『ムーラン・ルージュ』 バズ・ラーマン 2001

前半で期待を煽る分、後半の失速が実にもったいないです。
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 キャバレーと名のつくもので、世界最も有名なのがおそらく、このパリのムーラン・ルージュなのでしょう。ロートレックの絵のイメージが強くて、遠い昔のものなのかなと思いきや、今でも営業しているようですね。ところで、キャバレーとはダンスやショーを行う盛り場のようなのですが、どうしてショーも何もないのにキャバクラは「キャバレー」の部分を名前につけているのでしょうね。キャバクラは好きではありませんが、このムーラン・ルージュのようなキャバレーには面白さを感じます。

 さて、映画のお話です。舞台は1900年のパリですが、まあアメリカ映画はどれしもそうであるように、ばりばり英語で喋っています。ですがこの映画の場合、それで何の問題もなく許されるのは、世界が虚構性を全面に打ち出しているからですね。『下妻物語』などを撮った中島哲也監督は絶対この映画を参照しているはずです。中島哲也作品とかなり似ています。ティム・バートンとも違う、もっとごてごてとした虚構性で、イメージで言えばキャバクラ嬢御用達の『小悪魔ageha』的華美さがあります。ティム・バートンは子供っぽくも端整に形作るし、テリー・ギリアムなどはおしゃれっぽくもありながらその実冷たくグロテスクにつくります。この映画はムーラン・ルージュという場所をより一層華美に魅せ、一言で言ってごてごてした、キャバクラ嬢風に言えば(なぜキャバクラ嬢風に言うのだ)「アゲ盛り」な具合の映像を作り上げています。

 最初のほうのぶっ飛んだ演出は大好きです。勢いで全部持っていくところに映像の強みが感じられて、こういうのは好きです。1900年パリなんて舞台設定をしながらも、思い切り現代風にアレンジしていて、劇中で歌われる曲も「your song」とか「like a virgin」など現代の曲であり、虚構方面に爆走するこの姿勢は愉快に感じました。ムーラン・ルージュの小屋の中でダンスをするシーンなど本当に絶品。M-1の出囃子に遭遇するなどの面白みもあり、ああ、これは大変に素敵な作品であるなあと思わされました。ダンスシーンには特段アンテナが伸びぬぼくですが、このシーンはテンションが上がった。劇場で観たらさらにアゲアゲだっただろうと思われます。このクオリティを後半まで保てたら、素晴らしい出来になるだろうと思い、わくわくしながら観ました。ニコール・キッドマン扮するヒロインは綺麗でした。無条件で愛してしまうくらい綺麗、というのではないのですが、やはりハリウッドのトップ女優だけあって、底知れぬ魅力を放っていますね。

 物語はというと、ムーラン・ルージュのトップの踊り子に貧乏な作家が恋をし、二人は愛し合うようになるのですがそこに金持ちの公爵が横恋慕。そして踊り子は治らぬ病を抱え、不遇の死を遂げるという話です。冒頭から「彼女は死んだ」と言って始まるので、これはネタバレに当たりますまい。

 映像やテンポに妙技のある監督は数多くあれど、その人々とも絶妙に違う映像世界をつくっているこの映画は、前半かなり好感度が高いです。恋に落ちるくだりなども、ミュージカル的に、全部歌の文句で済ませてしまうのであり、勢いだけで話を持っていくところはありますが、これはこれでよいのです。ぐだぐだとつまらぬ会話で恋に落ちるくだりを描くくらいなら、全部勢いで持っていってよし! このノリに乗れていたので、何でもありの果てまでも連れて行っておくれって感じで映画的快楽がありました。

 ただ、うん、最近このフレーズを用いることが多いのですが、もったいない。後半の失速感は実に目に余る。この映画が持っていたアゲ盛り的愉快さ、前半に観られたあの高濃度の痛快感。それが後半になると何もなくなるんです。これはもったいない。どうして前半のままで行かないのか。

 といえば、理由は簡単です。ヒロインが結核にかかり、もう助からないみたいな話になって悲壮感。同時に公爵の嫉妬がえげつなくなって物語全体のトーンが暗くなり立ちこめる危機感。話は悲恋モードに陥っていくため、あの前半の魅力がまったくなくなるのです。こうなってしまうとこの映画、ただの悲恋話に堕します。そうなるとせっかく楽しかったあのミュージカルノリも鬱陶しくなる。監督が替わったんじゃないかと思うくらい、後半は駄目になりました。文法も普通の恋愛映画的になる。これは大変にもったいない。

 そう、前半あれだけ楽しかった監督が、後半からまじめっこちゃんになるのです。やりようはあると思うんです。たとえば劇場支配人と公爵が「like a virgin」のノリで、勢いで持っていく。あそこは後半で活きた場面ですが、あのノリで悲恋を持っていってくれて何の問題もないのです。つまり、ヒロインと公爵がミュージカルのノリで、「好きだよ~ららら~」「あたしは~ 嫌いなの~るるる~」みたいなノリで、ぐいぐい押していけばいいんです。それをなまじまじめっこちゃんのまじめっこモードで物語ろうとするから、ただの普通の映画になる。せっかくあの序盤のムーラン・ルージュのすごいノリがあったのに、だからぼくはクライマックスであれを上回るものが来ると期待したのに、後半は何故かインド映画というか、インドをモチーフにしたミュージカルにしてしまう。あのさあ、ここになんでインドなんだよ。遊びでインドを入れる分にはぜんぜんいいよ。でも、あの場面はインドでつくっちゃ駄目だよ。そこはやっぱりもっと、ムーラン・ルージュなんだから、フレンチカンカンで魅せようよ! 公爵の限りなく鬱陶しい横恋慕もフレンチカンカンのノリで巻いちゃえばオールオッケー! ってな話でいいのよ。それをなあ、妙にまじめなトーンを混ぜるものだから、肝心なところでぜんぜんあの世界観が活きてこない。

 それでヒロインが死んだ後も、妙にさっくり終わる。さっくりすぱっと終わるのは好きですが、この映画には物足りなさを感じた。だからそもそもの話、ヒロインが死ぬなんて設定要らないんだって。なんでもかんでも死ねば感動すると思うな馬鹿! いいじゃないですか、公爵の横暴を切り抜けて愛を成就させる二人でいいんですよ。なまじ最初から、「彼女は死んだ」みたいなばらしをしちゃうもんだから、どんなに公爵が横やりを入れてきても、それでも二人は愛し合うのって話にしても、「でも結局死ぬんだろ。だったら公爵の横やりとかあまり意味なくない?」と思ってしまうんです。そのうえもう一度言いますが、ヒロインを死ぬ設定にしたせいで、映画自体が失速するんです。それとその設定にもうひとつ突っ込みを入れましょう。ヒロインは結核なんだろ! だったらあんな人がいっぱいいるところで踊らせちゃ駄目だよ! もっと違う病気もあったはずじゃないですか。結核だと、周りの人に伝染するのでは…という余計な心配までしてしまうよ! 

 この監督はセンスがいいんだか悪いんだかよくわかりません。映像的にいいのに、クライマックスでそれを生かし切れていないし、物語をテンポよく進める術を知っているのかと思いきやぐだぐだにする。竜頭蛇尾映画です。前半でおいしいところを全部吐き出してしまったような映画で、後半はその残り香でなんとか持っているようなものです。もっと短くてもいいから、アゲ盛りのノリでぴしっと決めてくれればもっともっとよかった。またも思う言葉は、もったいない、ということです。
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by karasmoker | 2009-06-09 00:30 | 洋画 | Comments(0)
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