『ミュンヘン』 スティーブン・スピルバーグ 2005

映画が映画として真摯であるためには、無辜な子供だろうが何だろうが殺すべきだ。 
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 なるべく毎日更新を心がけている当ブログですが、今後はそのペースをちょっと落としたいと思います。2、3日に1回くらいにしたいと思います。ちょっと違うことに時間を割かなくちゃいけないのもあるし、何よりこのブログはコメントが少なすぎるわけです。こうなると書いているほうとしても張り合いが無くなります。まあもとより自分のための備忘録的な意味合い、映画体験の濃密化を図るために書いているもので、人がどうであれ関係ないと言えばそうなのですが、どうにも返りがなく、そろそろ寂しくなってきましたため、まあペースを落とそうというわけでございます。

 さて、『ミュンヘン』です。ミュンヘンオリンピックにおける、パレスチナ組織「黒い九月」によるイスラエル選手団殺害を発端とし、その報復にかり出された人々をめぐるお話です。ぼくは予備知識が無くてっきり、この殺害事件がクライマックスになるのかと思っていたので、結構意外でした。

 主人公はエリック・バナという人で、ぼくには鑑賞中、この人がフィリップ・トルシエの通訳であったフローラン・ダバディに見えて仕方ありませんでした。エリック・バナ扮するところのアヴナーが同じ任務に就いた仲間とともに敵組織の実行者たちを殺していくのですが、いやあ、今までに観たスピルバーグ作品の中ではこれはぼくにとって、かなり下の部類です。スピルバーグ作品はまあ人並程度には観ているのですが、退屈を覚えたのは初めてかもわかりません。

 あのー、その敵組織の人間を次々と殺していくのですが、それがもう、「過程だなあ」という感じなんです。2時間半以上あるのですが、とにかくもう、任務の過程って感じがすごくして、途中からだるくなりました。話が妙な方向に転がっていかない、いや転がっては行くのですが、その妙さはどうでもいいような妙さで、敵を殺していく際のサスペンスに乏しいんです。事実に基づいている、というエクスキューズが悪い方向に働いているのかも知れないし、そうかと思えば創作と思しき部分が適切に働いているとも思えない。たとえば子供の電話のくだりです。電話に爆薬を仕掛けて、標的が電話に出たら起爆するんですが、誤算で子供が出そうになるんです。ああ、無辜なる子供を誤って殺してしまうのでは、子供が殺されてしまうのでは、となるわけですが、まあ結局、子供は電話に出ずに去り、標的が出て作戦成功、となるわけです。これもねえ、ぼくが頭がおかしい人間だからかもしれないけれど、あそこで子供を爆破に巻き込んでいればまた違うんです。ぼくとしては子供ともども殺して欲しかった。そうするとあの主人公の苦悩にもっと深みが出ると思うんです。任務とはいえ、誤算とはいえ……という懊悩が生まれるし、後々主人公が復讐の任務に疲れ果てるくだりも説得力が増すと思うんです。意図せずして無辜なる人間の命を奪った人間の苦悩、というのが出てきて、不条理性が浮き立つと思うんです。ここがハリウッド、最近のスピルバーグだなあ。『JAWS』の頃はそんな配慮をせず、好き勝手にやっていたんですけどねえ。

 もっと言えば、このシーンには欺瞞があるんですよ。実際アメリカは誤爆で散々子供を殺している訳じゃないですか。この映画のテーマでもあるイスラエル・パレスチナの争いでも同様の出来事が起きているじゃないですか。そのくせ、映画の中では子供を殺さない。興業上の理由でしょうが、こんなものは欺瞞ですよ。それこそ2005年の映画なら、イラク戦争と結びつけて考えないわけにはいかなくて、ミュンヘン五輪のイスラエルの報復=アメリカの報復の構図があるわけでしょ。だったらあの場面で子供を殺せよ! まさに「誤爆」という形で、現実における残酷さを浮き彫りにできるわけだろ! そういう欺瞞を感じ取ったぼくは、中盤から後半にかけてぜんぜん楽しめませんでした。

 後半のストーリーはもう何も面白くない。途中の展開について「思い切り過程っぽい」と文句を垂れましたが、後半は過程っぽいどころかぐだぐだになります。復讐の任務に就いていた主人公が相手からの復讐に怯えだすんですが、この辺はもう至極どうでもよかった。母親のエピソードとか家族のエピソードとかも、申し訳程度に描かれているようにしか思えなかった。結局この後半の怯えを強めるためだったんでしょうけれど、ぼくには鬱陶しいだけでした。このトルシエの通訳、じゃなかった、アヴナーは要するに、「復讐に勤しんでいた自分が復讐されるのでは、ああ、怖い」ってなことです。そんなのって、わかりきっているんですよ。そんな恐怖は、別に実際体験しなくても百も承知なんですよ。しかもそれで実際に何か起こるのかと思いきや、単に怯えて終わり。もうぐっだぐだです。

 冒頭の殺害シーンがすごいという感想を目にしたりもしますが、いやいや、『プライベートライアン』のほうが断然すごかったじゃないですか。それは別に出来事の規模じゃなくて、描き方の問題としてですよ。ああ、こらすごいなあ、狭い空間の恐慌をこんな風に撮るのか、というのはなかった。爆破のシーンとか出てきますけれど、さすがスピルバーグ! と思わされる暴力描写、破壊描写はなかった。全体を通して、ものすごく体感時間が長かったです。つい最近『JAWS』を褒めたばかりのぼくですが、今回のこれは個人的には、あまり推せない作品です。
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by karasmoker | 2009-05-19 03:25 | 洋画 | Comments(2)
Commented by 光について at 2013-11-20 04:05 x
ああ~、子供が爆破に巻き込まれないから欺瞞だとか、表面的な部分しか見てないんですねえ。
そのシーンはまだ暗殺が泥沼化していない前半部だから、ああいう表現で正しいんですよ。
子供云々で言うなら、主人公が子供を身篭った奥さんと電話で話す場面の夜と昼の乖離(救済の光=子供の有無)の演出に注目すべきでしょうに。
物語が進むに連れ、暗殺場面は夜闇を深めて凄惨度を増し、奥さんと再会した後の情事の際には、遂に希望であったはずの光でさえ彼の瞳を潰すほどの強烈な罪の意識に変わってしまうわけです。
この「光を直視することの罪」は近年のスピルバーグ映画に共通するテーマなので、あまりいい加減な気持ちで作品を見ない方が良いと思いますよ。
Commented by karasmoker at 2013-11-21 06:15
コメントありがとうございます。
これを書いたのが四年半前で、中学二年生が大学生になっているような年月が経っているのですが、わざわざそんな古い記事にコメント頂けて恐縮です。
 それでいて今のおまえはどうなのだと言われてもあれこれ論ずる気になりませんで、申し訳ありません。
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