深いテーマが配合されている。描ききれてはいないけれど。
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 ずいぶん前に一作目を観たと思っていたのですが、もしかしたら観たつもりでいただけで初見だったかもしれません。二作目、三作目は観ていないし、そんなに惹かれずにいました。監督の二人は現在、性転換手術をしているので「姉妹」と書くべきかもしれませんが、公開当時はまだ男性名で活動していたので、「兄弟」と書いておきます。

 さて、昨今いよいよ市場に花開くVR=仮想現実ですが、その種のテーマの代表作といえる作品ですね。この現実は本当に現実だろうか、というのはそれこそ古代中国の胡蝶の夢、邯鄲の夢などで言及されてきた哲学的な主題。現実を疑う作品として思い出したのはフィリップ・K・ディックの『追憶売ります』、それを原作とする『トータルリコール』。このテーマって、言ってみればあらゆる題材の中で、いちばん大きな枠組みの問いですよね。歴史を改変する大事件とか、宇宙を巻き込む大戦争とかよりもはるかに大きい。「ここに存在する自分自身」というものを突き崩す話ですから。

 この手の話には答えがないのですが、自分の実存がふと遊離するような感覚というのは、稀に訪れるものです。あれ? 自分はなぜこの自分なのだろう? 自分の名前で自分は呼ばれるけれども、なんで自分はその名前で呼ばれるのだろう? 自分は今ここにこうしているけれども、ここにいない選択肢もあったんじゃないか? 
 小沢健二が『流動体について』で歌っていたように、「並行する世界の僕は、どこら辺で暮らしてるのかな?」と思う瞬間があったりわけです。あり得ないと知りつつも、街のどこかで別の生き方を選んだ自分に会うこともあるんじゃないか? なんて空想してみたり。

 もっとも、劇中ではそこら辺をそんなに深くは踏み込まず、あくまでアクション映画のストーリーテリング。その点に物足りなさを感じた部分もありますが、この作品はもうひとつ、ふたつのテーマも含みこんでいるので、重層的なつくりと言えるかもしれません。

主人公のキアヌ・リーブスは「現実とされる世界」において、トーマス・アンダーソンとして暮らしています。「本当の現実」ではネオと呼ばれます。「現実とされる世界」は普通の世界なのですが、「本当の現実」ははるか未来、荒廃しきって機械が支配する世界。今までは機械のつくった現実の中を生きていたというわけで、そこから「目覚めた」ことで大冒険に出るはめになるのです。

 観ながらわかったもうひとつのテーマは、『失楽園』です。イギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『失楽園』は近年ならあの『ダークナイト』に通底するモチーフで、日本のアニメ映画ではそのまま『楽園追放』なんてのもありました。
 要するに、「天国で奴隷でいることを選ぶか? たとえ地獄行きでも自由を得るか?」という問題です。「自由」というのを「尊厳」に置き換えると、また別のテーマになります。「組織に従っていれば生活は保障されるけれど、組織の不正を知った以上は戦わなくちゃならない」なんてテーマなら、『セルピコ』とか『フィクサー』あたりが思い出深い。「たとえ賢明でなくても、自分はこの瞬間を戦わねばならない」という話なら、何よりも『ロンゲスト・ヤード』が思い出される。

 本作で言うと、機械の作り出す世界にいたほうが、幸せっちゃ幸せなんです。現実は悲惨きわまるものだし、だからこそ一人の登場人物は中盤、主人公たちを裏切って、仮想世界でいい思いをしようとする。劇中では悪役的に描かれているけれど、あれはあれで十分に取り得る選択ですよね。過酷な現実を生きるなら、支配されても幸せを選ぶというのは、この社会でぼくたち自身が選んでいる生き方でもあるでしょう。本作はハリウッドのアクション映画ですから、そこを掘り下げられなかったんでしょうけれど、あの裏切り者も描き方次第では別に、悪人ではないんです。

 映画の性質上はしょうがないのですが、そこに食い足りなさを感じたのはあります。キアヌ・リーブスは独り身で、ぜんぜん冴えない生活を送っている設定ですが、もしもあれが幸せな家庭を築いているマイホームパパだったらどうか? その幸せな家庭を捨ててまで、あの過酷な現実を生きる価値はあるのか? そういう問いに直結しますよね。まあそれをやっちゃうと観客の共感を得がたくなるので、できなかったのでしょう。でもぼくが観たいのはそっちの葛藤でした、本当を言うとね。

だから見方を変えると、本作の主人公たちって危ない人たちなんです。いわゆる「目覚めちゃった人たち」なので、新興宗教、新左翼的なにおいがしてくる部分もある。「この世界は間違っているのだ! 自分たちが世界を導くのだ!」的な人たちとも言えます。そうならないように、エージェント・スミス側の悪意を設定してはいるのですが、考えてみるとけっこうぎりぎりですね。

 映画の主人公は一応、観客の共感を得るように設定されるのが常道だし、ハリウッドのアクションものなら余計にそうだと思うんですが、この映画はいろんなものをどうにかこうにか固めたうえで、ようやっと共感に足る主人公にしている。キアヌ・リーブスに対して、無邪気に頑張れと言える人は、実はこの映画をちゃんとわかってはいないでしょう。だって、もしかしたらあの船に乗っている人たちのほうが、仮想現実側なのかもしれません。現実を疑う構造であれば、彼らこそが世界を崩壊させようとしている悪魔団の可能性も、完全には排除できない。うん、この手の映画では原理的に、キアヌ・リーブスを絶対善にはできないわけです。そう考えると深みが出てきますね。

 あと、描かれた大きな問題として、『ゼイリブ』問題があります。ジョン・カーペンター監督の映画で、本作にも影響を与えたそうです。あの映画では、異星人が普通の人間として入り込み、人間になりすまして世界を営んでいるんです。悪の陰謀が隠されてはいるんですけど、一応それで表向き、世界は成立している。あの映画のラスト、主人公の活躍で宇宙人の正体が暴かれ、なりすました姿からもとの醜悪な宇宙人に戻るシーンがあるんですけど、それを観てぼくははっとしたんです。悪の陰謀を暴いたとして、責任取れるのか? というね。

 この世界には確かにいろんな悪がある。不正義や不公正さがある。もしもなくせるならそれに越したことはない。けれども、その悪や不正義や不公正さのうえに今の社会はあるわけで、もしもそれらを取り除いたら、社会は混沌としてしまうのではないか? その場合の責任を取れるのか? なんてことも、ちょっと考えるんです。保守と革新の政治的テーマにも通じます。本作でも、一応はあの機械の世界で幸せに暮らしている人もいるはずで、主人公たちがその秩序を乱す側という見方も、成立しはするんです。永久に騙してくれるならそのほうがいいってこともありますからね。真実を暴かないほうが幸せってこともある。この辺の問いはロバート・レッドフォードの『クイズショウ』でも考えたことです。

 映画の中身から離れすぎている感もありますが、作品それ自体の面白みは、特段痺れるものでもなかったです。本作が後世に与えた影響もあるでしょうけれど、今観ればちょっとアレだな、という部分もなきにしもあらず。いちばん引っかかったのは、ネオが銃弾で撃たれまくって一度は死んだのに、「救世主である」というその一点をもって復活してしまうところです。なんじゃそら。現実現実言っておいて、その肝心な部分はぜんぜん現実的じゃないんかい、とつっこみたくなる。ヒロインの「あなたは救世主よ」的な囁きで復活するなら、今まで何を見せられていたのか。そうなるとこの映画で言う現実なるものが疑わしくなるし、あれはアリなのか。チートキャラがちと過ぎやしないか。続編で明かされるのでしょうけれど、この作品を観る限りはそうとしか言えない。ところで、「目覚めちゃった人」たるネオによって、ビルの警備員さんはかなり殺されているのだけれど、彼らに何の罪があったというのか。

 そう観ていくと、主人公=新左翼・新宗教系テロリストのにおいはどうしても残る。預言者に出会うくだりもただ「預言者に会う」というだけのために行動しているので、映画の流れがくたっとして感じられました。

と、文句を言いたい部分もあるのですが、深いテーマをあれこれと含みこんでいる映画であるのは間違いないわけで、映画そのものよりもむしろ、映画を観ながら感じたこと、ふと考えたことを楽しむほうが、多少はオトナな見方と言えるかもしれません。まあ、そんなところで。


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 ふと思いついた疑問の答えが、なかなか出なくて困っています。
 
 最近はAV問題について頭巡らすことが多くなっているのですが、そこに児童ポルノの問題も絡んできたりして、少しややこしさを感じたりもしています。

 ぼくは「表現の自由」を重んずる立場です。
 他者の人権を害しない範囲で、表現は許されるべきと思う。それゆえ児童ポルノについても、たとえば18歳以上の女優が演ずる小中学生のAVがあってもいいと思うし、「非実在青少年」をレイプする漫画があっても、その存在は許容されるべきだと思う(褒められたものかどうかは別として)。後の話を円滑に進めるため、それらをひとまず、「虚構的児童ポルノ」と呼ぶことにします。一方、マイノリティに対するヘイトスピーチ(ヘイトクライム)については、その属性を持つ人々の生活を脅かすものとして、反対の立場です。朝鮮人死ねとか、中国人帰れとか、そういう表現はなくすべきであるとぼくは思うのです。

さしあたり、4つの立場に分類すると、
①虚構的児童ポルノも、マイノリティへのヘイトスピーチもOK
②虚構的児童ポルノはOK。マイノリティへのヘイトスピーチはNG
③虚構的児童ポルノはNG。マイノリティへのヘイトスピーチはOK
④虚構的児童ポルノもマイノリティへのヘイトスピーチもNG

Q1.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?


 ①は表現の自由の原理的肯定派。④は積極的表現規制派。
ぼくは②の立場です。③という人がどういう人かはある意味で興味があります。
②の立場の人というのはそれなりに多いのではないかと、勝手な印象を抱いています。
そしてこの文章は、①と②の人に向けて書いています。

 はて、とここで立ち止まる。 

では、次のようなAVや漫画があったらどう反応するか。

A.「在日朝鮮女を集団レイプ!」   B.「身体障害者を拷問陵辱!」

 正直に言えば、そんなタイトルの作品を目にしたら、ぼくは大いに顔をしかめ、眉をひそめ、唾を吐きたくなるし、あってほしくないと思う。さて、上で①や②を選んだ人は、ここでどう反応するのでしょうか? もちろんそれは、あくまで「虚構的」なもの。本当にそういう人々ではないと仮定します。

 ここで、立場を整理します。虚構的児童ポルノをOKとした人に尋ねます。

①AもBもOK
②AはOK。BはNG
③AはNG。BはOK
④AもBもNG

Q2.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?

