『幸福の黄色いハンカチ』 山田洋次 1977

良質なる和製ロードムービー。ひとつの小さな車がこんなにも強いパワーを持つとは。
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有名な邦画ですが、ぼくの持っていた予備知識は「高倉健が刑務所から家に帰る話」「家に黄色いハンカチが沢山ある話」というなんともざっくりしたものだけで、結構しっとりめの作品なのかな、落ち着いた風合いの代物なのかな、と漠然と思っていたのですが、大変コメディ味のあるロードムービーでありました。

 失恋した武田鉄矢が、傷心旅行で北海道に出かけ、その先でこれまた傷心旅行に来ていた桃井かおりをナンパして車の旅を続けます。道中、偶然出会った高倉健もこれに加わり、三人の北海道ドライブが始まるのですが、あるとき、高倉健が殺人を犯した過去が語られ、彼と妻である倍賞千恵子の過去が紐解かれていきます。 

中三の時に『金八先生』(兼末のやつ)を体験しているぼくであり、『ドラえもん』のエンディングで数々の名曲を歌っている武田鉄矢という人は、率直に好きなのです。この人のコメディアン的な持ち味が、どうしたって地味になるほかないこの話を大いに盛り上げています。軽い男の感じが大変に好ましい。物静かな高倉健との対比があり、馬鹿だけどいいやつ、いいやつだけど馬鹿で心が狭い感じがキャラクターとして魅力的で、三十年以上前ですから古くさくはなるにせよ、会話の中で笑わせようとする様は決して古くはなく、むしろ今のノリのいい若者、軽い若者なんかにも十分通じています。日本映画における軽い若者のひとつの模範、と言えるのではないでしょうか。ナンパで桃井かおりと知り合う、というのが潔くていいです。妙な文脈を織り込ませないのもいい。武田鉄矢にせよ桃井かおりにせよ、山田洋次はあくまでさらっとしか過去を示しません。これが各々の過去なんかをぐだぐだ話し出すとどうでもよくなったりするのですが、彼らはあくまでも今の中にあり続け、それがゆえロードムービーとしてのテンポが一切死にましぇん。

 ここに桃井かおりをキャスティングしたのも見事。ただの綺麗な女性では武田鉄矢がから回る危険もあり、他に類似種の見あたらない存在である桃井かおりを置いたのは、きわめて慧眼であるなあと思います。この武田鉄矢のキャラクターを活かす相手役の枠って、実は結構狭いと思うんです。単に明るいやつなら波長が合いすぎるし、暗くて冷静だったりすれば存在が弱すぎるし、この桃井かおりのバランスがものすんごいいいんです。底が浅いのか深いのかよくわからないような、頭がいいのか悪いのかわからないような、つまりはキャラクターとしてのレッテル張りを許さない感じ。ああ、これが女優の仕事だなあと思わされます。

 ロードムービーですが、別に風景が取り立てて面白いとかそういうのはないんです。でも、いわゆるロードムービーとしては覚えのある中でトップの良さです。それはやはり先ほど述べた要因が大きいんですね。武田、桃井のキャラクター、ナンパというきわめて潔い出会い方、過去を語らない手法、そして武田の滑稽なアプローチ。そこに寡黙で謎めいた、しかし頼りがいのある男としての高倉健。変に風景を見せようとかいうのもないし、そこが頭いいなあと思います。別に北海道の雄大さみたいなのはないんですよ。だから一切観光ムービーにならないんです。彼らが宿泊するのは安普請の安宿だし、窓の外に見えるのは裏通りのパチンコ屋のネオン。海が出てくるシーンでも別に海を重要な被写体として設定しているわけでもないし、高倉健が帰って行くのはもうぼろやの連なるバラック街。変な歌を歌っている歌手が映るシーンがありますが、ここもほとんどまともに風景を撮っていない。初めのほうで象徴的なのは、武田と桃井がどこかの広場を散策しているとき、武田が他の観光者に話しかけるシーンで、そこで彼が言うのは「何もないよ、あっち観に行っても」。実際そこに何があるのかは観客にはわからない。この映画は観光ムービー性を意図的に殺しています。これはぼくの言葉で言う限定空間性と繋がります。

 ロードムービーが原理上保ち得ない映画的要素はつまり、限定空間性です。映画の雰囲気なり何なりを醸成するうえで、「その場」「その舞台」というのが大きな武器になります。人と人の関係もさりながら、その場所自体が持つ映画的なパワーがある。ロードムービーは移動し続けますからこれを保てません。ではどうやって場の力に頼るかと言えば、たとえば風景を印象的に映してみたり、たとえば登場人物の心情を象徴するような風景のカットをいくつかつくってみたりという手法があります。この映画はそれをしません。では何がパワーを持つのか。他ならぬ三人の人間関係です。そして彼らの空気がこもる車内です。車内がこれだけパワーを持つロードムービーは観たことがありません。彼らを繋ぐものはあの車以外に何もない。今ではケータイが自然なアイテムになるので、こうした関係をつくりにくくなっていますね。

 高倉健の過去のくだり。ここは別に取り立てて面白いことはなく、武田、桃井らの場面のほうがいいのですが、高倉健と倍賞千恵子という名優二人がこのくだりをキープしていて、そのうえ最後、彼らが再開する場面が秀逸です。かなり引いたショットから撮って、二人の顔を一切映しません。特典の監督インタビューによると、ヨーロッパではこの撮り方が笑いを起こしたそうです。日本人的だなあ、自分たちとは違うなあ、という笑いでしょうか。それは三十年前の話ですが、今にしても重要な一件だと思う。この撮り方を愛でることこそ、日本映画にとって大事だと思うんです。ぼくが『ロスト・イン・トランスレーション』の最後の抱擁を嫌うのもつまり、「そこはそんなに重く描かなくてもわかるし、描かない方がいいだろうが!」ということで、あえて映さない美学というのが味わいになるのです(『ゴッドファーザーパート3』で演技ができなかったソフィアは、監督として風合いをもたらす力こそあれ、人間の演出というものをちゃんとできない人じゃないでしょうか)。むろん、映すことが悪いのではありませんが、映画に調和する手法というのはやっぱりある。この映画はずっと人々を大きく映し続けますが、最後にああいうしっとりとした結末を置くのはよし。さらに優れていることとして、それに終わらず、武田と桃井の恋の成就をきちんと見せるのもよし。こちらは大写しでいいです。これで両者のバランスがきちんと撮れて、映画全体の締まりがよくなるのです。

 ただ、高倉健が殺人を犯したことについて、もうちょっと同情的な背景があってもいいのかなあとは思います。あるいは殺人でなく強盗にするとか、あの出来事だと高倉健に対し、「殺されたほうはたまったもんじゃねえよ感」「いい気なもんだよな感」が生まれてしまいます。

そして、タイトルはこれでいいのかとも思います。このタイトルだと、「ハンカチはかかっているのかな」という高倉健のドキドキを共有できないじゃないですか。この展開ならドキドキは欲しいですね。そうしないと回想シーンで仲違いしたようなくだりも、今ひとつ意味を持たないと思います。別の原作があって、原作が『幸せの黄色いリボン』というらしく、それに倣ったのでしょうが、これは変えてもいいんじゃないですか。せめて、「幸福の」は取るべきでしょう。まあ、『黄色いハンカチ』だけだと、古くさい文芸作品みたいになってしまいますが、「幸福の」のためにドキドキ感が盛り上がらない。

 映画として気になったのは上記二点くらい。全体のつくりは大変によいです。 
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by karasmoker | 2009-05-08 00:10 | 邦画 | Comments(0)
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