、訳がわからなくなっています。ケータイ小説自体がまあ正直、普通の小説を読解するリテラシーのない人たち向けだと思うんです。それで『恋空』の映画観て泣いているやつなんて、映画観(えいがみ)としてははっきり言ってもう(本当に)どうしようもない連中だと思うんです。でも『恋空』という映画自体、ケータイ小説を忠実に下敷きにすればああなるはずなので、あれはあれでわかるんです。でもね、この『Tokyo Real』は、映画としてちゃんとしているんです。ケータイ小説を読んで、よかったわあと言うているやつはこの映画、観ていられるんでしょうか。それとも、『恋空』と『Tokyo Real』は映画同様、まったく違う種類のケータイ小説なのでしょうか。訳がわからなくなっています。

 大筋で言えば、レイプされた主人公の女子高生がドラッグにはまって身を崩す話なんですが、「これ見よがし」な感じがないんです。宮台が評価していたのはそこで、いわく、「笠木流『渋谷映画』は、渋谷と聞き、女子高生と聞いて、下品なことを欲望し、『見世物』を期待する我々をこそ描く。いつも通りとはいえ、今回も自分の下品さを思い知った。その意味で実に屈折した『教育映画』だ。」とのこと。レイプ、ドラッグというわかりやすい負の記号を用いながら、その部分で押そうとしていないんです。この点が好ましいです。ただ、宮台の指摘について言えば、「渋谷と聞き、女子高生と聞いて、下品なことを欲望し、『見世物』を期待」なんて、別にしないですけれどねえ。する人が多いんですかねえ。ぼくはむしろ逆に、渋谷、女子高生の映画と聞けば、「見世物」じゃないものを期待するので、この映画のやり方は率直に好ましかったです。

 持って行き方がうまいですね。原作がうまいんでしょうか。ケータイ小説原作と聞いて目線のハードルが下がっていたので、あのレイプの場面で、ああ、なかなかやるやないか、と感心しました。作劇上の演出として油断のさせ方がうまいです。『恋空』とは訳が違いますね。油断のさせ方の妙味は劇中何度か反復的に活用されます。どうなるのだろう、というところから、一回すっと油断させて、その直後にぶち壊し、虚脱感に至るという形式がエピソードごとに繰り返し出てきます。ただそれが決してこれ見よがしじゃなく、あくまでも自然に移ろうので、実に信頼できる。

 役者がいいです。この映画に出てくる人たちの演技はみんなちゃんとしている。主演の秦みずほもいいです。ドラッグでハイになっているところなんかも、めちゃくちゃな感じは出していなくて、ああ、ちょうどいい感じのハイテンション加減だなあと思わされる。一人でいるときの暗さが表現されているから、あの彼氏といちゃつくときのドラッグによるハイが対比されるし、そのハイテンションの演じ方がすごくいいのです。この映画のよさって、全編を通して、ドラッグを悪者にしていないところなんです。教育的にドラッグの恐怖みたいな野暮な真似をせずにいるから、信頼が置ける。主人公を取り巻く登場人物たちも、「やりたきゃやれば?」みたいになっているから、ああ、リアルっぽいなあと思う。ぼくは渋谷の女子高生を取り巻くドラッグ事情のリアルを一切知りませんが、そういう門外漢のぼくには、リアルっぽく思える。これは映画において大事です。無知な人間にリアルっぽさを感じさせることが一番大事です。リアルかどうかは、二番目に大事なのです。

 ケータイ小説原作ですから、まあ作劇的リアリティには期待していなかったし、実際、話を進める上でややリアルさに欠けるな、この偶然の仕掛け方は強引だな、という箇所はあります。ゲーセンの男がそうですね。ゲーセンの機械の前で秦みずほが倒れており(この「倒れている秦みずほ」も劇中反復されますが、この間抜けぶりは構図的快楽を与えてくれます)、そこにゲーセンの店員の男がやってきます。彼女を介抱するのですが、なんと彼はきつけのためにドラッグを持ち出すのです。おいおい、そんなことあるかよ、この女子高生がたれ込んだらどうすんだよ、と思わされますが、このゲーセン男の演技がねえ、実に素晴らしいんです。ああ、おるおる、というのが大変よく出ている。こういうやつはいますねえ。わかりやすく乗りのいいやつ、乗りのいい振る舞いができるやつ、ごっつナンパうまそうやな、というやつ。この男の演技がとても自然でいい味を出しているので、許せてしまうんです。

 こういう男の演技を劇中に用いられるかどうか、というのは、映画における大きな分岐です。『恋空』には絶対ありえないし、いわゆる邦画の大作では出てこない動きなんです。この辺の旨みについて説明する言葉を今のぼくは持っていないんですが、この男の立ち振る舞いは、映画が全体としてどういう風合いを醸すかにおいてかなり重要なファクターになっていると思います。

宮台の話によるとラストはどうやら三パターンあるようです。映画版、DVD版、宮台の提案が取り入れられた改DVD版。ここをどう編集するかで確かに大きく印象が変わります。宮台提案もいいと思うのですが、ぼくが観たのは提案前のDVD版で、これはこれでリグレットが浮き出ておりいいと思います。ほんの数分前の出来事へのリグレット、というのは効果的で、他の映画でも観た記憶がありません。リグレットって記憶の産物ですし、記憶というのは時間が経てば経つほど形状が変わってしまい物語化されるのですが、この映画のラストにおけるリグレットは物語化される以前の、実に生々しい状態のものになっている。「後悔の原初形態」を視覚化しているという点で、非常に価値があります。

 ただ、映画的にはもっと時間が経っている設定にしてもいいかなとも思います。たかだか一週間くらいの出来事ですが、そこまで詰め込んだ設定にしなくても、というのはありますね。そうしないと最後のあの場面にドラッグ的蓄積がこもらない気がします。ドラッグで訳がわからなくなってああなるなら、もうちょいのめりこんだほうが説得的だと思うんですが、どうでしょうか。気になるのはそこくらい。あ、あと、もうひとつあった。冒頭で「実話に基づいている」とか言うのですが、『恋空』もそんな感じでした。それ、言う必要ある? 「実話に基づいている」って言うことで、現実味をプラスしようとでもしている? そんなものが映画的、物語的味わいに重みを与えるなんて本気で思っている?まあ、実際そんな文句で撃たれちゃうやつもいるんでしょうね。ですがこの映画、せっかく映画として良心的なんだから、そんなことしなくてもいいんですけどね。

この映画については、 ケータイ小説原作だと言って馬鹿にしない方がいいです。ドラッグを否定しない構えをとりながら結末として、ドラッグは駄目なんだぞという教育的な終わり方になっているのは捉え方として良心的だし、あの彼氏がああなってしまう不条理さも、ドラッグは駄目なんだぞというメッセージを強める上では可でしょう。タイトルクレジットが開始30分近くになってからやっと出てくるあたりも、程よい映画的刺激になっているし、ありです。

 ぜひ観てほしい、というわけでもないです。そこまでの映画的興奮はありません。ただ、映画的クオリティについては、確実に及第点を大きく超えていると言ってよいでしょう。このサイズでつくられた作品としては何の文句もありません。
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by karasmoker | 2009-05-03 00:28 | 邦画 | Comments(0)
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