 ①を選んだ人に訊くことはありません。徹底した表現の自由肯定論者でしょう。②や③の人はなぜそこに線を引くのか、興味があります。ぼくは④です。

 さて、ぼくはここで困ってしまう。
「レイプ表現や虚構的児童ポルノを許容しつつ、民族的マイノリティや障害者を対象とするポルノを許容しない」という立場は、何か正当な理屈を持ちうるのだろうか?

 当然、そこに絡んでくるのは差別という問題。マイノリティや障害者は、社会的に差別されやすい人々です。彼らを対象とするのはよくない、という意見がまずはある。

 でも、ぼくが例としてあげた架空の作品は、差別を煽動する内容ではない。あくまでもポルノです。「日本人の成人女性をレイプする作品」はよくて、「在日朝鮮女をレイプする作品」は駄目なのか。なぜそう言えるのか(「朝鮮女」の表現が気に入らないなら、「韓国人女性」でも結構です)。「実際のレイプを誘発しかねない!」という意見であれば、レイプAVや虚構的児童ポルノにだって当てはまってしまい、表現規制派と同じ。

 幼女のレイプはよくてAやBは駄目だというのは、どうしても弁護が難しいような気がしてしまうのです。幼女も民族的マイノリティも社会的、生得的少数派だし、幼女も障害者も庇護を必要とする人々です。虚構的児童ポルノをよしとしたうえで、ぼくたちはQ2の④という立場を果たして取りうるだろうか? ①の立場以外で、表現の自由を語りうるのか?

 もう少し掘り下げます。
 レイプではなく、そのものずばり殺人だったらどうなのか? 
 現実の世の中でも、小学校や施設に押し入り、虐殺する事件が過去に起きている。
 
 思考実験として考えてみてください。

A.「女子小学生をレイプ!」 B.「女子小学生を殺害!」
C.「在日韓国人を殺害!」  D.「障害者を殺害!」

 もちろん、すべて架空の設定の作品です。
 さて、Aだけを許すという理屈は成り立つか?
レイプと殺人に、軽重をつけて語っていいのか? BとCとDに差異はあるか?

 さまざまな問いを投げてきたのですが、ぼくには明確な答えが出せずにいます。
 あるいはぼくがここで述べたことは、既に表現の自由/規制論議で語られ尽くしているのかもしれませんが、AV問題を契機にあらためて考えてしまったのです。

 HRN的な、「エロいものは全部駄目だ!」な人たちには必要のない問いでしょう(個人的には、反応頂かなくて結構です)。かたや、ヘイトも含めたあらゆる表現を許容する人たちにも必要ないでしょう(この問いについて悩むまでもないでしょうから)。

 ぼくがお相手したいのは、そのどちらでもない人たち。
 表現の自由を重んじるからこそ、その内省を求められる人たち。

 さて皆さんは、表現の自由というものにどう向き合うのでしょう?
 とりわけ訊きたいのは、Q1で②を選び、Q2で④を選ぶ立場について。果たしてそんな立場は成立するかということ。

この仮定はまったくあり得ないものだとぼくには思えない。もしも虚構的児童ポルノを許容するなら、それ以外の作品群も出てきかねない(もしかしたら既に流通しているかもしれない)。その状況がもしやってきたら、どういう構えをとる? 一時期流行ったサンデル教授じゃないですが、この問いは多分に社会哲学的なもののように、ぼくは勝手に思うわけであります。

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 伊藤和子弁護士率いるHRNがこの半年ほど、AV規制にまつわる活動を活発化させています。その報告書にはDMMの名前も挙げられ、我が愛する恵比寿★マスカッツとも決して無縁ではありません。既に多くの方々がHRNの問題点を指摘していますが、あらためて今回、「HRNには人権を守る気などさらさらない」ことがはっきりしたように思います。一般に示された報告書には数多くの問題があるのですが、すべてに触れるのはどうにも難儀であります。端的な事例をもとに、「HRNには人権を守る気がない」ことを指摘したいと思います。

 前提として申し上げますが、かねてより彼らが問題視するAV強要、そして児童ポルノというものは、それ自体許されるべきものではありません。ゆえに、彼らが本当にAV強要被害をなくしたいと考え、真摯に児童ポルノ問題に取り組む団体であるのならば、僕はその活動を応援したいと思います。被害者の人権は守られるべきものに相違ありません。ところが実際、彼らのなしていることはまるで真実性を帯びず、真摯に人権問題に取り組むものとは到底言えない。そのことを述べていこうと思います。ありていに言えば、HRNは人権の敵と言わざるを得ない状況です

 9月5日付で発表された報告書では、「児童ポルノ」についての問題を取り上げています。児童ポルノとは簡単にいって「18歳未満の少年少女を被写体とする、性的要素を含んだ事物」のことを差します。ところで、それが18歳未満を連想させつつ、実際は18歳以上の出演者である場合はどうなのでしょう。あるいはそれが漫画の場合はどうなのでしょう。この点においては議論の余地を残すところかもしれませんが、HRNはそうしたものも広義の児童ポルノに含めようとしているようです。オーケー。わかった。だったら、その目線でとりあえずは考えてみましょう。HRNの目線に立ったうえで、HRNの問題点を指摘しましょう。

 さて、9月5日付で発表された報告書においては、HRNは複数のAV作品を取り上げ、「児童ポルノの疑いがある」ものとして示しています。その作品はタイトルに「小学生」などと銘打ったものであり、なるほど字義通りに受け取れば、悪辣な児童ポルノということになります。実際は成年の出演者であっても、「小学生」であることを強調するのは、もしかしたら問題のあることかもしれません。オーケー。HRNの言うとおり。仮にそうだとしましょう。

 その点を加味しても、この報告書には、非常に大きな問題があります
 一般向けの報告書は伏せ字になっているものもありますが、十分に作品名を特定できるものも複数掲載されています。ちょっと検索すれば、数秒のうちにどの作品を差しているのかわかってしまいます。
 そういえばHRNは今年に入ってから、AV強要について盛んに主張していました。強要被害を受けた女性に寄り添い、その個人名も作品名も公表しない方針を貫いていたはずです。それがなぜここにきて、すぐに作品名がわかるような報告書を出したのか。
 
 その作品に出演した女優が、強要被害を受けた可能性はないのでしょうか。HRNが本当に強要問題に真摯に取り組んでいるのなら、真っ先にそのことに配慮を向けるはずです。そして強要被害を受けていたと判明したら、作品の名前は出すべきではない。少なくともHRNは、そのような方針でいたはずです。

この一点を取ってみても、彼らは強要被害について真剣に考えてなどいないのが、はっきりしています。また、もしも本当に児童ポルノであるならば余計に問題であり、彼らは18歳未満の出演者を特定できるような報告書を仕上げたことになります。
 
 いや、待てよ。そうか。なるほど。

 HRNはきっと、当該作品の出演者に関して年齢などの調査を細かく行い、強要被害もないと断定したうえで、報告書に作品名を挙げたのでしょう。そうでないと、ことの筋目が通りません。あの大変高名で聡明なHRNが、いい加減な団体だということになります。まさかそんなはずはない。

 ところが。

 実際はその形跡がまるで見られないどころか、むしろ報告書において、出演者への聞き取りなどなんらしていないことが明らかになっています。ある作品については成年の女優であることが判明していますが(ド素人が一分もかからずに確かめられます)、HRNは実在も不確かな小児科医の診断として、「小学校高学年の可能性もある」などと表記しています。

 と、いうことは。

 HRNは作品名を特定可能な形で表記しつつ、出演者の情報も特定できていない

 と、いうことは。

 その女優が「強要被害者であった場合の二次被害」の可能性も考慮せず、「仮に18歳未満であった場合の二次被害」も考慮せず、そのうえで出演者を特定できる形で、報告書を出したことになります。人権被害に加担する可能性があるわけです。

 だとすると、きわめて残念な結論が導かれる。
 HRNはAV強要問題にも児童ポルノ問題にも、真剣に取り組む気がないということです。人権を守る気がないのです。そのくせいっちょまえに、「児童の権利を考えて」などと言い、「出演者の二次被害、法令違反を防止するため」、出演者の情報を非開示にする、などと言っている。というかそもそも、本当にその気があるならば作品名を出すべきではない。AV強要についても、彼らには被害者を救う気がないというのは、以前の記事で述べたとおりです。

 こういういい加減な団体があると、本当に真面目に活動している人権団体にとっても有害でありましょう。だからこそ、HRNは人権の敵なのです。まるで、差別が目的のくせに愛国を標榜するどこかの保守団体のように。

この手の連中がいちばんたちが悪いと、個人的には思います。本音は別のところにあるくせに、さも立派な大義名分を掲げて活動し、いかにもそれらしく振る舞う。しかし根底のところで真摯ではないから、いたずらにそうした主張自体のイメージを毀損し、本気でその問題を考えている人々の邪魔になる

 なぜ堂々と言わないのか。
 ポルノが嫌いだ、ポルノを規制しろと堂々と言えばいい。ハードなポルノは嫌いだから規制しろと言えばいい。成年であっても漫画であっても、児童を連想させる表現は全部駄目だと言いたいなら言えばいい。表現の自由を縮めたいと、堂々と言えばいい。

 ついでにレイシストもそうだ。愛国とか保守とかそんな笠を着なくても、差別が目的なら堂々とそう言えばいい。自分が本当に真剣に心から差別をしたいなら、その態度を表明すればいい。それでどんなに批判されても、自分が正しいと信じるならその道を行けばいい。

 おわかりか。

 彼らは自分自身の主張に対してさえ、真摯ではない。
 彼らは自分自身の欲望に対してさえ、真摯ではない。

 HRNは、一刻も早くあのいい加減な報告書を取り下げるべきです。人権問題にとって邪魔です。HRNは「いいかげんな団体が人権問題の邪魔をしている」ことについて、真剣に取り組むべきです。

