『明日、君がいない』 ムラーリ・K・タルリ 2006

この映画のもたらす痛みからは、逃れようがない。だからこそ大変な傑作たり得ている。
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 原題『2:37』
 監督のムラーリ・K・タルリは弱冠21歳でこの映画を作り上げたらしく、生まれが1984年8月4日ですから、ぼくと同い年です。うわあ、ちょっとショックです。同い年の人間に魅せられると、もう焦るほかないです。

 観終わった直後より、ちょっと時間を空けてからだんだんと印象がよくなりました。オーストラリアの高校生たちの一日(というか半日)を描いた作品で、話はほぼ全編学校の中で進みます。複数の人物の視点が入れ替わり、同じ時間を繰り返して見せる手法で、かつ彼らの動きを追うために手持ちカメラ撮影が多くなりますから、誰もがガス・ヴァン・サントの『エレファント』を思い出し、実際この監督もガス・ヴァン・サントが好きらしいです。

 ただ、『エレファント』の場合は結局、鑑賞中もあの銃乱射事件のことが絶えず頭にあるわけです。メディアで見知った情報が既にあるから、結局登場人物たちに色々あっても、あの事件にすべて持って行かれるのだろうな、という先入観が働きます。ではこの映画はどうかというと、つくりかたがものすごく上手なんですね。この映画の優れているのは、観客の先入観を見事に利用しているところです。

 映画の冒頭、高校の一室で誰かが自殺を遂げます。それが誰なのかわからないまま話が始まるのですが、登場する高校生たちは皆それぞれに青春期の悩みを抱えているわけです。観客は自然と、この中の誰かが自殺するのだな、誰だろうな、という推理劇の見方をしてしまうわけで、どの人物も何かの拍子で自殺しかねないような、自分の悩みを抱えているのがわかってきます。学校を楽しめていないのがわかりやすく表れている少年もいれば、一見学校ライフを充実しているように見える少年もしくは少女もいる。前半は大したことが起こりませんが、日本の高校とは大きく違う風景と複数スレッドで進む物語によって退屈から逃れられ、何より冒頭のかましがあるものだから観客は常に緊張した状態で話に見入ることになる。後半になると、結構驚くべき展開が起こる。えっ、そこがそんな風に繋がるのか、というのがあって、この語りは大変に秀逸。うまく複数視点を用いている分、余計に意表を突かれた感じが与えられる。個々の出来事の意味づけがなされる。ネタバレはしないことにしましょう。あまり期待を煽るのは禁物ですが、ああ、そう来たか、というのは感じると思います。本当を言うと、予備知識なしで観るのが一番いいです。だから変な話、これ以上読んでもらわないほうがいいんです。

 いや、ある意味では禁じ手、というか、それは普通物語ではやらないよな、ということが起こります。これが推理劇ならば観客は怒りますよ。でも、これは推理劇ではありません。推理劇だと決めつけるのは他ならぬ観客自身なのだと納得させるつくりが、この映画ではなされています。この点においてぼくは邦題を肯定的に受け止めます。ああ、なるほど、『明日、君がいない』だよな、と思わされます。ここ、細かいところですが、「君は」じゃないんです。「は」と「が」は文章表現における永遠の迷いどころですが、この映画の場合、「君はいない」では感じが出ない。「君は」にすると、呼びかけの感じになってしまうし、この映画で自殺した人物に呼びかけるのは適切ではない。「君がいない」にすると、独白の台詞的になり嘆息的なニュアンスが強まり、なおかつ文として「君は」よりも違和感が強くなる。この辺、わかります? 君というのは原理的に呼びかけの単語なんです。でも、この言葉は呼びかけの文句ではあり得ないんです。「君がいない」にした人、えらい!

 推理もの的に見れば、あれはずるいということになるでしょうが、そういう人はこの映画を正しく観ていないです。というか、構造的に推理劇的面白みを求めてしまう我々への皮肉でもあります。

 確かにどうしてああなったのかはよくわからない。でも、よくわからないことこそこの映画で最も大事な部分です。というか、わかった気になろうとすること、そうした説明を施すことは、この監督が第一に避けた部分なのでしょう。度々、個々の視点人物のインタビューが映されますが、あの語りの具体的内容ではなく、語りの視点それ自体が重要かつ問題であることがわかり、観ている側は身につまされる。監督は実際自分の友人が自殺したことを契機にこの映画を構想したそうです。ぼくには幸い、近しい人で自殺した人間は(知る限りにおいて)いませんが、それでもこの映画が放つ痛みは伝わってくる。さらに秀逸なのは、この痛みが原理的に回避困難なものであること。ああ、あまりネタバレしないという方針で決めた分、語り方が難しいのですが、この映画のえらいのは、だからこういう風に態度を改めましょう、という説教になっていない点です。ぼくと同い年であり、かつこの映画を撮ったとき二十歳そこそこだったというこの監督は、なんとした老成ぶりでありましょう! この映画の連中の振る舞いは直接的にあの人物の自殺と繋がりません。そう、直接的な繋がりを持っていないからこそ防ぎようがなく、また仮に持っていたとしてもぼくは、この映画の連中同様の考え方しかできない人間だと思います。安易な反省を与えないどころか、むしろ反省それ自体の困難さを示す。実体験をもとにしながらも、決して実体験に対して感情的になっていない。おいおい、やばいよ、何だよ、すっごい焦るじゃないか!

 ここまで書いて感じたこととして、あるいは確かに、もうちょっと説明を加えるというか、あの人物をもっと印象的に表す場面をつくってもいいのかなあというのはあります。特徴的な人でもないし、下手すると、誰やねん、くらいになりますから。誰やねん、になると、この映画は失敗になりますし、かといってあまり出し過ぎても行けない。うーん、非常に難しいところですが、結果いい仕上がりであるからいいです。撮り方が変だな、というのはありますよ。ある人物がある人物の寝ているところに行く回想シーンがありますが、あの撮り方で始めるとあの人物の回想にならない(観ていない人にはなんのこっちゃですね)。冒頭、一室の異変に気づく場面で音がしていたのに、最後はそんな音はないし、めっちゃ泣いていたのにそれは誰も気づかんのかい、というのもあるし。でも、例によってそんな細かいことはどうでもいいです。この映画は大変すばらしいです。何度も言うようですが、おいおい、同い年かよ、しかも二十歳そこそこのときにつくったのかよ、うーわー。
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by karasmoker | 2009-05-06 00:35 | 洋画 | Comments(0)
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