『わらの犬』 サム・ペキンパー 1971

傑作というか怪作だと思います。
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最近は映画ばかり観ているものだから眠っているときの夢も映画的になっています。これまでも度々そういうことはありましたが、今回は生涯初、「タイトルつきの夢」を観ました。とて、ストーリーはほとんど忘れてしまったのですが、鳥居みゆきが主演で、「成り下がりのシッコ」というタイトルの夢です。夢を見ている間に、タイトル名が音として聞こえてきたのです。しかもちゃんとストーリーがあるのです。ラストは確か、「彼女は成り上がりのシッコ、または成り下がりのシッコと呼ばれるようになった」という意味不明のナレーションが入りました。誰か助けてください。

 さて、どうでもいい前置きは終わりで、『わらの犬』です。ツタヤディスカスでは借りにくい状況になっています。近所のビデオ屋にはないものだと決めつけていましたが、これがあったんですねえ。だからビデオ屋は宝探しの快楽があるのです。ものすごくひっそりと、誰にも気づかれないような位置に置いてありました。

 名作と名高い本作ですが、前半は不安でした。かなり静かめなんです。予備知識なしで観ていたので、あれれ、別に暴力を振るったりしない映画なのかな、とちょっと拍子抜けた感じを前半で受けるんです。イギリスの田舎町で暮らす数学者役のダスティン・ホフマンと、スーザン・ジョージが夫婦という設定で、広い敷地の傍らでは地元の大工たちが仕事をしています。この大工たちがダスティン・ホフマンをからかったりするのが最初のほうの話で、ほとんど何も起こらないくらいの淡々とした描写が続きます。しかし突然、家で飼っていた猫が何物かに殺されます。ここら辺からやっと物語が駆動します。

 猫を殺したのは大工たちじゃないか、となるのですが、ダスティン・ホフマンは気が弱くてそれを言い出せず、妻も夫の弱さに悶々とします。その後、夫がいない間に大工たちが妻をレイプしたりして、要するに大工たちと夫婦が対立する話なのだな、とはっきりしてきます。『ワイルドバンチ』とか『ゲッタウェイ』を先に見ていたので、今回のペキンパーは随分大人しいなあと思わされます。規模も小さい、地味な展開です。

 ですが、徐々にペキンパー節というか、ただものではない感じが出てきます。じっくりゆっくりと出てきます。レイプの場面なんかはそのひとつで、このシーンはひどくエロティックです。映画におけるエロに対しては別に興奮しないたちなのですが、このシーンはエロいです。エロというのは何かをこれ考えてみるに、つまりは雰囲気の賜物なのです。おぱーいが出ているかどうかとか、そういうことで判断しがちですけれども、それはあくまで表層であって、たとえば美人のおぱーいでもぜんぜんエロくないものも多いです。エスワンというAVメーカーがあり、ここは今売り上げトップを誇っているようで、『おねだり!! マスカット』大好きのぼくとしては応援していますが、あのメーカーのエロはぜんぜん大したことありません。綺麗なちゃんねえがおぱーいを揺らし、ファックファックファックするわけですが、雰囲気を醸成できていないのでエロくないのです。話がもう思い切り映画から離れています。いえ、離れていないのです。映画、映像におけるエロは雰囲気が大事であると言いたいのです。この雰囲気をつくることを、演出と呼ぶのです。

 この映画で言うと、大工たちにやられてしまう妻・スーザン・ジョージの加減が大変にエロティックです。この妻は最初拒否するんですが、実際そこまで嫌がっていないのかな、という感じがよく出ています。もっと本気で抵抗すればいいものを、その抵抗ぶりが弱いので、観ている側は戸惑う反面、背徳の香りを感じるのであり、それはエロスに結びつきます。普通のレイプなら女性の感情として、「抵抗100%」じゃないですか。でもこの妻は、抵抗90%、くらいの感じでいて、秒音ごとにその抵抗度合いが弱まり、最後には自ら抱擁するのです。この前のくだりで、夫の頼りなさに憤慨している彼女であり、観た感じダスティン・ホフマンは精力が強そうにも見えず、一方この妻はちょっと好きもんの感じもしないではなく、あらゆる意味で危ういバランスを保ったまま、このシーンを遂げます。途中、外出中のダスティン・ホフマンの様子と、スーザン・ジョージのあえいだ顔がカットバックされ、彼女の低くけだるい喘ぎ声が流れる。汗ばんだ顔もよし。「入れられてる感」がよく表情に表れており、このシーンの出来映えは大変よいものになっています。