 DMMもDMMだし、IPPAもIPPAです。ひとまず引くのはいいとしても、相手はいいかげんな主張で突っかかってきただけなのだから、ちゃんと毅然と対応してほしいものです。

 まだまだ問題点は多いのですが、全部書くのはあまりにも難儀なので、この辺で。

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『シン・ゴジラ』がどうしてぴんと来なかったのか、について、前の記事で思うところを述べました。言ってしまえば、「てめえの問題だろ」ということなのですが、それで終わるのもいささか詮ないように思いまして、こちらではもう少し映画のほうを向いてみたいと思います。自分は本作を楽しめたぞ! という方に、教えを請いたい気持ちがあります。

 どうしてぴんと来なかったのか、なのですが、考えてみて思い当たる節がもうひとつありました。「否応なく心を鷲づかみにされるような表現」というのを、ぼくはどうも感知できなかったのですね。

 本作は「饒舌にしてきわめて情報量の多い会議シーン」と、「ゴジラの破壊描写シーン」とが、映画全体を構成する大きな柱になっていると見受けました。その中で皆様は、どういうところに心を鷲づかみにされたのだろう、と感じたのです。

 一度ですべてを飲み込むのが困難なほどの情報量。会話のスピード。会議のシーンではびっくりさせられ、圧倒させられたのですが、会話劇の快楽というのをぼくはあまり感じられなかったというか、「情報の速射砲だなあ、思い切ったことをするなあ」と「感心」はしたものの、「感動」を覚えなかったんです。 

 観ながら連想したのは、増村保造の『巨人と玩具』。あの会話劇の早さにかつてのぼくは圧倒させられたし、そのテンポの良さとやりとり自体の快楽に魅せられた。あのときは感動を覚えたものでした。『シン・ゴジラ』の場合はむしろ、「一回で全部聞き取らせてなんかやんないぞ」とばかり、ある意味でリーダビリティを下げている。「観客に追いつかせてやんないぞ」とばかり、ハイスピードの会話劇で圧倒しようとしているように思えた。それはそれで結構だし、その手があったかと「感心」はした。でも、「感動」的なつくりとはどうしても思えなかった。被弾覚悟で申すなら、「それで鷲づかみにしようってのは、安易っちゃ安易な手法じゃないか?」とも感じたのです。

一方、ゴジラの破壊描写シーン。こちらも本当によくできていたと思うし、ゴジラが成長する過程にしても電車の使い方にしても、その手があったかと「感心」させられました。東京の街をさんざんに破壊し尽くすシーンにしても、『巨神兵、東京に現る』の完成形といった風で、世界に通ずる表現であったろうと思います。

 ですが、こちらもまた「否応なく鷲づかみにされる」ようなものを感得できなかった。
 じゃあおまえが鷲づかみにされたものを言ってみろ、と言われるなら、今年の映画でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』がそうでした。大泉洋演じる主人公の恋人、片瀬那奈がゾンビに変異するシーンがあるのですが、あそこでもうぼくは持って行かれた。今までの海外ゾンビものにもなかなか観られなかったような変異の仕方、見せ方で、主人公の命がすれすれの状況に置かれる映画的快楽含め、完全にやられた。なおかつ、そのシーンのあとに連なる東京のパニック描写、タクシーに乗って街を逃げ出すまでのシークエンス。ああ、もうこの映画に抱かれてもいいや、とあのくだりで確かに感じられたのです。こんなのは観たことがない、と素直に思えたんです。

『シン・ゴジラ』において、すごいすごいとたくさんの話は聞こえてくるわけですが、皆さんはどの辺でエレクトしたんでしょうか。批判というのではなくて、素朴に教えてほしいなあということです。喧嘩をする気はまるでありません。自分はこの描写に鷲づかみにされちゃったよ! というのを教えてほしいのです。変な言い方ですが、どの段階で「この映画に抱かれてもいい」と思えたのか。その点についてぜひ知りたい。ぼくはどんな答えが来ても、「なるほどなあ」と言わせてもらいたいと思います(議論目当ての方は求めていません)。


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映画は観るタイミングが大事。今のぼくは本作を求めていなかった。
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 TLを観ても大絶賛、どいつもこいつも大絶賛。完全に今年の大フィーバー映画となった作品ゆえ、ひとまずは観ておかねばと思い、映画館に参じました。正直、ゴジラ感度はもともと低い人間なのですが、面白いものにはやはり触れておくべきであろうという義務感に押され、観に行った次第であります。

先にひとつ申しておきます。自分で書いておいてなんですが、この記事はおよそ映画評の体をなしてはおりません。作品の批評を読みたいなと思う方は、時間の無駄になりますので、速やかに別サイトへと飛んでくださいませ。

さて、『シン・ゴジラ』です。
 ひときわ高い情報密度と、これまたたいへん密度の高い特撮シーン。この組み合わせが熱狂的なムーブメントを引き起こしているのでありましょう。とかくエンターテインメントでは「わかりやすさ」が求められ、「感情移入できる脚本作り」が求められる。本作はその裏をかくかのようにどちらの要素も捨て去り、政治的判断や軍事的考証のリアリティを求めている。そのことが好事家の心を捉え、情報的な読み解きの快楽を与え、オタク的快楽を存分に満たしてくれる作品たらしめているのでしょう。こういう作品をつくるというのは並大抵の情熱ではないはずであり、その点はただただ敬服の限りであります。

 さて、そうは言いつつ、ぼくが鑑賞中に感じたことというのは別にありまして、実のところぼくは何度も、「帰ろうかなあ」と思ってしまったのであります。端的に言って、映画にのめり込むことができなかったのであります(批評的なものを読みたい人は本当に引き返してください)。
 
 しかしそれはまったくもって、映画の出来を起因とするものではありません。上に述べましたように、作品自体は実にあっぱれな傑作であったろうと思います。入り込めなかったのは一方的に、ぼくの問題なのです。

 話は逸れるのですが、かつてぼくは園子温の『愛のむきだし』を観たときに大興奮を覚えました。いろんな人の批評を観たり聴いたりする中で、印象的な評価をする人がいました。それはあの伊集院光さんでして、彼は『愛のむきだし』について、「今の自分はこの映画を求めていない」と仰ったのです。そのときはぴんと来ずにいたものですが、『シン・ゴジラ』を観ている間、ぼくが感じたことはまさにそれでした。ぼくは今、この映画を求めていない。

いやあ、精神的なタイミング、興味のタイミングが悪かったということです。別の折りに観ていれば、もっと楽しめたかもしれないと後悔しています。すごい作品だと頭ではわかっているのに、気持ちの部分でちっともエレクトできなかったのですね。それでもよっぽどしごかれれば勃起するのではないかと思って観に行ったものの、結局ふにゃちんで帰ってきてしまった。

 どういうところでそう感じたのかと言えば、この映画が持つリアリティによるのです。大杉漣演ずる総理をはじめ、政治家や官僚たちがリアリティ溢れる議論をしている。その様を観るにつけぼくの意識は映画を離れ、まさにリアルな方面へと逸脱してしまった。平たく言えば、現実社会の問題のほうに思いを馳せてしまった。

 劇中では日本の防衛ということについて盛んなやりとりが交わされる。アメリカとの交渉の過程が描かれる。ゴジラが虚構の東京を壊し続ける。その様子によってぼくの意識はたとえば、沖縄の高江のほうに飛んでしまった。

 現実では国土防衛の名の下に、アメリカ軍のヘリパッド建設工事が進められ、地元の人々の生活が脅かされるような状況が生まれている。虚構の防衛省が勇ましい判断を下す一方で、現実の沖縄防衛局は警察との協力のもと、反対派の住民たちと軋轢を起こしている。
「現実対虚構」? 悲しいよ。虚構の圧勝だ。現実の問題に国民の関心は向かず、みんなは虚構の怪物相手にわっしょいわっしょいだ。
 
怪物。モンスター。たとえばこの作品が公開される数日前、相模原の障害者施設では実に痛ましい事件が起きた。戦後最悪とも言われる、個人による直接的な殺傷事件だ。現実は現実にそういうモンスターを生みだしてしまった。にもかかわらず、みんなが向いてるのは虚構のモンスターのほうだ。ポケモンとゴジラが、現実のモンスターを覆い隠してしまった。「現実対虚構」? 悲しいよ。ここでも虚構の圧勝だ。

 そのような形で、『シン・ゴジラ』がリアルであればあるほどにぼくは、現実のほうへと引っ張られてしまったのです。リアルであればあるほどに、本作が映画という虚構であることに、距離感を抱いてしまったのです。

 そうなってしまうと楽しめるものも楽しめなくなって、たとえば石原さとみが出てきた瞬間にぼくは思わず小声で「だっさ」と呟いてしまった。CMの女王たる石原さとみでありますが、CMの女王であるがゆえにCM臭がつきすぎてしまったんじゃないかと思われ、個人的な嗅覚センサーに引っかかり続けました。個人的に彼女からはCMのにおいしかしてこないのです。そうであるがゆえに、演技や英語のいかんを問う以前に、このたいへんよくできた映画世界と不調和な感じがして、存在感がださく思えたのであります。
 石原さとみをディスっていると思われたらそれはちょっと違います。ぼくがCMの広告主なら、あるいは広告代理店マンなら、彼女を大いに起用したく思うでしょう。とても美人だし、お金になる人だと思います。ただ、その分だけ……という話です。あくまでぼくの受け止め方のお話なので、彼女のファンの人は噛みつかないでください。

 話ついでにもうひとつ言うと主演の長谷川博己は、本作の特技監督でもある樋口真嗣の『進撃の巨人』のとき、取り返しのつかないくらいださい演技をさせられてしまっており、あの印象がちらついてしまいました。なんで『進撃』メンバーをぼこぼこ使うのだ、と思ってしまいました。

 ことほどさように、完全に手前勝手な受け止め方のもろもろによって、ぼくは本作の良い観客にはなれなかったのであります。一言で言うと、「ああ、もったいないことをしてしまった。もっと前向きな気分のときに観ればよかった」という感を禁じ得ないのであります。映画は観るタイミングが実に大事であると、あらためて思い知らされた映画鑑賞体験でございました。

 …………と、ここまで書いて、あとになってから気になることがでてきました。
 この次の記事で、ちょっと書いておこうと思います。

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公党は公党たるに足る、明確なメッセージを出してください。
 相模原の障害者施設における殺傷事件。この件については個人的な事情もあって、強い憤りと悲しみを感じています(ぼく個人は、被害に遭われた方々の関係者というわけではありません)。

