『ある朝スウプは』 高橋泉 2003

あの男が発する問いに、どういう答えを用意できるのか。 
d0151584_22374847.jpg

 ぼくが映画評論で参考にするのは大体、町山智浩やその影響大きいライムスター宇多丸、蓮實重彦の流れであれば阿部和重、そして宮台真司などで、松本人志の映画評も好きでした。それぞれまったく違う色を帯びているから面白いです。ここで紹介した映画の多くも、この中の誰かが激推ししていた作品です。

 今回の映画で言うと、宮台真司の評論で知って観てみました。
 精神を病んでしまい、救いを求めて宗教(劇中では「セミナー」)にすがる男を、同棲している恋人の女が引き留めようとする話です。インディーズだけあって動きは乏しく、話のほとんども安アパートの部屋の中で進行していきます。

 結構退屈な映画ですが、随所の表現がとても面白いです。前回、いびつさを尊ぶという話をしましたが、この映画は所々そのいびつさが光ります。全編を通じて言うと、そこまでこの作品に肩入れはできませんが、シリアスな場面でも思わず笑ってしまう箇所もあります。また、示唆的なメッセージもありますね。

 観だして最初に好感を持てたのはあの女の顔です。あれは丁度いいです。というか、本当によくある顔というか、ああ、おるおるこういう顔の女、という感じの顔なんです。知り合いに似た顔はいませんが、これまでの人生で幾度となく見かけたような顔で、ブスでも美人でもなく、一重まぶたのちょっと底意地悪そうな目つきとか、ああ、この顔を間違いなくぼくは今までに何度も観ているぞ、と思わされ、その点のリアリティはやはりインディーズならではという感じがしました。立ち振る舞い的にも、普通の感じですね。純粋でもなく擦れている感じもなく、ああ、おるやろなあ、知らんけどきっとこういうやつはいるなあ、と感じます。これは実は映画においてとても大事なところです。それこそが紛れもなく、登場人物の実在感ですからね。

 ただ反面、わからないのは、どうしてあのどうしようもないような男をあの女は見捨てられずにいるのだろう、ということです。なんでこいつに惚れているのかよくわからない。宮台は「ピュアさゆえに」と解釈していて、特典映像のトークセッションにおいては、「彼女が彼に惹かれるのは、鈍感にもこの社会を平然と生きていける人々に比べて、彼がはるかに敏感だからだ」みたいなことを述べているのですが、この映画を観る限りはそこまで男の「ピュアさ」は描かれていないですよ。それを描くなら、「ピュアさゆえに社会からこぼれ落ちる」までの過程をどこかに描かなきゃいけないはずだし、映画からわかるのは、彼が単に精神を病んでいるということだけです。なぜ宮台がこの男の「ピュアさ」を感じたのか、よくわからない。ピュアなやつが精神を病むとは限らないし、精神を病んでいる人間がピュアだとも言えないでしょう。ピュアなやつは社会をまともに生きられない、と宮台は映画評でよく書いているのですが、ぼくには疑問です。多くの人が社会をまともに生きられるのは鈍感さの賜物である一方で、必死にバランスを調整しているからじゃないでしょうか。バランスを調整するために必要な敏感さだってあるわけです。バランス調整能力のないやつを綺麗に「ピュア」と呼ぶのは嫌いです。それならぼくだってピュアさ! ああ、もう少し早く生まれていれば、和久井映見に代わって月9で主演できたかもしれないのに! トークセッションで上記のような自説を奮う宮台に問われたとき、監督は「うーん」みたいな感じではっきりしていませんでした。そこまではっきりと意図されたものではないように思います。

