『リダクテッド 真実の価値』 ブライアン・デ・パルマ 2007

この映画で起こる事件自体が、イラク戦争のことを指しているわけです。
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 イラク戦争時に実際に起こった、米兵による少女レイプ事件を題材に、フェイクドキュメンタリーの手法を用いて撮られた作品です。デ・パルマの戦争ものというと『カジュアリティーズ』(1989)がありますが、あれと似ています。

『カジュアリティーズ』はマイケル・J・フォックス主演のベトナム戦争ものです。分隊の上司、同僚が村人の少女を誘拐、レイプしてしまう話なんですが、デ・パルマは再び、米軍の派兵先での非道をモチーフにしたわけです。演出的にはとてもよく似ている部分があって、たとえば序盤、頼りになる上官が殺されるくだりなどは『カジュアリティーズ』と同じですね。頼りになる上官というのも一緒だし、弛緩した場面で突如死んでしまう点、その報復を口実に非道に染まる点、それがレイプである点、良心的な人物の告発で明るみに出る点も同じです。もっとも、『カジュアリティーズ』はベトナム戦争終結から長い時間が経った後の作品で、『リダクテッド』はつい数年前の、(新大統領によって撤退が進められているとはいえ)今も米軍の派兵状態が続いているイラク戦争の話ですから、この点は大きく事情が異なるわけです。この映画、カナダ資本で撮られたらしく(アメリカ資本がどれくらいあったのか、細かい割合はわかりませんが)、やはりアメリカの映画業界としてもあまり歓迎できないテーマだったことが伺えます。

町山智浩によると、このデ・パルマやウディ・アレン、スコセッシなどの作家的な監督は、今やアメリカで映画が撮れない状況になっているそうです。「パイレーツカリビアンの監督のような、何の主張もない人」ばかりが大作を任されているのだ、と町山は嘆いていましたが、これは日本にも通ずるところです。テレビ局主導の映画は大体が名のない監督のものです。考えてみればおかしな話だと思うんですよ。テレビ局が宣伝にもキャストにも金を掛けて、そのくせ監督は誰も知らないような人というのは、映画のつくられ方として正しくない気がします。テレビ局主導映画が持つ最大の問題点とはつまり、監督が雇われ監督に過ぎない、ということではないでしょうか。違う言い方をすると、つくる前から出来が決まっている、ということです。つくる前から、制作に携わる誰一人として、傑作をつくってやろうなんて考えていないと思われます。これはおそらく、ものづくりにおける最も深刻な、そして本質的な病理でありましょう。

 と、わかったような口を叩くよりも、映画のお話です。
『カジュアリティーズ』に似ている『リダクテッド』ですが、決定的な違いは言うまでもなく、疑似ドキュメンタリーという手法の部分です。もとよりの映像遊び巧者、デ・パルマですが、インターネット映像、テレビ映像などを織り込みながら時間を進めていきます。事実に基づいている、という一方、冒頭では「全てフィクション」と字幕が出ます。最後の写真の部分を除いて、映像は全てつくられたもののようです。ここが、変なところです。

 疑似ドキュメンタリーという形式が採用される場合、虚構でありながらいかに本当っぽく、生っぽく見せるかという方向に意識はいきがちだと思われます。劇映画的なカット割り、台詞などとは違う、いかにも現実っぽくつくられる映画、その形式によってリアリティを高めようとする手段として用いられるものが多いように思います。ところがこの作品は、いきなり最初から、「全てフィクション」と言い出します。そしてその中身もまた、どうにもドキュメンタリーっぽさがないというか、劇映画的なんですよ。
 