 謹んで、ご冥福をお祈りします。

今回の事件は、明らかに障害者だけを狙った犯行です。犯人の精神状態がどのようなものであるかはわかりませんが、彼らが標的となったことは明白です(ところで、「障害」を「障がい」と記すべきという主張もありましょうが、ここでは漢字表記とします)。

 その意味において、本件は明確なヘイトクライムです。無差別なものではなく、特定の性質を持った人々を狙っている事件としては、戦後最悪のものであろうと思われます。

 にもかかわらず、とぼくは思ってしまうのです。

にもかかわらず、政府ならびに公党各位の反応が鈍い。そのように感じてしまうのは、ぼくだけでしょうか。この事件は無差別なものではない。特定の人々に対する犯罪です。それは個人的な人間関係や利害に基づく殺人とは別種のものです。近代社会が築いてきた「障害者福祉」という理念をも傷つけるものであり、政治家の方々にはより強い批難のメッセージを放ってほしいと、ぼくは思うのです。普段から、道徳や秩序を大切にしようと仰っている方には特に。そして普段から、弱者の権利を大事にと謳っている方には特に。

 むろん、政治家の方々個人はSNS等々で、本件に言及されていると思います。しかし、そこは個人としてでなく公党として、あるいは政府としてメッセージを打ち出してほしい。

 我が国(我が党)はヘイトクライムを許さない。
 障害者の人々を標的にするような犯罪を、我が国(我が党)は断じて許さない。

 そう明言してほしい。この記事を書いている現在、ネット上には発見することができません(もしあれば、教えてもらえるとありがたいです)。知的障害者の人とご家族の方の「全国手をつなぐ育成会連合会」の声明のようなものを、公党には出してほしい。

 政治的テロが起きた場合、政府は速やかにそのような声明を打ち出すじゃないですか。「テロには屈しない」「テロを許さない」「断固としてテロと戦う」 
なぜその勇ましさを、今回は発揮してくれないのか。
 国として、政府として、党としてそのメッセージがあるだけで、わずかでも安心できる人々がいるとぼくは思うのです。ところが今、テレビや新聞を賑わせるのはむしろ、あの犯罪者の呪いの言葉のほう。なぜどの党も、正面からあの呪いを打ち消そうとしないのか。ぼくにはそのことが、輪を掛けて悲しいのです。

 世間では間もなく、ゴジラの映画が封切りとなります。新しい都知事も決まります。ポケモンだって、まだまだユーザーと評判を広げていくでしょう。そうなればまた、世間の注目はそちらに移ってしまうことでしょう。その前に、政府や各党はこの件をもっと大きく取り上げてほしいとぼくは思う。それがたとえ集票狙い、選挙目当てだってかまわない。
 あの呪いを打ち消すメッセージを、もっと放てよ。


       ********************
 
ついでになりますが、この事件に関連して気になるブログの記事を見つけたので、ちょっと話しておきたいと思います(政党の方に向けてのものではありません、あえてリンクも貼りません)。
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 殺人事件というのはドラマや映画なんかで見る限りは刺激的だし、実際に起こった猟奇的な事件なんかにしても、ぼくもまた好奇の目で見つめてしまうことがたまにあります。その被害者のことなんか考えずに、事件の特異性に目を奪われてしまうことはあるし、きっとこれからもあると思います。

 けれど、この事件についてはまだ起こったばかりであり、今もなお重傷を負って苦しんでいる人がいるわけです。あくまで、可能性として、さらなる犠牲が出るかもしれないのです。

それをよ。

 早々とランキングとかにしてんじゃねーぞ。

 第何位とか、数字にしてんじゃねーぞ。

 もしも、今も重傷で苦しんでる人がこのあと死んだりしたら、その犠牲者の数字を書き換えるのかよ。ランキングの順位いじるのかよ。どんな顔してキーボード叩くんだてめえは。おっと、一人増えたのか、書き換え書き換え、とかやるのかよてめえは。

どんなに映画に詳しいか知らねえが、どんなに文学に詳しいか知らねえが、それは今、やるべきことなのかよ? 今、やらなくちゃいけないのかよ? 一ヶ月後じゃ駄目なのかよ? だったらその旨も書き添えてくれないか。ぼくには意図も意味がわからないからさ。
どれくらい深刻なものかをわかりやすくした? それはランキングじゃなきゃ駄目か? それが「男の魂」か?

個人の趣味のことですから、リプを飛ばして突っかかっていく気はありません(反応があればお答えします)。でも、こうして空リプを飛ばすくらいはさせてもらいたいと思います。

ついでと言いながら、つい熱くなってしまいました。

 ヘイトクライムを許さないというメッセージが放たれることを、強く期待します。

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放送に隠されていた問題点
 7月25日放送のNHK「クローズアップ現代+」の特集を、タイミングよくリアルタイムで全編観ました。「AV出演強要被害」の問題についてでした。かなり問題の多い放送だったなあという印象を受け、むかむかし続けているので、ここで吐き出しておこうと思うのであります。

 昨今言われる一連のAVの「強要被害」について、ぼくが認識したのは今年の5月頃。それ以降あちこちでさまざまな見解が語られてきたわけですが、あの問題提起がいみじくもあぶり出した、別の側面があるんですね。「強要被害」が語られることを通して見えてきたのは、社会における「AV業界蔑視」問題。NHKの放送は、完全にそれを描き出していたように見受けます。

 かの放送の内容が、AVへの意図せぬ出演を防止する目的で描かれたものであることは、重々承知しています。ただ、そうであるがゆえに一方的な内容のものであったとも、強く感じるわけであります。

 放送において最も問題があるなあと思った点は、AVあるいはAV業界の良い面が、25分弱の放送の中で、ただの一言さえも触れられなかったところです。いや、今回の放送のテーマは強要被害問題だから、何もAV業界全般について詳しく触れろと言っているわけではない。本来ならまともな業者の取材もするべきだったけど、まあそこは言いません。

 ただ、ただ一言で良かった。

「こういうことがあると、健全に活動している業者も迷惑を受けてしまいますよね」とか、「業界全体のイメージが悪くなってしまいますよね」とか、「こういった悪事はあくまで一部の悪質な業者だけと信じたいんですけど」とか、「自発的に活躍している女優さんもいっぱいいるんですけど」とか、ささやかなフォローがあるだけで、ぼくはぜんぜん違う印象を持ったはずです。っていうか、他の業界のことなら入れるでしょうね、そういうフォローを。
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 でも、その一言すらない。観ている人は、「なんかAV業界って怖いんだね」というイメージを持つだけでしょう。今回の放送で、多くのまともなAV業界人が傷つけられたんじゃないかと僕は思ってしまうし、実際反発している人もツイッター上で見受けました。「ぜんぜん業界蔑視的じゃなかったよ」的に逆張りしてる人とかいるんですが、そういう人は普段からナチュラルに蔑視してるんじゃないかな、と思います。自分の差別意識に、人は気づきにくいものです。


彼女が戦うべき別の相手
 放送では松本圭世という、元テレビ愛知アナウンサーの女性が証言者の一人として登場していました。彼女は騙されてAVに出演してしまい、アナウンサーの職を追われてしまい、今は被害に苦しむ人たちを応援する活動をしているそうです。

 はて、ぼくにはひとつ、たいへん大きな疑問があります。なぜ、彼女は職を追われる羽目になったのでしょうか。構図としては、彼女はまあいわば、レイプされてしまったような格好のわけですね(実際は性的行為を行ってすらいないようですが)。で、そのレイプ被害者の彼女が、レイプにあったということで職を追われたと、そういう話なんでしょう? 確かにそりゃ、レイプ犯はよくないです。ここは強調しておきます。でも、レイプされたからとやめさせられるなら、それもまた大問題でしょう。それじゃまるで、イスラムの姦通罪、名誉殺人じゃないですか。
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 なんでそんなことが起きるかと言えば、AV自体を悪いものだと決めつけているからでしょう。AVに出た人間はアナウンサーでいる資格がない。そのようにして、AV女優を差別しているわけでしょう。そういう捉え方が、彼女を傷つけることになったんじゃないのかとぼくは思うわけです。だから彼女が戦うべきは、そのAV業者と同時に、雇われ先のテレビ局であったはずだし、あの放送に出ていた弁護士さんがもしも本当に人権派だというなら、そんなことでやめさせるなと憤るべきなんです(放送では一切言わなかったね)。

 繰り返します。AVの強要を擁護するつもりはない。でも、放送に出ていた匿名の証言の傷をさらに深くしたのは、AVへの蔑視でもあるんじゃないかと思えてなりません。「レイプまがいの事件に巻き込まれた」辛さのうえに、「AVなんていう醜悪なものに出てしまった」という価値観が乗っているとしたら、後半部分については緩和しうるものだろうと思うのです(くどいようですが、レイプまがいで出されたビデオを放置してよい、と言っているわけではありません)。
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 そうでなければ。

 AV女優はこの先も、ずっと蔑視され続けてしまう。AV強要被害が仮になくなっても、「AVに出たら人生終わり」みたいな価値観が残存していたら、AV女優の人たちは不当な蔑視を受け続けることになる。ぼくにはそれがどうしても許せない。強要被害がなくなれば蔑視はなくなるか? そんな風には思えない。強要被害の実態が出る前から、蔑視はあったじゃないか。だからアナウンサーは辞めさせられたんでしょう?

 いいじゃないか。AVに出ていたって。

 その言葉が、もっと必要だと僕は思うんです。



声優さんの件
 今年の4月には、人気声優さんがAVに出ていた、出ていないという件で話題を集めました。そのときには「AVに出ていたなんてショックだ」という反応が、ネット上で見受けられたと記憶しています。本人は否定しているとのことでしたが、ぼくはそれを聞いて、「ぜんぜんかまわないじゃないか」と思いました。声優が紅白に出るのはよくて、なんでAVに出ちゃいけないんだ? 

