『肉弾』 岡本喜八 1968

この哀しさはすさまじいところまで行っています。
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 映画の面白さ、もしくは小説なんかでもそうなんですが、やっぱり「狂っている」ことって、大事だなあと思うわけです。壊れている、という言い方でもいい。『狂気の歴史』じゃないですが、やっぱり近代ってのは狂気を押さえ込め、あるいは排斥した枠組みのうちに育ってきたわけで、その枠からはみ出しているものにぼくは強く惹かれる。「笑い」に惹かれるのも結局その点が大きくて、笑いとはつまり「狂い」ですからね。普通の、常識的な流れからの逸脱、すなわち狂いの発生が笑いを生み出すのであって(あるいは過度な常識もまた狂気たりうるわけで)、表現全般においてぼくは狂っているものが好きであります。

 思うに、テレビがつまらなくなった理由を一言で言うなら、抽象的ですが、この「狂い」がなくなったからでしょう。昔のバラエティもドラマも、どこか狂っていた。おそらくは収録現場にも立ちこめていたであろう狂気が画面を通して伝わり、我々の狂気アンテナに受信されていたのです。そして昔の映画にもまた「狂い」があった。この『肉弾』などはその好例と言えましょう。

 時は終戦間近、主人公は寺田農扮する二十一歳の一兵卒です(名前は出てきません。この映画が語られる際には一般に「あいつ」と呼ばれています。軍人である彼の、ほんの短い時間を描いた作品ですが、これが岡本喜八の演出なのでしょうか、全編漲る悲壮感と馬鹿らしさが絶妙な折り合いをなしているのであり、いわゆる戦争映画の、ドンパチが出てくるような場面はほとんどなく、ひたすらこの寺田農を映し続けている奇妙な作品です。

 寺田農の肉体的存在感が圧倒的です。肉体的存在感、というと、筋骨隆々のたくましい男をイメージしますが、彼はどちらかというとひょろっちく、丸眼鏡をかけて弱々しい男です。しかし、時折織り込まれる印象的なショット(反芻シーンの喉仏、全裸労働シーンの尻)や、冒頭とラストを結ぶドラム缶内の汗ばみなどが、彼の存在を異常なまでに色濃く映し出します。名前も明かされない、友人も肉親も出てこないこの話における彼は、ひどく哀しげに映る。こんなにも哀しいやつがいるだろうかというくらいです。哀しい男、というのはぼくが一番好きなキャラクター造詣ですが、こいつの哀しさはちょっと痛々しいくらいです。彼だけが哀しい、というよりも、彼を取り巻く全てのものが哀しいんです。
 
 彼は人間魚雷の特攻隊員に選ばれ、一日だけ自由な時間を与えられます。彼はひどく汚い地下の本屋に出向き、そこで笠智衆扮する老店主に出会います。小津映画に出てくる彼のように、抜群の好々爺ぶりなのですが、彼は戦争のために両手を無くしています。彼は一人で用を足せないので、寺田農の力を借りて用を足します。トーン自体は結構明るいというか、ほのぼのとした交流みたいに見えるんですが、いざこの状況を俯瞰すると、なんとも哀しいです。もうどうしようもないような人生の一部分なんです。別に劇的でもないし、悲惨な場面でもないし、でも画面に溢れる薄汚さがあって、見知らぬ老人の小便を助けて、なんか、わかりますかねえ、この感じ。この哀しさ。

 その後、女郎買いのためにこれまたきったないドヤ街みたいなところに男は出向くのですが、女郎も汚く醜いババアばかり。彼は童貞であり、なんとかよい女を相手にしたいと願っていたところ、大谷直子演ずる可憐な少女に出会います。やっといい想いができる、と思っていたところ、いざ出てきたのは汚いババア。コメディとしては一番当たり前の展開なのですが、哀しさがまたも強まります。死が迫る直前、一日だけ与えられた自由な時間に童貞を捨てようと夢見た結果が、このババア。こいつの人生は一体何なんだと思わされる一幕です。

 それでも大谷直子とはこの後、再び出会って交流があるわけですが、そのシーンなどもこの映画の狂いを見せつけられます。他の場面もそうですが、会話が演劇的なんです。どうやっても映画的ではない、演劇的なテンポのあるやりとり、そして身の所作。しかしこの映画は単に演劇的なだけではなく、その後妙に長い間をつくったりなどするため、今度はぐぐっと映画的な濃度が高まる。園子温の狂い方の源流は、岡本喜八にあるのかなあと思いますね。音楽も園子温同様、明るい音楽を流したりするし、やけに顔のアップが多いのも似ている。園子温は岡本喜八が大好きなはずです、知らないけど。

 後半の砂丘シーンもねえ、もう、何なんだこの状況はという場面なんですよ。戦争映画という感じじゃないんです。ディストピアのなれの果てみたいな、もう人間社会なんてものはどこにもないんじゃないかと思わされるような寂寥感があります。男は砂の中にうずめたドラム缶を一応の住処としており、これは軍隊としての備えか何からしいのですが、他にそんなことをやっている連中の姿がないんですよ。人は出てくるんですけど、彼同様にドラム缶に暮らしている人の姿が描かれないので、この男の、もう訳のわからない状況に置かれている感じがひどくよく出ている。モノクロ映画の砂丘シーンってのは、どうしてこんなに寂しいのでしょうか。

 ラストは驚きですね。この哀しい男には、ある意味何よりふさわしい終わり方ではありますが、これ以上哀しい終わり方があるのかという結末。かといって、絶対感涙を誘ったりはしないですよ。この映画は泣ける映画では絶対になくて、むしろ岡本喜八演出で、コメディっぽい香りが漂っているんです。でも、その笑いもまた、「もう笑うしかない」という哀しさでね。「すべらない話」で麒麟の田村があの昔話をしたときに、周りの皆は「哀しすぎて笑う」というリアクションを示しました。それに近いところがあります。哀しすぎて笑えてくる。

泣くとか泣かないとか、そんなわかりやすくて直情的な次元にはない哀しさ。そこにはぼくとしては「狂い」を見いだすのであって、この男の寂しさもまた、ぼくには大変響くものがあったわけです。
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by karasmoker | 2009-06-28 20:50 | 邦画 | Comments(2)
Commented by 白川 at 2010-07-02 01:35 x
僕も肉弾は決作だと思いますが喜八は独立愚連隊西へだと思います。ぜひ見てください
Commented by karasmoker at 2010-07-02 02:34
『独立愚連隊』の一作目は観たのですが、後半飽きてしまいました。二作目はまだなので、気になりますね。
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