 特に兵舎の場面なんかはそうなんです。劇映画とドキュメンタリーの違いって何かなあと思ったときに、沢山あるでしょうけど、たとえば会話の間です。劇と現実は当然台詞の間が違う。でも、この映画が持つ会話の間は、「映画としての間」から離れていないんです。現実の会話って、もっとテンポが悪いものじゃないでしょうか。変に長い時間、間が開いてしまったりね。それでいうとたとえば今、映画が公開中の『エヴァ』、あれの第何話か思い出せないんですけど、アスカとレイがエレベーターに同乗している、すごく印象的なシーンがありますよね。ずっと黙っているんですよ。何も喋らない。普通あんな表現しない、というところがエヴァの面白いところなんですが、あれは劇映画の作法をぶち破り、一気に現実的場面へと引っ張る思い切った演出です。ああいうのは、現実じゃないですか。ドキュメンタリー的手法を使うなら、たとえ間延びしてもいいから、あれくらい思い切ってほしい。この映画のドキュメンタリーさは、乏しいです。でもわからないのは、デ・パルマがどれくらい「疑似ドキュメンタリーをドキュメンタリーに似せようとしたか」ということです。

 これは疑似ドキュメンタリー的な手法を撮りながらも、ドキュメンタリーには見えてこない。時折挿入されるユーチューブ的なくだりがありますが、あれもリアルに見えてこないなあというのはあります。他にも、あの上官が死んだときの引きちぎれた足(手?)がいかにもな映り方をしているところとか、本を読むくだりのこれみよがしな感じとか、あいつが連れ去られたときにいかにもタイミングよく別の人物が通りかかるとか、あとはあの、首謀者二人の語らいとか。

 ただね、ただね、こんなに長く書いているんですけど、それをすべて水泡に帰しかねないことを書くんですが、これは要はぼくがアメリカの現実風景を知らないからということと、字幕によって言語の同時性、直接性が働かなくなっていることがあるのかもしれません。アメリカ人が観れば、これはリアルなドキュメンタリーに見えてくるのかもわかりません。この点、自信がないのです。アメリカ人が観てリアルだ、現実の生っぽさが出ている、というなら、ぼくはこれまでの記述を全否定しなくてはなりません。

 物語の話に戻りますと、『カジュアリティーズ』のベトナム戦争と決定的に違うのは、あの筋立てがイラク戦争布告の戯画になっていることですね。レイプのために事件の家屋に入った際、首謀者の一人が、「大量破壊兵器が見つからない」と言って笑います。そもそもその事件の家に行ったのも、そこが上官を殺した犯人の要所だと勝手に決めつけたからであって、このレイプにまつわる一連、つまりはこの映画の筋立てそのものが、「アメリカの被害(911)→イラクへの容疑→決定的証拠もないままの宣戦布告→殺戮、破壊→そして決定的証拠などやはりない」というイラク戦争の流れと完全に一致するわけです。

 となれば、この映画にとって大事なリアルとは、疑似ドキュメンタリーという表層の部分にはない。大事なのはこの筋書き自体がイラク戦争をなぞっていることであって、デ・パルマはレイプ事件を描いたと見せつつ、イラク戦争そのものを描いたと見るべきなのでしょう。だから、「現実に基づいている」一方で、「全てフィクション」と言っているのもわかります。この映画自体は確かに「現実に基づいている」。「全てフィクション」とあえて言わなくてもいいことを言うのは、「描かれる出来事自体に拘泥するな」=「小さな事件として矮小化するな」ということなのです。独りよがりかもわかりませんが、この解釈には個人的に自信があります。

 ラストシーンはというと、もろに、宇多丸いうところの「エモい」音楽とともに実際の被害者の写真を流しており、最後の最後に、今度は創作した部分の死体を映します。あの構成についても考えたいところではあるのですが、いい加減長くなって疲れてきました。映画全体を通じて言うと、うーん、うーん、というところです。やりたいことは個人的に解釈できるんだけど、これをして強く何か打ちのめされるということはないなあ、という感じです。たとえばこの先、リアルタイムであの戦争を観ていなかった世代に、イラク戦争について知りたいと言われたとして、この映画を薦めるかと言われれば、特に薦めません。「観るなら観てもぜんぜんいいと思うけどね、まあ、そうね」くらいの感じになってしまいました。
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by karasmoker | 2009-07-04 01:23 | 洋画 | Comments(0)
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