 はっきり言って、「AVに出てたなんてショック」と感じるその感じ方自体が、(もし仮に本人だったとして)彼女を傷つけることになると思います。もしもあなたが本当に彼女のファンだというなら、鼻息荒く出演を否定するのではなく、「AVに出ててもぜんぜんいいじゃん」「AV出演なんて、攻めてるじゃん」と鷹揚にかまえればいい。それができないということは、あなたは彼女を、そして何千人のAV女優をも傷つけているということです。差別に加担しているんです。仮に本人の意思に反しての出演ならば、その点には問題があるでしょう。でも、彼女自身の価値はなんら毀損されないということです。

 伊藤和子弁護士、もしあなたが本当にAV強要の被害者を救いたいと、もし本当に思っているなら、今やっていることのある部分は、完全に真逆です。「AV強要被害をなくす」ことはできたとしても、「AV強要被害に遭った」人たちは救われません。なぜなら、AV出演自体を悪いもののように捉えているからです(そうでないというなら、今回の放送でなぜ一言も、AV業界をフォローしなかったのか)。

被害者を本当に救うために
 AVに出た過去は消えないし、たとえ作品の流通を止めても、その人の中には記憶として残り続けるでしょう。その人を本当に救うには、「AVに出たなんて恥辱だわ」という感覚を取り去ってやることです。そのためには、AVに出ることはなんら悪いことではないというメッセージを放つことです。AV蔑視のある限り、その人は永遠に救われません。そんなメッセージは放てないというのならば--断言してもいい--あなたはその人を救う気がないんだ。自分の差別精神と偏狭な価値観が大事だから。

 こういう話をすると、「もし自分の娘が」的な反応も考えられますので、言っておきます。僕に娘はいませんが、仮にいたとして、もしも本人が自分の意思でその道を選ぶというならまったく止めようとは思いません。よく考えろとは言うかもしれませんが、それはどの業界であっても同じだし、本人の生き方次第でしょう。もしも強要されたら? その場合は憤るでしょう。でも、強要されたら別にAVに限らず、何でも怒るんじゃないですか。むりやりコンビニで働かされようが、むりやり会社に内定させられようが、むりやり政治家にさせられようが、強要ということそれ自体に僕は怒るでしょう。強要自体が、人権侵害なのです。職業は関係ありません。
 世間の方々におかれましてはどうか、「出演強要」と「出演自体」を切り分けて捉えてほしいと願います。「出演強要」をした人間には問題があっても、「出演自体」を行った本人には問題がないし、むしろAVは映画にもテレビにもできない魅力的な表現を行っている媒体なのです。ぼくはAVでヌくたびに、女優へのリスペクトを感じてやみません。

「AV出演強要」問題について、もしあなたが部外者なら(ぼくもですが)、解決することはできません。でも、AV蔑視問題については解決しうる。あなたがやめればいいのです。見方を変えるだけなのです。ひいては、(あるいは逆説的に思えるかもしれませんが)被害者を救うことにもなるでしょう。できることを、してほしいと思います。
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 強要によってAV出演させられた、という元AV女優がいるらしく、メーカーやDMMを巻き込んで大ごとになっています。
 事務所社長の逮捕容疑は強要とは別ですが、マスコミでも取り沙汰されているので、無視できる要素ではありません。
 今回の「被害者」とされる女性は、通算400本以上の作品に出演していたと言われています。本人を知る現役AV女優が「本人は楽しんでやっていたし、強要なんて考えられない」と異論を唱え、一方では「楽しんでやっているように見えても、あとで辛くなることもある」と、反論が出たりもしています。

 本記事では、洗脳という言葉を使います。今回の件について、一種の鍵概念たり得ると思うからです。
 用法としては必ずしも正しくないだろうし、過去の彼女が事務所に洗脳されていたのだと言いたいわけでもありません。
 話をわかりやすくするために、使う言葉です。
 と、まず最初に述べておきます。

 AVを離れ、まずは一般論として考えてみます。

 ある洗脳を施された、一人の人間がいるとします。
 さて、悪いのは洗脳した人間か。
 それとも、洗脳を解こうとする人間か。

 もちろん、洗脳した人間が悪いと多くの人は答えるでしょう。
 しかし、果たして本当にそうなのか。
 
 自分の生きるべき道を探し、さまよっていた人間にとって、洗脳は救いの道でもあります。洗脳を施す人間は言うでしょう。
「おまえはこちらの世界を進むべきだ。おまえの人生には別の可能性がある。迷うことなく、こちらの世界に飛び込んでこい」
もし仮にその人間が、そこに活路を見出したなら、洗脳はその人にとっていいことなのです。

 洗脳を解こうとする人間は(およそ必ず)、その道を否定する人間です。
その人はこう言うでしょう。
「おまえの進む道は間違っている。おまえの人生はよくないものだ。だから、今までの人生を否定して、新たな人生を歩め」

 さて、この構図から明らかなように、洗脳する側も洗脳を解く側も、目指すものは同じなのです。自分の世界観に従えと、言っているのです。宗教であれば、その神の教えを信じるか信じないかの問題であり、立場が違うだけなのです。

 では、どちらがその人を幸せにできるのでしょうか。

 森達也がオウム真理教を追った映画『A』『A2』は、観る者にその問いを突きつけます。

 オウムによる凄惨な事件が起こってもなお、教団に残ろうとする人間がいる。
 かたや、教団からの洗脳を解こうと試みる人たちもいる。

 オウムが反社会的組織であった以上、脱洗脳をすべきだとぼくたちは思います。
 しかし、果たしてそれが当人にとって幸せな選択であるかどうか、ぼくたちにはわかりません。これは非常に重要な問題です。

 オウムに一度入信した人にしてみれば、いまさら出られないという思いもあるでしょう。仮に出て行っても、社会では「元オウム信者」として後ろ指を指される。それなら、教団の中にいたほうがいい。そういう風に考えた人間も、いるだろうとぼくは思うのです。

 高橋泉監督の映画『ある朝スウプは』は、また別の問いを突きつけます。

 劇中では、あるカップルの同居生活が描かれます。男のほうは鬱病を患っており、新興宗教に入信しようとします。しかし、女はそれを止めようとする。入ってはいけないと。
 そのとき、男は女に問うのです。
「それなら、おまえはおれを救ってくれるのか?」

 洗脳によって幸福になった人間がいたとして、その洗脳を解くことは正しいのか。
 解いたあと、その人間の人生がいいものになると、果たして約束できるのか。
 解いたあと、洗脳されていた人生への喪失感を、埋め合わせてやることはできるのか。
 洗脳を解くことは、本当に正しい行いと言えるのだろうか。

 その人を幸せにする方法。
 それは、その洗脳状態を続けさせるか。
 あるいは、その人間の人生を肯定しつつ、洗脳を解くか。
 そのどちらかではないでしょうか。

 ぼくが今回の件でまずいなあと思うのは、元AV女優の400本以上にわたる作品を、DMMがおおむね流通停止にしてしまったことです。

 それは、その人間の人生の否定です。
 彼女の人生が肯定されていたら、彼女の足跡は誇るべきものとして、そこに残っていたかもしれない。彼女の作品を消すということは、それが恥ずべき、消すべき過去であると決めてしまったということです。

 多くのAV女優が怒ったり、あるいは違和感を表明したりしているのは、実はそこなのかもしれない。自分たちのやっていることは、消されねばならないことなのかって。

 これは、強要被害をなくすということとは、また別の問題です。
 強要を肯定的に捉えるわけはないし、洗脳する側が正しいというのでもない。
 ぼくが言いたいのは、否定しただけでは救われない、ということです。
 
「AVに出てたなんて過去は知られたくないものだろう。消してほしいと思うのも当然だ」

 もしもそのように考えるなら、その思考はすなわち、AV自体への蔑視です。

「あの人、昔、AVに出ていたらしいよ。ひそひそ」
 
 そのような後ろ指を、肯定する立場です。
 AVという変数に、「映画」「テレビ」「モデル雑誌」「オリンピック」が代入されることは決してない。
 それはAV自体を、悪しきもの/蔑視すべきものと捉えているからです。

 強要されたのかどうか、ぼくにはわからない。
 もしかしたら本当に、強要によって始まっていたのかもしれない。
 でも、それとは違う部分で、考えなくてはならないことがある。
「あなたがAVに出た過去は、決して恥ずべきものではない。むしろ、誇っていい」
 そのように言えないなら、本当の意味で救ったことにならない。
 少なくとも、その作品に出たその人は罪人ではないし、悪徳を犯したわけではない。
 彼女が悪徳を犯したというのなら、また別の洗脳を施したに過ぎない。

「うちのおばあちゃんは昔、映画に出ていたんだよ」
「うちのおばあちゃんは昔、AVに出ていたんだよ」
 その二つが、等価である社会。 
 そのような社会をもたらすことが、本当の意味で彼女を救うことではないのかと、ぼくは思うのです。強要はむろんなくすべきですが、強要がなくなれば事足りるわけではない。
 自発的に出演したあとで、恥ずべき過去だと思い込んでしまう人もいるでしょう。
強要云々だけでは、その人たちは救われない。

 本当に救うためには、映画とAVが等価である社会を目指すべきでしょう。

 そんな社会は来ないって?

