『グラン・トリノ』 クリント・イーストウッド 2008

 人間の描写が薄いと思います。そこまでいいですか、これ?
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 映画は毎日のように観ているぼくですが、最新映画を観る趣味はなくて、よほど観たいと思ったものしか足を運びません。今年で言うと『愛のむきだし』は観に行きましたが、それ以降はぜんぜん行っていないし、いわゆる世間一般の映画好きに比して、ぜんぜん映画館に行かぬたち。いや、なんなら、別に映画好きじゃない人よりも行っていないくらいです。純粋に愉しむにはやはりぼくにはDVD、家で観るのが一番なんです。他の観客が気になることがあるからです。今回も、二つ前の席に座った老夫婦が鑑賞中何か喋っているのが気になって仕方なかった。二つ前だから注意もしにくいし。この点ぼくは大変神経質なので、なんなら前の席の人間の頭の影がもう気になる。あるいは他にすすり泣いている人がいると、ぼくは逆に冷める。

 ではどうしてそんなぼくがこの『グラン・トリノ』を観に行ったのかといえばひとえに、町山智浩だったり、その影響強い宇多丸だったりが激賞しており、宇多丸に至っては「これを映画館で観ようと思わないやつは映画ファンじゃない!」とまで言い切ったため、ほうほう、そらそこまで言うならよほどのもんなのじゃろうと思って行ってみたわけです。

 とはいえ、特別な期待を寄せていたわけではありません。というのも、ぼくはイーストウッド作品をそこまで好きじゃないんです。それほど数を観ているわけではないのですが、どうもこの人の作品には惹かれない。だから、まあ今回の映画で好きになれたら幸いで、足を運びました。池袋、シネマロサ。

 結論から言いましょう。
「そこまで言うほどかあ?」です。

 主人公、イーストウッド扮するウォルト・コワルスキーは朝鮮戦争従軍経験を持つ、フォードで自動車組立工をしていた老人です。物語は、彼の妻の葬儀のシーンから始まります。冒頭の場面から、このコワルスキーはいきなり怒っています。葬儀に来たガキどもがいたずらな言動を取るのを、低いうなり声を上げて睨みつけています。その後の場面でも、どうやらこの老人は周囲の人間があまり好きではないのだな、というのがわかってきます。息子の家族のことが嫌いで、うるさいガキどもと思っています。自分がフォードに勤めて育てたにもかかわらず、トヨタの車に乗っている息子のことも嫌いです。青臭い若造のくせに、神父としてえらそうに説教を垂れるのも嫌いです。隣に越してきたモン族(アジアの山岳民族)のことも嫌いです。とにかくみんな嫌いで、話し相手と言えばせいぜい古い友人ばかり。家に閉じこもり、静かな生活を乱すやつには銃を向けて威嚇し、孤独に暮らしています。この設定は好きです。この老人の設定は、最初のほうからかなり好感が持てました。というのも、ぼくもおそらく何十年かしたら、このような頑固じじいになることが予想されるからです。自分より年下の人間がちょけているのを観ると無条件にむかついてくるぼくであり、特に中途半端に不良的な、群れることで活気を増すような連中は大嫌いでありますから、このコワルスキーの造形には相当惹かれます。要するに、序盤のコワルスキーというのは、「もうみんなうるさい! 俺は静かに暮らしたいんだ。あ、俺の領域に入ってくるな、あっち行け」という、頑固かつ引きこもリスティックな人物でありまして、これはぼくとしては大変共感できる人物なのであります。

 そんな彼が不良を追い払ったことから、お隣のモン族の若い娘スーと親しくなります。この辺のくだりは好きです。イーストウッドが好きになれない理由の一つが、あのいつでも崩れることのない頑ななしかめっ面にあるのですが、このモン族との交流のくだりにおける彼は大変にキュートで、あ、この映画はよいかもしれないぞ、とさらに好感が持てます。鏡の自分に向かって「誕生日おめでとう」と言ってみたり、モン族の人と食事をしているときにも「後で戻ってくるから皿は下げないでくれよ」と言ってみたり、あれ? 今までぼくが抱いていたイーストウッドイメージと違うぞ、なんてキュートなんだ! と思わされ、なるほどこれは評価の高い作品だけあるなあと一人観ながらにやけていたのです。孤独で無愛想な彼がモン族の娘に誘われて食事に出向く場面でも、「まあいいか、今日は誕生日だしな」みたいな感じで、この辺の照れというか、あまり優しくされるのになれていない人間が心を開くさじ加減、もうぼくみたいな人間にとってはこの上なくはまる描写であったわけです。

