『ある子供』 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 2005

魅力がないただのあほ。たとえばカウリスマキならもっとうまく撮ってくれたはず。
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 ダルデンヌ兄弟の作品は初鑑賞です。この作品は彼らの二回目のパルム・ドール受賞作ということで、これまでそれほど多く撮っていないにもかかわらず二度目というのはすごいことだと思いますが、今回の作品を見る限りでいうと、どうも本当にすごくて受賞しているというより、カンヌの賞獲りに向いている、ということではないでしょうか。賞を獲るのがうまい人たちというか、少なくともぼくなどの野暮天には、「おお」と思えなかった。

 筋書きはというと、要は駄目な男のお話です。男は恋人の女との間に子供ができるんですが、金欲しさに子供を養子として売ってしまい、でもあとで後悔して取り戻して、でももう恋人とは一緒にいられなくて、といった話です。

 観ながら思ったのは、これはヌーヴェル・バーグとかヨーロッパ系の、あっち系に詳しいともっといろいろ語れるのかもなあ、ということでした。ぼくは日本映画とアメリカ映画ばかり観ており、正直ヨーロッパの映画にはそこまで惹かれるものがない。アキ・カウリスマキくらい、あとは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ドッグヴィル』のラース・フォン・トリアーくらいかなあといったところ。ヌーヴェル・バーグなどには今のところ惹かれません。

 余談ですが、フランスのヌーヴェル・バーグはそこまでパルムドールに縁があるわけでもなさそうです。ぼくが意外に感じたこととして、過去のパルムドール受賞作を観てみると、ヌーヴェル・バーグの代表であるところのジャン=リュック・ゴダールも、フランソワ・トリュフォーも、パルムドールは獲っていないのです。それどころか、トリュフォーは『大人は判ってくれない』で監督賞を受賞しているものの、ゴダールにいたっては無冠です。ヌーヴェル・バーグにきわめて造詣の浅いぼくでも知っている、大変高名なこの二人が、どうしてカンヌ映画祭と縁遠いのか、誰か知っていたら教えてほしいものです。ルキノ・ヴィスコンティやミケランジェロ・アントニオーニなどネオレアリスモ系の受賞はあるのですが。

 さて、関係ない話が膨らみました。
『ある子供』は正直別に面白くなかった。これなら同年のパルムドールはフォン・トリアーの『マンダレイ』にあげてほしかったです。駄目な男の話は大好物なのですが、どうも画も面白くないし、子供を売るくだりもハテナマークというか、何なの? って感じです。
子供を売って金を得て、それで恋人がショックを受けると今度は翻意して取り戻す、それで恋人に嫌われて、ああ、とんでもないことをしたなあと途方に暮れる。そう、まさにこの主人公こそが「ある子供」、つまりはすごく子供な野郎なんですが、ただのあほなんです。なんというか、ああ、こいつはどうしようもないあほだなあ、と思わされればそれでいいんですが、こいつは「ただのあほ」なんです。ほしいものがあったからサラ金で金を借りて、でも返せなくなって、ああどうしようと言っているのと同じような、ただのあほです。こいつを子供っぽく見せようとしているのはわかるんですよ。最初の恋人とのコミュニケーションとか、ガキとつるむくだりとか、警察から逃げるときに川のほうに行ってしまう浅ましさとか、とにかく子供っぽくしているんですが、これだと「大人になれないやつ」というより、本当に「ただのあほ」に見えてくる。若者が大人になる話、大人になれない若者の話、子供のまま大人になったような男の話、など、いろいろな分け方があるとして、こいつの場合は、「ただのあほの話」です。

 とはいえ、「ただのあほ」だから即駄目だということでもないんです。ただ、この映画は手持ちカメラで音楽も排した撮り方なのですが、その分ずっと主人公を映している。となるとこの男を好きになれないとやはりきついです。これ、アキ・カウリスマキだったら違うんじゃないかなあと思うんです。たとえば1990年の『コントラクト・キラー』。会社を首になり自殺しようとした男が死ねず、でも死にたいから自分を殺してくれと殺し屋に頼む。しかし恋をしたことをきっかけに死ぬのが嫌になり、殺し屋から逃げ回るという話です。あるいはぼくのベストオブカウリスマキの『街のあかり』(2006)。孤独な男が恋をし、彼女のために罪を犯す。彼女は実は犯罪者一味だったのですが、そうとわかっても彼女を咎めることなく、自分が刑務所に入る。こいつらもどうしようもない男ですが、でもやっぱり愛着がある。それは何故かを考えるに、やっぱり作品全体から醸される「哀しさ」があるかどうかでしょう。『ある子供』の主人公に、あるいはこの映画全体に決定的に欠けているのは、「哀しさ」です。こいつは哀しいなあ、というのがない。それは主人公の行動や性格云々というより、ひとえに描写の問題なんじゃないかと思う。「生き苦しさ」や内面的孤独があるわけでもなく、ただ小悪に手を染めているだけの、ただのあほ。

 主人公がパンを食うシーンがあるのですが、ここに落差と哀感がこもらなかったのが大きい。最初のほうで、まだ彼女と幸せでいたときにもパンを食うシーンがあります。そして後半、独りになったときにも同じようなパンを食っている。ここで落差が見せられたはずなんですが、どうも一度目のパンと二度目のパン、どっちも旨そうじゃないんですよ。幸せなときも不幸なときも「なんかまずそうなパンやなあ」と思える。幸せなときのパンはもっとうまそうに描写してくれ! そして不幸なときのパンはもっともっとまずそうにしてくれ。ここでもやはりカウリスマキの手練れを思う。『マッチ工場の少女』(1990)の食卓の料理は本当にまずそうで、だから哀感がある。独りでいるシーンの多い、会話の比較的少ない映画なのに、こいつが独りでいるときの佇まいに魅力がないため、彼を好きになれない。

 パルムドールを獲ったわけですから、ぼくのような凡愚の野暮天にはわからぬ意匠がきっと凝らされており、味わい深い作品なのでしょうけれど、それからぼくが通うビデオ屋のポップには「蒼井優が絶賛」なんて書かれていたんですけれど、どうにも物足りない。最後に泣かれたところでどうしようもないのは、言うまでもありません。
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by karasmoker | 2009-06-13 05:11 | 洋画 | Comments(0)
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