 なるほど、だとしたら、彼女は永久に救われない。
 

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風合いある小品。
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 前田敦子主演作。80分尺で規模の小さな世界を描く小品ですが、独特の味わいを放つ作品でありました。

 大学を出ても職に就こうとせず、家業も家事も父親に任せきりの主人公、タマ子の日常が描かれます。舞台は田舎町で、家はスポーツ用品店を営んでいます。父親との二人暮らしですね。

 テーマは明白で、「彼女がどう成長するかですね。
 序盤10分はきわめてだらりとしたトーンでセットアップがなされ、その後に父親との衝突があります。「このままだらだらしていても駄目だ、いつになったらちゃんとするんだ」という父親に対し、「少なくとも、今ではない!」と怒鳴るタマ子。

 しかしこれによって突き動かされ、およそ25分の段階で、新たなことを始めようと、アイドルのオーディションに応募したりします。でも、それが周りに露見すると急に嫌になってしまい、まただらけた状態に戻ってしまいます。短い映画なので、中間地点にどん底を持ってきています

 クライマックスへの糸口は、父の再婚。
 父の再婚話が進むことによって、タマ子自体の前進も促されるつくりです。
 再婚するかもしれない相手に父への思いを打ち明けたり、母親に「東京に来る?」と誘われたり、そうしたことを通して彼女はモラトリアムから脱していくきっかけを掴みます。父に「家を出ろ」と言われたタマ子は、「合格だよ」と答え、新たな人生に歩み出す手がかりを掴むのです。

 山下監督作品では『ばかのハコ船』が一番好きで、『リンダリンダリンダ』も好きです。『天然コケッコー』『どんてん生活』『苦役列車』などでも独特の風合いが生み出されているのですが、それらに比べるとやや威力は弱いかな、という感じはどうしてもありました。作品自体が小規模、ということはあるにせよ、同じような「無様な状態」を描いた作品だと、『ばかのハコ船』が素晴らしく、どうしても思い出してしまいました。前田敦子が持つ綺麗さによって、主人公の無様さが薄まってしまう、ないしは綺麗なものに見えてしまう、というのはあります。この映画はアイドルなどではなく、ブスな女優を起用していれば、よりいっそうもの悲しい風合いが漂い、良い意味での無様さが生まれたのではないか、などと考えてもしまいます。『ばかのハコ船』はその点においてもまた、優れた作品だったのです。ヒロインがブスでしたから。

ばかのハコ船 [DVD]

山本浩司/エースデュースエンタテインメント

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 もっとも、前田敦子はその辺の、可愛いとブスのバランスを良い感じで持っている人でもあるので、キャスティングに文句はありません。

 観終えたときは、モラトリアムを脱する上での通過儀礼的要素がやや弱いかな、という印象を受けました。しかし少し間を置いてみると、独り身である自分の父親を再婚相手に託す、という行いが、一種の通過儀礼として機能しているのだなとわかりました。巣立ちのための儀式として、自分を育ててくれた親の幸福を助けるというのは、物語的にきちんと意味合いを帯びています。「合格だよ」という、一見傲岸不遜な物言いは、彼女なりの照れ隠しの意味があるのであって、このような台詞を置く巧みさには、なるほど敬服を覚える次第であります。

 また、食事シーンが効果的です。食事シーンを随時挟み込むことによって、家庭の様子を凝縮して描き出すという手法。食事というのは動物的な意味合いを帯びており、そこには生活の本質、生きるという営みのありようが浮かび上がります。ゆえにして、独りでもそもそ喰ってるシーン、父親と咀嚼音を立てながら一緒に何かを食べているシーンなどが、そのおりそのおりで違う意味を持って伝わってくるわけです。

 地元に帰ってきた同級生、写真店の中学生と彼のヘルメット、そして彼のカノジョの垢抜けない感じなど、田舎くささも随所で描かれていて、ほどよい風合いでありました。お薦めです。


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ミュージカルも効果的な、上品なラブコメディ。
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 ウディ・アレン、ジュリア・ロバーツ、エドワード・ノートン、ゴールディ・ホーン、ナタリー・ポートマン、ドリュー・バリモア、ティム・ロスといった、錚々たる布陣によるアンサンブル型ラブコメディです。ミュージカル・ラブコメディですね。大家族ものでひとりひとりの物語を要点のみ押さえ、ぽんぽん回していく。テンポのよい快作でありました。

大きな筋となるのは、①ウディ・アレンとジュリア・ロバーツの不倫恋愛、②エドワード・ノートンとドリュー・バリモアによる婚約恋愛、そこにナタリー・ポートマンらによるちょっとした恋物語の顛末や、いかれた元服役囚、ティム・ロスのドタバタ劇などが織り交ぜられます。物語にはほぼ絡まないけれど、家で独りだけ共和党支持で、政治的なことばかり喋っている長男ルーカス・ハースが面白かったですね。脇役の支えもしっかり効いている。

 映画には、話を動かすきっかけのポイント、第一幕と第二幕の転換ポイントなどがありますが、そうした要所にミュージカルシーンをきっちり配置している。この要点を押さえているのは非常に大きい。スムーズな進行のための大きな効果を上げています。ミュージカルというのは、「感情の頂点」を凝縮して表現するときにも有用で、この映画で言えば②にまつわる「恋の実り」の様子を描く際、その効果が顕著です。静かな高級宝石店、病院などの場面で用いることで、感情の高ぶりが劇的に演出されています。

一方、恋愛ものにおいては障害の存在がとても重要です。障害があるからこそ物語に緊張感が生まれるわけで、前半では①がそれを担う。ウディ・アレンはジュリア・ロバーツを口説き落としたい、ここでの苦闘がひとつめ。そしてジュリアには旦那がいる。これがふたつのめの苦難。障害を配置することで、恋の危うさが演出されます。もちろん、ウディ・アレンのコミカルな演技や台詞回しが、面白みを引き立てます。

 いろいろなことがうまく行くのが中間点まで。そこで「凶兆」として出現するのが、犯罪者のティム・ロス。②の恋愛を、坂道へと転がしていく。最終的にはドリューを銀行強盗にまで巻き込んでしまい、一度どん底をつくる。また、ナタリー・ポートマンの失恋、じいちゃんの死など、よからぬ気配が映画に立ちこめていく。

 最終的に、②は関係を取り戻すが、①は破綻してしまう。破綻の救済として、ゴールディ・ホーンとウディ・アレンの関係修復がある。クライマックスで二人のミュージカルが出てくるので、できれば前の段階で、この二人の関係をもっと濃く描くべきであったとは思いました。ゴールディ・ホーンは劇中、冒頭部以外はほとんどウディ・アレンと絡まないため、クライマックスで二人が踊っても、物語的カタルシスは決して大きくない。また、②の恋愛にしても、エドワード・ノートンの努力無しに関係が修復してしまうため、カタルシスが弱い。テンポの良いコメディとしてとても面白かったのですが、①と②の筋に関しては、お話としてのふしぶしを、もう少し固めておくとさらに楽しかっただろうなという感じはします。①のほうは、ジュリア・ロバーツがどうして旦那のもとに戻るのか、言葉で語ってしまうだけなので、その点の説得力が減じてしまっています。

 とはいえ、大家族の賑やかさと、タイプの違う二つの恋愛を、愉快なトーンで描いており、とても楽しい作品でありました。お薦めです。

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脚本術のお手本のような良作です。
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 マーク・ウォールバーグ主演作で、監督の長編デビュー作のようです。テッドの声も監督が務めているんですね。
  
クリスマスプレゼントとして主人公に届けられたテディベア、テッドが喋り出し、主人公が成長してからもずっと友達であり続ける、というコメディ。まず設定の面白さとしては、喋るテディベアが「有名になる」というのがありますね。『E.T.』なんかが一番の代表例ですが、この手の映画だとどうしてもそれを秘密的にするものが多いんじゃないかという印象があるし、そうでなくても『ドラえもん』的に、社会の反応はある程度無視して進められがちだと思うんです。でも、これは大人になった主人公にずっと寄り添い続けるという筋を無理なくつくるために、あえて最初のうちに有名にさせてしまう。社会に受け入れさせてしまう。ここを先にきちんと割り切ったことで、観る側に話を飲み込みやすくしている

 作品のテーマとしては、「主人公の成長」譚です。テッドは子供時代のプレゼント、すなわち子供の象徴でもあるので、ウォールバーグは大人になっても子供っぽさが抜けない。それによる問題を乗り越えることが、この映画の重要な軸となっています。話のセットアップの段階で雷が鳴るんですが、これはその後の展開における「凶兆」となっているし、雷を怖がる子供っぽさを表すという意味でも実に優れたやり方です。

大人になった主人公ウォールバーグには、恋人のミラ・キュニスがいます。彼女はウォールバーグより若く見えますが、一方で大人っぽい強さを持った外見。この辺りも対比が効いています。

 二人はベッドに入っていちゃついているんですが、テッドが雷を恐れて飛び込んできて、良い雰囲気を台無しにしてしまいます。ここは「セックスの延期」であり、すなわち大人になれずにいることを象徴する場面。あとの場面でテッド抜きの性的ないちゃつきの場面が観られますが、ここにも対比がある。全体を通してわかることですが、この映画は非常に綺麗な脚本作りがなされています。脚本としてなすべきことを完全にこなしており、それを演出に絡めて行っている。とても巧みです。

 第一幕から第二幕に移行する転換点は、テッドが家から出て行くところですね。これによって、子供の象徴だったテディから主人公は切り離され、成長への道を歩み出すことになる。独りになったテッドの下品なコメディシーンも効いています。結構えげつない下ネタですから、これはテディベアが出てくるわりに、まったく子供向きではないんですね。テディベアがやっているから可愛く見えるけれど、フェラの真似事や顔射の真似事、はては本当に女を押し倒します。コールガールを呼んでうんこさせるとか、普通の大人でもやらない、なんというか、人間だったら相当やばい奴。世のお父様、お母様におかれましては、子供と観ようなどと考えてはいけません。

 でも、それは実は、テッドの子供っぽさでもあるんですね。テッドもまた、大人になりきれていなくて、主人公同様に大人になっていくわけです。

 テッドと別れ、本当の大人にならんとする主人公なのですが、ちょうど映画の中間当たりで、大失態をやらかします。その原因となるのはテッドであり、なおかつ子供の頃から好きだったヒーローなんです。大人になろうとする主人公を、それでも子供時代が引っ張ろうとする。これにより主人公は、大人の象徴である恋人との関係を破綻させてしまう。とても真面目なつくりです。脚本術の見本にしていい作品だとつくづく思います。

 その後、主人公とテッドが大げんかしたり、恋人には誘惑相手が近づいていったりする。よくできた映画は中盤から後半にかけて、どんどん悪い方向に事態が進むのですが、そこを綺麗になぞっている。

 そして第三幕。テッドが怪しげな父子に誘拐されてしまい、そこから逃げだそうとします。なんとか関係修復をした主人公と恋人は、テッドを救いに行きます。主要登場人物三人、そして外敵によって織りなされる、綺麗なクライマックスです。ここにおける演出の白眉としては、テッドの体が真っ二つになってしまうことです。外敵たる怪しい父親によって引き裂かれ、体の綿を振りまきながら胴体が真っ二つになるのですが、ここには「子供だったテッドの死」が象徴される。誘拐犯の子供が主人公によって一撃でのされるのもポイントですね。とにかくこの映画は、「子供時代から抜け出て大人になる」というテーマをちゃんと描こうとしている。

 テッドというのはぬいぐるみですから、肉体的な成長はないのです。裏を返すと、いつまでも子供であり続ける宿命を担っていた。それが、暴力的な形であるけれど、一旦体を裂かれ、死んでしまうことによって、大人へと生まれ変わるわけです。