どうも話がいたずらに逸れます。映画の話をしよう。そうだ、映画の話をしよう。
 まあそれでも、別に映画上大きな問題ではありません。とりあえずこの女はこの男を棄てておかれぬのだな、とわかればよいです。この男は随所随所で面白いです。女の友達が家に来るシーンは笑ってしまった。ああ、なんか、何気ない会話ってものはこんなにも実りのないものなのだな、と思わされ、ぼくが日常で感じるところに似ています。あの気まずい雰囲気とか、男と女友達が絶対にコミュニケーションできない感じ、不毛なる挨拶的な会話、気まずさに負けて部屋から離れたがるところ、ぽつんと取り残された女友達の後ろ姿、あれはなんか、「日常の中に起こってすぐに霧消するけれどその分どうしようもない人と人との関わり」を写し撮ったようで、好きです。ただ、取り立てて優れた活写というわけでもないと思います。ああいうことは世の中によくある。特にぼくなんかは、あの男のような立場に立ってしまいがちですから。ぼくみたいな人間にとっては「あるある」として面白かったわけです。

 頭を叩くシーンがあるんですが、あの間と間合いは好きですねえ(「間」は時間的、「間合い」は空間的な概念)。ここもちょっと面白いです。日常生活で頭を叩くことってないわけで、あの行為には二人の親密さと相手への怒りがこもっている感じがあって映画的に豊かだと思いました。全体の筋立てとしては特段面白いとも思わないんですが、時折見せるこうした表現はこの映画の大きな美点になっています。狭い空間ゆえ、カメラも天井の角からのショットが多くなり、それと手持ちカメラの近接したショットが交互に織りなされるため、空間の狭さが際だち、二人の距離の近さがよく表されていますね。絵的には面白くないこの話では二人の関係がもうすべてと言っていいですが、狭い空間をうまく活用しています。

 一番いいのはなんと言っても、あのトイレのシーンですね。ワンショットで二人の口論を撮り続けるのですが、ほとんど動きのないこの映画において、結末を導くうえで最も重要なシーンなのは間違いないでしょう。宗教にはまる男と、それをやめさせたい女が真っ向からぶつかり合います。結末を左右する上で決定的なのは、「どうして宗教はダメなんだよ?」という問いに対し、女が絶句してしまうあの間です。ここは結構問題を突きつけてきます。女はどうして宗教にはまるのを止めるのか。男は女の心中を見透かすように、「気持ち悪いんだろ?」と述べ、「よく知らないくせに」という内容のことを言います。
 
 ここなんですね。どうしていけないんだよ? 宗教によって自分は救われるんだ! と言い切られたとき、自信を持って言葉を返せない。その主張の裏には(それともおまえが救ってくれるのかよ?)という問いがあるけれど、これにもまた自信を持てない。結果、この女は男を宗教から離すことができなかった。宗教的な困難な問いという点では『シークレット・サンシャイン』にも通じますね。最後は、この映画としては真っ当な結末です。この映画の描き方では、彼はどうやっても宗教から離れ得ませんから。

 ちょいと社会評論の真似事をしてみれば、この映画は現代日本の状況(知りもしないくせにぼくはこういう言葉を使うんだ!)にとって示唆的であるなあと思います。
 やはりオウム事件は大きな出来事で、新興宗教に対する不安視、危険視はもはやこの国から拭えないものになっているように思います。ここで問題になるのは、新興宗教への忌避感を短絡的に、植え付けられたイメージのみによって抱くことにより、宗教に対する思考を失ってしまうのではないかということです。この映画の女は、だからこそ彼を救い得ませんでした。ここには学びの種があるのではないでしょうか。宗教への思考を失い短絡的な忌避感情を抱く状況は、その裏面できっと、短絡的な宗教依存を呼び起こします。それこそ「社会をまともに生きられないピュア」が短絡的依存と結びつけば、いずれ再び新興宗教の問題が頭をもたげてくるのではないでしょうか。なんてことを語って悦に入って、ちょっと社会についてわかったふりをしてしまうこのくせも、なんとかしないといけませんねえ。映画に倣って、今日は唐突に終わり。
[PR]
by karasmoker | 2009-05-17 01:17 | 邦画 | Comments(0)
←menu