 かたや、この物語ではモン族の少年、タオがキーパーソンになります。タオは意気地のない弱々しい少年で、不良連中からもいじめられています。彼とコワルスキーとの交流がこの物語の根幹をなします。タオの弱さを軽蔑していたコワルスキーですが、これもまた次第に打ち解けてきて、最後には非常に重要な役割を持つに至るわけです。

 ここまで書いている分には、この映画、文句なしなのです。ではどうしてぼくは「それほどかあ?」と思ったのか。

 さて、ここまでの話なら別にネタバレというほどではないでしょうが、これ以後は物語上重要な話もさせてもらいます。公開中につき特にネタバレの注意を促します。はい、ぼくは注意したので、後はもう知りません。基本的にここからは観たのを前提で話したいと思います。

 あの不良連中にタオがいじめられ、それに怒ったコワルスキーが報復に出て、そのまた報復という形でタオの家に銃撃、スーに至ってはぼこぼこにされる(明言されてはいないものの、まあレイプもされているのでしょう)。いよいよコワルスキーも我慢の限界。相手の家に乗り込みますが、でもいわゆるヒーロー的な復讐劇ではなく、自分を撃たせることによって法の裁きに委ねるという、復讐の連鎖を自らの死で食い止め、かつ報復としての役割も演ずるという、まあとても格好いい結末があるわけです。ここで観客は号泣、実際ぼくが観たとき客は少なかったものの、泣いている人もいたわけです。

 ところが、ぼく、ぜんぜん心を動かされなかった。
 やっぱりぼくは、イーストウッドという人が持つ、あるいはこの人の作品が持つ、クールな部分に惹かれないんです。この映画も相当クール。だから、そこまで愛せない。

『ミリオンダラー・ベイビー』のときも書きました。人物が綺麗すぎて、そこまで愛せないのだと。『グラン・トリノ』とあの作品は、似ていると言えば似ています。親類は信用に足りないという点もそうだし、それまで心を開かなかった相手に対してどんどん愛情を強めていく点も一緒だし、その相手がひどく傷つけられるところも似ている。もっと言うと、敵になるのは単純に悪いやつ、という簡単さも似ている。あの作品に比べれば今回の『グラン・トリノ』はずっと好きです。好きですが、この監督の人間の描き方って、どうしても綺麗すぎる気がしてならない。あるいは踏み込んでいないように思えてならない。今回ので言うと、スーとタオはもっと色濃く描かれていてもいいんじゃないかと思えてならない。そしてコワルスキーはもっと格好悪くていいと思えてならない。

 ぼくね、これは白状しますけれども、スーがぼこぼこになって帰ってきたあの瞬間、笑ってしまったんです。うわ、わかりやすっ! と思って。スーはどうしたんだろう、帰ってこないなあ、心配だ、あ、帰ってきたぞ、えっ、ちょっと……なんてことだ! というあの流れがもうわかりやすすぎるというか、すっごい単純な流れすぎて、ぼくは笑ってしまった。そのとき気づくのは、ああ、ぼくはスーという人間にそこまで愛着を持っていないのだなということでした。いや、スーの顔は可愛らしいと思うし、コワルスキーと打ち解けていくくだりでも何の文句もないし、スーはいいんです。でも、彼女が傷つけられたことについて、コワルスキーとともに怒れなかった。ここなんです。彼女が、まあタオでもいいですが、彼らが傷つけられたことにコワルスキーと一緒になって怒れるか。ここがこの映画に強く感じ入れるかどうか、です。ぼくは、怒れなかった。どうしてかなあと思うに、要はあのスーが、親切で気のいい隣人という域を出ていないと感じたからです。愛するものが傷つけられて主人公が怒る、というのはそれこそ映画のド定番ですが、だからこそその対象は「愛するもの」でなくてはならない。この映画ではいけ好かない孫娘が出てきます。彼女との対比で、スーがいい子として印象づけられるよう仕向けられています。なるほど彼女は無愛想なコワルスキーの心を開いたいい子ではあります。ただ、ただ、ぼくの印象としては、いい子止まり。それこそコワルスキーは最愛の妻を失った後で、あのスーはもっと愛情の矛先に転じてもいいはずなんですが、そうなっていない。『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクもそうでした。イーストウッドにとって、真にかけがえのない存在として映ってこないんです。この子がいなければ自分はこの先進んでいけない、というほどの存在にまでなっていないんです。「愛するもの」が傷つけられる話を数多観てきたほうからすれば、このスーの存在感はあまりにも弱い。ぼくがスーのあの場面で笑ったのは、むろんぼくが非倫理的な嗜虐家だからではありません。いかにも強引に、作劇上の「必要な展開」として傷つけられた作為ぶりに、失笑してしまったのです。