主人公と恋人が結婚式を挙げるラストは、オープニングとの対比ですね。最初は子供だった頃のシーンから始まっているのが、結婚式という通過儀礼を経て、大人になったことが示される。

 ことほどさように、この映画は細かいギャグやコメディ要素をうまくテーマと絡ませつつ、一切テーマからぶれない。その点において、大変練り上げられた脚本だと唸らされました。お薦めであります。


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たいへんよく練り上げられた脚本です。

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 角田光代原作、宮沢りえ主演の本作は、銀行で働く兼業主婦が主人公。彼女による横領事件をモチーフにした作品です。原作は未読なのですが、脚本的に要点をきちんと押さえた良作であったと思います。

 映画を貫く問いは、「お金をどのように使うと幸福になれるのか」。もしくは「幸福になるためにお金をどう使うべきか」。これが作品の大きなテーマです。

その辺りのことを映画の序盤、宮沢りえによる保険の勧誘という場面で示しているのが大変巧みです。保険というのはまさしく、お金の使い方をめぐる商品。この作品のテーマを一発で表しているんですね。また、勧誘先の老人、石橋蓮司とのやりとりを通して、主人公の人となりや生活ぶりを垣間見せるというのもうまい。この手法によって情報の開示をスムーズに行えているし、そのおかげで場面の密度も高くなっている。

また、同じシークエンスで性的な危うさを忍ばせることにより、この映画における「凶兆」を表現している。のちのちの展開と重なっているし、この序盤の密度というのは大変すばらしいものがあります。序盤で家庭の状況、銀行の人間模様、キャラクターをすべて示し、物語のキーマンたる小林聡美とも大事なやりとりを果たしている。映画全体のセットアップとして、かなり模範的な時間配分です。

真面目な行員だった宮沢りえが道を踏み外していくのは、池松壮亮扮する若者との出会いがきっかけです。彼との秘め事が横領を加速させていくのですが、そこに至るまでの順番もたいへんに綺麗です。

『横道世之介』ではバカリズムに見えて仕方なかった池松壮亮。この映画でも非常に丁度良い若者感を出しています。彼は今とても売り出し中のようですが、作り手の側としては、丁度良いんだと思います。イケメン過ぎるわけじゃないし、映画的風合いになじませやすい顔や喋り方なんです。

この映画も、やろうと思えばもっとイケメンの俳優を使ってもいいんでしょうけれど、きっとそれじゃ駄目なんですね。「イケメンだから惹かれた」だったらわかりやすいけれど、それじゃあこの映画で大事なことが、むしろぼけてしまう。宮沢りえが彼に惚れるのは、イケメンだからじゃない。この映画の要点は「逸脱すること」にあるのであって、ケメン要素、男性的魅力というのはむしろ邪魔ですらあるわけです。

 最初の横領のきっかけが、化粧品を買いたくなる場面。ここは女性的自覚の芽生えとして、映画の軸と繋がっているし、「あとで返せばいいや」という形で着服してしまうのも、逸脱の入り口として非常に説得力がある

 逸脱の開始は、二段階で設定されています。
 ひとつめは、駅のホームで池松のもとに出向く場面。これが性的逸脱の開始。
ここからそれまでの生活とは違うところへ進んでいき、映画は第二幕へと入っていきます。

 ふたつめが金銭的逸脱。池松が金を必要としているのがわかり、宮沢は彼に金を貸そうと申し出ます。性的逸脱が、金銭的逸脱を誘発するのですね。先の化粧品を買う場面、あれを忠実になぞって方向性を定め、話を深めている。

 池松は大学の学費が必要だと語るのですが、「同情すべき理由でお金を貸す」ことは、「善行」でもあります。善行であるがゆえに、観る者は主人公にも共感を覚えてしまうというつくりです。これは善行であると言って、逸脱の言い訳をつくる。逸脱の正当性を善行に求める。この点は、劇中で時折に描かれる少女時代とも通じているところです。言い訳によって、宮沢の行動を説得的に描き出す。観客の気持ちが宮沢を離れないようにつなぎ止めているのです。
第二幕では、平和にして平凡だった宮沢の生活が一変。蕩尽に狂う様子が描かれます。上映時間のちょうど中間点で、幸福の絶頂が描かれます。池松とのホテルでの場面ですね。
幸福の絶頂を描いたということはすなわち、あとは転げ落ちていくだけです。

絶頂のあと、池松の様子がおかしくなるし、小林聡美も異変に気づくし、これまで伏兵的に置いておいた奔放な若手社員、大島優子の正体がわかる。このようにどん底への坂道をきちんとセッティングしてある。大島優子の存在は、宮沢の延命措置となるのですが、一方で傷がさらに深まってしまうということにもなります。

 どん底はもはや明確。池松との別れの場面であり、、クレジットカードが機能しない場面ですね。最初は石橋蓮司の性的視線を嫌っていたはずの宮沢が、逆に彼を誘惑しようとするところなどは、いよいよ彼女が堕ちてしまったのだというのを示す上で、とても大きな効果を上げています。詐欺で金を稼ごうと、存在しない架空の保険をばらまいているところなどは、精神的崩壊をも描き出している。性的・金銭的・精神的崩壊によって、どん底へ突き落とす。巧い。実に巧い。

クライマックスは、秩序の象徴である小林聡美との対峙。
過去の回想場面によって、宮沢の動機をあらためて補強してみせたうえで、小林との直接的なぶつかりに強度を与えている。第一幕、第二幕の総括を宮沢自身が行い、自分が進むべき場所がどこなのかを、そのときもなお考えさせる。そして、ガラスを割ることで、宮沢は秩序の世界から逃げ出す。

 最後のシーンは海外。一人の男性に出会う。自分が募金した相手ではないかと想像させる相手で、彼との語らいもないままに、宮沢は姿を消してしまう。

ラストの部分が、悪く言えば曖昧な形で決着しているところはやや残念であるものの、全体としてはきわめて精巧なつくりであり、脚本的にはとても勉強になるものでした。
 お薦めです。


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テーマに惜しさはあるにせよ、出色のゾンビ映画だと思います。
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 『HUNTER×HUNTER』よろしく、連載と休載を繰り返すことでおなじみの当ブログですが、また(たぶん一時的にですが)記事を流そうと思います。以前はだらだらと思いつくままに語っていたのですが、形式を変えて、脚本の流れを追うような形で書いていきます。

 今までのだらだら語りに比べると遊びの部分が少なく、客観性を高めているので、いわゆる「評論」に近しいものになろうかと思います。また、時間を節約したいので画像キャプチャはありません。だらだら語りを楽しんでくれていた方がいるとすれば申し訳ありませんが、これまでとちょっと違うものになります。もっぱら自分のために書くのでネタバレ全開です。しばしの間ですが、もしも読んでくれる人がいたら、またよろしくお願いします。

 さて、『アイ・アム・ア・ヒーロー』です。

 評価の高い作品である一方、クリティカルな批判意見も目にしたので、気になって観に行きました。原作は途中まで読んでいて、確かクルス編の途中くらいでストップにしてしまいました。細かい内容などは覚えていない部分もあるので、原作との異同などは考えず、一本の映画として観ていきたいと思います。

 大泉洋演じる主人公は漫画家のアシスタントをしていて、オープニングは仕事場の場面。
 序盤では漫画家を目指しつつも、花の咲かない状態が続いているという現況が示されます。持ち込み原稿を没にされたり、同期の漫画家との格差を示されたり、同棲相手に早く夢を諦めろとどやされたり、かなり辛い状況にあるのがわかります。

 話の中心はゾンビシーンになっていくわけですが、オープニングシーンで奇妙なニュースが流れ、かなり早い段階でその「凶兆」が示される。これは大きな美点です。その後もちらほらと怪しい影が出てきたりして危険を予兆させます。この映画は序盤、ほぼ音楽を用いていなかったんじゃないでしょうか。日常の静けさを演出し、あとのパニックシーンに繋げるうえでも効果的でした。

 この映画の肝がゾンビ描写/ゾンビサバイバルにあるとすると、その点は抜群の出来であったと思います。最初に変容をあらわにするのは同棲相手の片瀬那奈。ここのゾンビ描写は満点だと思います。ロメロ的なゾンビでもなく、アメリカ映画のゾンビと違うものを造型できていて、ツカミとしてはパーフェクト。それまでずっと抑えめのトーンで進めていた分、ショックシーンとしても効果絶大。ゾンビ映画にはその数だけ「ゾンビとの初遭遇シーン」があるわけですが、その中でもトップクラスにいいんじゃないでしょうか。

 その後、映画は明確に第二幕へと移行します。主人公は所持していた銃を抱え、漫画家の仕事場に行き、そこでも知り合いたちのゾンビに会う。細かい演出で言うと、主人公があの仕事場に土足で上がるんですね。あれが第二幕(=非日常)への決定的なターニングポイントを示しています。ここでもゾンビ描写がいい。人相がまるまる変わってしまうのは原作でも同様でしたが、あれで一気に人称性がなくなるんですね。

 街のパニックについても、日常が秒音ごとに侵食されていく様子が巧みに活写されていた。日本の、東京の街並みをうまく非日常化させていて、ワンシーンの中にエスカレーションがあった。直後にカーアクションも盛り込んでいて、ここもたいへんよかった。同棲相手の変容から第二幕序盤にかけては非の打ち所がありません。

 この過程で、ヒロインの一人である女子高生、有村架純と出会います。彼女と出会った主人公は、富士山を目指します。ネットの噂で、ウイルスが届かないと言われているのです。その道中で神社に立ち寄り、二人は仲良くなるのですが、ここは個人的に少しもったいなさも感じました。よく解釈すれば、それまでの危機に次ぐ危機のあとで、観客を一度緩和させてくれるシーン。しかし少しほっこりしすぎというか、打ち解けすぎの感も強いです。メロンパンを分け合う「食事効果」を踏まえているのは美点ですが、有村が大泉に平気でため口を使っていたり、音楽を聴いて安らいだりというのが、どうにも急な感じがしてしまった。

 ただ、事情はわかる。これは仕方ないんですね。というのも、彼女は直後にゾンビ化してしまうんです。それも主人公を襲わない半ゾンビになる。主人公は彼女に危機を救ってもらったこともあり、捨て置けなくなる。彼女を後半まで連れていく都合上、短い時間で二人の仲を接近させておく必要があり、強引にでも仲の良さを詰め込まねばならなかったのです。

