『痴人の愛』 増村保造 1967

個人的にあのナオミには惹かれなかった。そしてこの映画の最大の問題は、やはり狂気に欠けること。
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 いわずとしれた谷崎潤一郎の名作ですが、この増村版を含め、三作ほど制作されているようです。木村恵吾という監督がこれより前になぜか二回、映画化しています。ちなみに谷崎潤一郎はぼくの卒業した学科の先輩に当たります(谷崎は中退したみたいですが)。ちなみに増村保造は大学の先輩に当たります。

 原作は随分前に読んだので、細部などはぜんぜん覚えていませんでした。なにしろぼくは小説の内容を長期にわたって覚えておくことができない。なんか大体あんな感じ、こんな感じという覚え方で、この『痴人の愛』にしても、簡単なあらすじも忘れているくらいでした。ただその分、映画はフラットに観られたと思います。ああ、いや、そうでもないなあ。やっぱり原作のインパクトありきで語ってしまいますね。原作と違ってもいいんですが、原作の核の部分が変わることだけは、やっぱりよくないです。

 要はまじめなサラリーマンの男が、自分よりずっと年下の少女に耽溺していく話ですが、まじめな男、河合譲治役を小沢昭一、少女ナオミ役を安田道代(現・大楠道代)という女優さんが演じています。安田道代という人はほとんど知りませんでした。観た記憶があるのは鈴木清順、『ツィゴイネルワイゼン』くらい。水蜜桃をエロティックに舐めていた婦人ですね。

 始まり方は大変好感が持てた。工場に勤める河合は工場長に、「いい年なのに結婚はしないのかい、遊びもやらないし、生粋のまじめ人間だね」みたいなことを言われ、「自分は猫を飼っているんです。雑種なんですがとても可愛いんです」というような答えを返します。いざ家に帰ってみると、そこにいるのは猫でなく少女ナオミ。きゃはきゃは騒ぎながら河合は彼女の写真を撮りだし、オープニングクレジットに入る。このクレジットは絶品で、それまでと一転して怪奇映画の様相を帯び、この映画の行く末を暗示します。またその直後、ナオミの観察日記を写真とともにナラタージュするあの流れもいい。

 舞台は原作の大正時代から1960年代に置き換えられていますが、これ自体は観ている最中、特別気にならなかった。ただ、後に触れますが、観終えた結果としてはやはり時代設定を原作通りにしたほうがよかったようにも思います。

 この手の作品だと、もうはっきり言って、ナオミが勝負みたいなところがあります。ナオミが可愛ければ何がどうでも許せてしまう作品になり得ます。アイドル映画は中身がどうあれ、アイドルが可愛く撮れていればそれでいいようなところがある。この映画はナオミというアイドル=偶像が可愛ければそれだけでいけちまう類のものです。

が、いや、だからこそ、ぼくはあの安田道代がちょっと残念でした。これはもう好みの問題でしかないかもしれないけれど、安田道代自体がそれほど魅力的に思えなかった。これはこの映画をどう観るかにおいて、一番と言ってもいいくらい大事な部分です。

 難しいと言えば難しいんです。小説はそれこそ自分の理想通りのイメージで読めるから、いざある女優になるとその違和感が気になるというのはどうしてもあって、特にこうした小説ですからナオミ役は難しく、誰しものイメージ通りにぴたりといくこと自体、そもそも無理。だからこの安田道代でよかった、という人もいるんでしょうし、これはあくまでも個人的な感じ方です。ただ、アイドル好きのぼくからすると、このナオミはもうロリータ味が強すぎるくらいが丁度いい気がします。原作では十五歳のときに出会った設定になっていて、要するに女子高生に惚れたような話ですし、彼女は勉強嫌いの気まぐれ小悪魔なんですから、子供っぽさが全面に出ている方がいい。ただ、原作ではメアリー・ピックフォード(文庫版では「メリー・ピクフォード」)に似ていることになっています。この人を知りませんでしたが、ウィキの画像ではちょっと大人っぽいですね(って、何歳の頃の画像かわかんねえから意味ねえだろ)。ともあれ、やはり小悪魔性こそがこのナオミの核にあることは間違いないわけです。

 この安田道代はねえ、ちょっとしゃべり方とか声がおばさんくさいんです。絵沢萌子という今はおばあさんの女優がいるんですが、あの人を思い出してしまった。なんなら、あの人の若かりし頃かと思うくらい印象が被る場面がありました。しゃべり方が子供っぽくない。時代的な背景があるにせよ、もっと子供っぽい、舌足らずなくらいでいいんです。
 
 顔に関してはこれこそ好みの最たるもんですけど、やはりロリ要素が皆無。同じような話でナボコフの『ロリータ』、原作こそ読んでいませんが、キューブリックの映画版は観ています。あれなどは観ていて気にならなかったんですけどね、今回のナオミはなあ、ちょっと合わなかった。今のアイドル、役者で言えば、このナオミ役にふさわしい人がいくらでも思いつきます。脱ぐ場面も演じられる、となるとぐっと選択肢が狭まるので、ここはAV女優も考慮に入れたいところです。あの人もよい、この人もよい、といろいろ空想するだけで楽しめるものです。ちなみにぼくのナオミ役の一押しは、数年前に引退した、エスワン草創期を支えたあの、小倉ありすです。もうちょっと年若ければみひろもいいです。ロリとは違いますが、最近では桜木凛の良さに惚れ惚れとしています(何の話だ)。ちなみに、ごく個人的なことでいえば、かつて新宿のバーに立っていたあずみちゃんという女の子が、ぼくの抱くナオミの外見的イメージに合います(誰にわかるというのだ)。