 これはタオへの愛情の話にも繋がります。コワルスキーのスーへの愛情が見て取れない以上、彼女の傷について痛みを得るには次の二つの条件が必要になります。すなわち、コワルスキーが強くタオを愛していること、そしてタオがスーを強く愛していること。この二点が守られて初めて、彼女の傷が意味を持ちます。ではこの映画ではどうか。はっきり言えば、どちらも雰囲気というか、やはりその点の描写が弱い。コワルスキーはタオがいなくても生きていけるし、タオとスーはただ家族であるというだけのことで、タオは無愛想ではあるけれど本当にこのスーのことが好きなんだなあと思わされない。いいですか、大事な話です。このイーストウッド、『ミリオンダラー~』もそうですが、彼は「肉親」というものを、基本的に信頼していないんです。「肉親であるというそれだけで愛するに足る」という思想を、彼は否定しています。だったら絶対、タオとスーの関係はもっと強く描かれなくてはならないはずです。タオがスーへの暴行に怒った理由を「だって家族なんだから!」ということにするのは、絶対通用しないんです。ああ、このタオはスーという姉貴を心の底では本当に愛していて、大事に思っていて、頼っているんだな、という描写が必要です。それがない!

 今日もどうやらながーい記事になりそうです。
 もうひとつ、イーストウッドのコワルスキーの描写です。随分上に書きましたが、ぼくはこの男が基本的に好きです。だけど、結局彼の最後の戦いが、今まで述べたとおりのところからわかるように、「戦わずにはいられない」と感じられないんです。言ってみれば彼が従軍した朝鮮戦争みたいな話です。別に自分の争い(=本国の争い)じゃないから、そこまで戦いに逼迫感がない。そしてどうしても守らねばならないものにも見えないから、彼が戦うところに濃度がこもらない。最後、あの終わらせ方は好きです。復讐の連鎖を止める、そのための手段としてああいう方法をとるのはぼくは格好いいと思います。だから非常にもったいないと感じます。描き方が弱い。これなら、たとえば『ターミネーター2』のシュワルツェネッガーのほうが格好いいです。今まで散々守ってきてくれたあいつが、あんな最期を!と思わされます。

 ことほどさように、今回の『グラン・トリノ』。ぼくはやはりイーストウッド映画のよい観客にはなれませんでした。どうしてそこまで激賞されるのか、よくわからない。この人が持つ薄さ、クールさには、どうしても惹かれないんですねえ。
 ここまで読んだあなた、つわもの万歳。
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by karasmoker | 2009-05-27 01:46 | 洋画 | Comments(4)
Commented at 2009-09-22 05:07 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by karasmoker at 2009-09-22 10:04
おお、誰しもが褒めると思っていた本作を、ぼくと同じように感じる人がいたとは! ネット上の論評などを観ても絶賛系ばかりが目について、「俺が間違っているのか?」状態だったので、そう言ってもらえるとなんだかほっとします。
 ちなみに「つわもの万歳」は、かのAV女優、蒼井そらのブログからの引用です。

Commented by コメ at 2013-11-20 02:51 x
途中までしか読んでませんが、あのコワルスキーの最期は、イーストウッドが携わり続けてきたアメリカ(西部劇)映画史に関する基礎知識や、キリスト教的な自己犠牲の精神を理解してないと意味が分からない人もいるのかもしれませんね。
かく言う私はどっちの知識も欠いてますけど、何故か本作は感動して泣きました。
アメリカの嘗ての栄光を象徴するグラン・トリノに異民族の青年が乗って走り去っていくEDが良いです。
Commented by karasmoker at 2013-11-21 06:00
コメントありがとうございます。
本作は今ではとても好きな作品の一つで、この頃とはぜんぜん違う印象を持っています。そのときはわからなくても、年を経るとわかるものもあるわけですね。
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