また長くなりそうです。
 それでも、これ以外には大したびっくりもないまま進んでいきます。あまり盛り上がらないのかな、と思わされますがどっこい、クライマックスは白熱します。知的に弱い男がいて、彼は何故かある女の子に惚れられています。ところが周囲の大人たちは彼のほうが誘惑していると思って彼を憎みます。あるパーティの席でその男が女の子に連れ出されます。大人たちは激怒し、連れ戻そうと探し回ります。このとき、二人は納屋に隠れているのですが、女の子が怒られてしまうと思った男は、外に出ようとする彼女の口を塞ぎます。しかし、なんと彼女は口を塞ぎ、首を抱えたがために窒息死してしまうのです。

 男は逃げ出します。すると、ダスティン・ホフマンの夫婦の運転する車に偶然轢かれてしまいます。慌てた夫婦は家に彼を連れて行き、医者を呼ぼうとするのですが、田舎町でなかなか捕まりません。そのとき、男を連れ戻そうとする大工たちが家にやってきて、ここからもう、そりゃあどえらいことになっていくのです。

 要は、ダスティン・ホフマンが男を守るべく、大工たちと戦うわけですが、ここはもう文章で表現しても仕方がないところです。観てもらうよりほかありません。ネット上の論評などを読むと、平和的で気弱な男の暴力性が露わになる云々というのがあるんですが、この読解はぼくと違います。

 もとよりこの映画はちょっと変なのです。だって、ホフマンがあの男をかくまう理由が弱いんです。あの男をかくまうなら、もうちょっとホフマンと交流させておいてもいいところです。あいつらに引き渡したらこの男が殺されてしまう、だから渡さないんだ、という動機があるわけですが、自分が殺されるかもわからない状況であの男をかばう理由は弱いです。普通なら、もっとこの男の存在を活かすべく二人を交流させろよ、と言いたくなります。実際、妻は「早く渡しちゃいなさいよ!」と言います。でも、この映画はこれでいいんだと思わされるのです。何故なのでしょうか。

 それはきっと、このホフマンの意地が伝わるからです。正直、このホフマンにとって男の存在なんてどうでもいいのです。彼にとって大事なのは、敵の大工たちの思うようにはさせないぞ! というその一点なのです。ここは俺の家だ! 誰も入れるもんか畜生馬鹿野郎! わー! という実に原始的な意地があり、それがびしびし伝わってくるのです。暴力性、というのとは違うと思うんです。自分を守るために必死こいてじたばたしているわけで、それを暴力性とは呼ばないでしょう。つまり、子供っぽいじたばたなんです。この、いわば子供っぽいじたばたがこの映画に魅力を与えているのです。途中まではいかにも穏和な、物静かな彼だったのに、畜生もう嫌だ帰れこの野郎何だてめえうわ入ってくるなあっちいけ馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! という感情が出まくっているので、このかなり小規模な一軒家での諍いが、超大作のアクション映画以上の濃度を生み出しているのです。言ってみれば、大きなお友達によるものすごい乱暴な喧嘩です。

 これはどうも変な映画です。周囲からの疎外感というのも、もっと演出しようと思えばできるはずです。それほどホフマンがいじめられまくっている感じはなく、まあ猫が殺されたりなど残酷なことはあるんですが、レイプのくだりもホフマンは知らないし、彼が散々いじめを受けて鬱屈を溜めこんでいるようには見えない。また、先述の通り、あの男との紐帯も別にない。なんか変な映画だなあ、と思いながら観ていて、それであの家の場面に行くから、なんじゃこりはと思いながらただ観続けてしまいます。描写も甘いところがあるんですよ。女の子が死ぬシーンも簡単に死に過ぎだし、敵が煮えたぎった油を喰らったところなんかも、あれなら立ち上がれないくらいひどいやけどになるはずなのに大したダメージになっていないし。変なんです。

 これは一種独特な映画体験でありました。傑作というより、怪作ではないでしょうか。
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by karasmoker | 2009-05-04 10:32 | 洋画 | Comments(0)
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