 谷崎潤一郎について、マゾヒズムってことが言われますが、マゾ=被虐、被支配に快楽を見いだす欲求の場面で言えば、あの馬になるシーンがあります。ナオミにまたがられた河合が家の中を四つん這いで歩くのですが、ここなどはもっとエロティックかつ狂った見せ方ができたんじゃないかと思います。どうもここは平凡だったかなあ。あるいはやはり、女優の問題に尽きるのでしょうか、ぼくは入り込めなかった。

 マゾというのは、わかりやすいところでSMの女王様というのがあるけれど、何も女王様的な、強いものからの被支配がすべてではありません。SMの女王様といえばそれこそ、革のボンテージにお姉系のいかつい女性が高圧的な態度をとる、というイメージがありますが、この役割をロリ系に当てはめてみると、これまた違う味わいがあるわけです。客観的に見れば貧弱で幼気な、か弱く可憐なる少女。そのような少女に支配される悦びをこそ愛でる、というモードがマゾヒズムにはあるのです。簡単に言うと、「強いものに屈する我」としての快楽ではなく、「己よりも明らかに弱いものにさえ屈する我」に快楽を見いだすこと。ぼくは対女王様のマゾヒズムには惹かれませんが、こちらのマゾになら官能を覚え、感応できる。強いものには反発したくなる。行ったことはないけれど、ぼくがいわゆるSMクラブに行ったとして一番喜ばしいプレイはきっと、女王様を(本当に)殺すというものでしょう。Mのふりをして入り、いきなり女王様を殺すことができたら、これは快楽濃度が高そうです。サディズムにおいてはぼくは、弱いものを屈服させたい願望はない。でも、強いものをぶっ殺すならばそれはさぞ面白かろうと思います。

 だんだんやばい方向に話が転がっている。人間性が疑われる。いや、しかし、これはこの『痴人の愛』を語る上で重要なところではあるのです。こうした話し抜きにこの話を語るなんて、格好つけのやることです。結果、河合はナオミに屈服し続ける生き方を選びます。これはこれで谷崎の行ききっているところだなあと感じます。一人の女子を愛玩する話だと『完全なる飼育』がありましたが、あの筋立てはこの『痴人の愛』に比べればひどいものです。誘拐犯と女子高生が最終的に純愛みたいな、もうどうしようもない話です。あれこそまさに、支配と被支配が逆転するダイナミズムを生み出し得る設定なのに、何を考えていたのか。『痴人の愛』の芳しき狂気はすなわち、支配していたはずのものに支配される、愛玩していたものに飲み込まれる、それでいてなおかつ、当人は幸せであり続け狂気から醒めぬという、喪黒福造に「ドーン!」を喰らった後のような、「不幸に見えるが当人はいたって幸福」という部分なのです。考えてみるに、狂人とは幸福な人々です。愛の狂気を描いているなんて、手垢にまみれつくした表現をするのもどうかと思いますが、やはりその点は疑いようがないです。

 映画全体を通じて言うと、この狂気の密度を高めるには1960年代ではなく、大正のそれこそ『ツィゴイネルワイゼン』的な怪しい雰囲気を持っていたほうがよかった。これは否めないところです。ストーリーなんてぶっちゃけどうだっていい。いかに雰囲気を漲らせるかがこの映画のポイントであったはずで、最初こそ相当いいのに、途中からつまらぬ男のつまらぬ話に堕してしまう。河合がナオミを欠いた際の「禁断症状」に見舞われるシーンがありますが、あれをああやって見せるのではなく、その雰囲気を全編に持たせることが必要だったんじゃないかと思わされる。そのためには、母親が死ぬ場面のああいう笑いは、この映画の場合要らないかなあと思いました。むしろ、あそこで河合の底が知れてしまった。あそこで母親の死に悲しむのは底が知れる。あれで悲しまなければ、狂気が持続したかもしれないのに。それと、せっかく効果的だった日記をどうして最初のほうでしか使わなかったのか。モノローグは狂気の宿り場。あれはもっともっと使える装置だったのに、低予算映画で雰囲気をつくるにはあれは絶対使えるのに、使わなかった理由がわからない。

 ことほどさように、『痴人の愛』自体は素晴らしいにしても、その映像化という点ではいささか踏み込みが足りないと思いました。終わり方も、あれでは河合が「愛に溺れた」哀れな男に見える。そうじゃなくて、「愛の海に溺死し、しかしそれをこそ尊ぶ」という、簡明に言えば、ひどく幸福そうな表情で終わりにしたほうが、狂気が浮き出たはず。増村保造は好きなのですが、この映画に関してはちょっと残念だったなあと思います。

どうも今日の文章はいつもより読みにくい感じです。ごめんね。
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by karasmoker | 2009-06-21 00:48 | 邦画 | Comments(0)
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