 半ゾンビとなった彼女を連れて(カートに乗せて)、主人公は歩き始めます。着いた先はショッピングモール。ゾンビに襲われていたところを、もう一人のキーパーソン、長澤まさみに助けられます。モールでは吉沢悠をリーダーとするコミュニティが築かれていて、ほっと一安心。ここが映画の真ん中部分に当たります。

 映画の流れとして、中間地点に「束の間の解決」を置くのが綺麗なんです。そのあとに危険度を上げていくのが理想的この映画はその点をちゃんと踏まえています。多くの人が建物の屋上に逃げており、平穏を享受しているのですが、一方ではゾンビの危機もあり、組織内の不和もあるんですね。

 主人公の危険度が上がったのは、銃を失った部分。連れていた女子高生がゾンビであることもばれてしまい、組織内の不和も高まり、それまでよりも危ない状況に陥ってしまいます。自分のふがいなさを嘆く場面もあるなど、精神的な弱さもここで示されます。

 その後、食糧を得るためにモール探索に出るのですが、組織にいた岡田儀徳がリーダーの吉沢悠と反目してしまい、その結果として悲劇が増幅します。尺の都合上、反目の経過や吉沢悠のキャラなどは、やや性急なままに進んでしまった部分がありますが、致し方ないところでしょう。

建物の中でゾンビの大群に襲われ、仲間たちがどんどん死んでいく。安全圏であったはずの屋上も、あるゾンビの出現で崩壊してしまい、「束の間の解決」の反対である「どん底」へと至ります。

 その間、主人公はロッカーに隠れてその場をやり過ごしていました。第二幕から第三幕に移行するのは、彼がロッカーから出て行く場面。屋上にいた長澤まさみたちを助けるべく、勇気を振り絞って出て行きます(ちなみにこのとき、ロレックスをたくさんはめていたために助かるという描写があります。あれは序盤の片桐仁のくだりと繋がりのある展開ですね)。

ここからはクライマックスで、満足感を味わわせてくれる詰め込み具合でした。細かい経過は省きますが、これでもかというくらいにアクションを詰め込んでいる。多少しつこいかもしれませんが、しつこいくらいが丁度良いんですね。

この映画の第三幕がカタルシスを生むのは、銃の存在ゆえです。それまで主人公は一切銃を撃てなかった。それがここに来て、これでもかと撃ちまくる。これが大きな要因です。アメリカではゾンビを序盤から撃つのが当たり前ですが、日本ではそうもいかない。そこを逆手にとっての使い方としては、この上ない方法ではないかと思います。

 映画的に言うと、銃の発砲は男性性を担うものでもあります。すなわち、これまでずっと自分の男性性に自信を持てなかった主人公が、いよいよ第三幕でそれを発揮するんですね。中盤では女子高生や女性に助けられていた主人公が、ここに来てその二人を守る。作り手は明らかに「男性性」を意識している

 ラストは三人で車に乗って逃亡。結末を迎えます。ここに及んで、有村を半ゾンビ化させたことも意味を持つ。大泉と長澤と有村の関係は、父と母と子供の形をとるんですね。映画の途中、有村をカートで運んでいたでしょう? あれは赤ん坊のメタファにもなっているわけです。主人公は艱難辛苦の末に男性性を獲得し、妻子を守り、父へ至るという流れなのです。

 映画の序盤において、主人公は同棲相手との間に家庭を築けずにいました。そして、その相手を失ってしまった。序盤と結末にリンクが観られる点も美点です。惜しむらくは、序盤のテーマ設定。「漫画で成功したいんだ!」という動機をセットしたのはいいのですが、その背景にもっと、同棲相手への意識があればなおよかった。そうするとリンクの糸がさらに太くなったように思われます。同棲相手の存在/欠損をもっと意義深く描けば、女子高生たちを助ける動機がさらに補強されたのではないかと、思ったりもします。ゲームの『ラスト・オブ・アス』において、主人公のジョエルは娘を失い、その面影をエリーに重ねていた。たとえばああいうことです。

もうひとつの惜しい部分は、有村がなぜ半ゾンビに留まったのかですね。「赤ん坊に甘噛みされたから」というのがエクスキューズになっていますが、ウイルスってそういうことなのか? という疑問は残ります。有村と大泉の結びつきはあくまでも、にわかな出会いによるもの。であるため、彼を決して襲わない善良なゾンビになるのも、少しご都合主義的な感じがしてしまうわけです。

 ただ、そこまで突っつくのはしつこいかなとも思います。二人はカーアクションで、力を合わせて死の危険を乗り越えた。その点を踏まえ、絆が強まったとも言えるし、映画の制限時間の中で、できうるだけの工夫をしている。その点はすばらしいのであります。

 全体を通していえば、非常によく整えられた快作であると思います。
 お薦めであります。

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 今週のマスカットナイトは総集編ということですから、あまり語ることもありません。
 お休みにします。

 それよりも、5/4に開催されました「DMMアダルトアワード2016」について語ってみようじゃないかと思います。
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ちなみにぼくの予想を振り返ると、
 最優秀女優:大槻ひびき
 優秀女優:天使もえ
 新人女優:市川まさみ
 特別賞:紗倉まな
 話題賞:三上悠亜
 スペシャルプレゼンター賞:伊東ちなみ
 メディア賞:葵つかさ
 でした。

 実際の結果を見ていきましょう。

 予想が的中しました。最優秀女優賞は大槻ひびき
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 ここはそりゃ、大槻ひびきが獲るべきでしょう。AV女優の格としては、やはりノミネート女優の中で頭ひとつ抜けていたと思います。上原亜衣、湊莉久とキカタン受賞の流れは今回も健在。DMM(CA)は自社専属の女優ではなく、業界全体への功労者をきちんと祝福するのだなと、いちだんと頼もしさを覚えた次第です。

 受賞コメントにもありましたが、大槻ひびきは「ド企画」からの決して華々しくないスタート。デビューは2008年のベテラン組。それがこうした場で一位を射止めるというのは、まことによいことであると思います。AVは単体的なもの=アイドル的なものの魅力ももちろん大きいのですが、それとは別に、企画や行為性、肉体言語によって魅せるメディアであります。そこでの活躍がこうしてきちんと評価されることを、非常に喜ばしく思っております。
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 そして第二位。優秀女優賞は、前の記事でも個人的に希望していた、AIKA
受賞は難しいのではと勝手に思っていたのですが、いやはや嬉しい誤算というか、キカタンが一位二位を射止めるというのは、この賞自体がどういう性質のものかを、知らしめてくれるようです。

 いまやDMMは戦国武将ではなく、業界全体を統べる幕府となりえたのです。
 自社の繁栄のみを願うのではなく、業界全体で活躍したものに権威を与える存在たり得たわけですね。今年の一位二位がキカタンという出来事は、その象徴であったように思います。

さて、新人女優賞。
 ぼくは市川まさみを予想していて、話題賞が三上悠亜ではないかと思っていたのですが、ここは予想とは反対になりました。 
 新人賞に三上悠亜、話題賞が市川まさみ。いずれもマスカッツのニューカマーで、一応ここは抜かりなく抑えているDMM。恵比寿★マスカッツプロジェクト。

 三上悠亜はなんとAVの販売において、配信、セル、レンタルの三冠を受賞したとのことです。そうなるとまあ、新人女優賞もむべなるかな、ですね。ただ、どこかもの悲しさもあります。言ってしまえば彼女は、「AKS系列でスキャンダルを起こし、居場所を追われた人」です。マスカッツの一員であるし、今後の活躍がとても楽しみではあるのですが、それですぐさま他のAVをなぎ倒してしまうのは、AV業界を愛するものとして悔しい気持ちもあります。ですがまあ、そうやっていろんなものを取り込んで、業界がさらに大きなものになるのなら、喜ばしいことに変わりはありません。マスカッツでのご活躍を応援しております。

 彼女が話題賞でなかった時点で、市川まさみ以外はないと思っていました。ここは順当なところ。それにしても、本当にマスカッツはうまくやっていますねえ。うむうむ。

 特別賞はJULIA。三年連続ノミネートとあって、この方も何か獲るかもな、と思ってはいたのですが、なるほどここに入ってきた。納得の受賞でありました。

 スペシャルプレゼンター賞は新人ノミネートから出るのかと思っていましたが、ここで葵つかさ。業界での実績もあり、S1でもあり、アイドル性を考えても、なるほどなにがしかの賞を獲ることに異議はありません。

 メディア賞に紗倉まなが来ました。
 露出も多いし、小説を出版したりもしているし、顔ぶれを見ても無冠はなかろうと思っていました。他の賞がないのなら、この線もあるだろうなと思っていましたね。うむうむ。
 ちなみに去年は小島みなみが獲っているので、SEXY-Jにおける「乙女フラペチーノ」コンビが獲ったということになります。

授賞式では特別ライブとして、恵比寿★マスカッツが登場しました。
「バナナ・マンゴー・ハイスクール」が最初の演目だったのですが、司会者には希志あいの、ノミネートの一人には佐山愛がいるということで、少しほろりと来てしまいました。
新生マスカッツになってからの新曲も披露され、ノミネート席のメンバーが応援している様を見ると、これまた温かい気持ちになるなあ、という次第でありました。

 さて…………こうなると、いや、うん、わかります。
 天使もえですね。
 候補者のマスカッツメンバーの中で、彼女だけが何も獲れなかったのです。S1の筆頭格であり、人気女優であり、マスカッツも出てきてとなって、これはとても悔しい結果であろうと思います。去年には新人女優賞を獲っているし、二年連続ノミネートなので、その意味では他の無冠の人たちよりは恵まれているのですが、ここにはなんというか、ねえ、うん。予想の段階で、ぼくは彼女の一位はないだろうと思っていたのですが、何かしらには引っかかると思っていた。ぼくだけではありますまい。これは悔しいでしょうねえ。

 キカタンにはドラマがあります。それこそ大槻ひびきのように、「ド企画」から上り詰めた人もいるし、AIKAのように、最初は美容師の副業だったのが、どんどんその世界の魅力を知っていたという人もいる。そうやって名を売ってきた人もいる。

 かたや、単体はデビューがある程度華々しいんですね。パブもあるし、事務所のバックアップもあるし、その意味ではアイドル的存在。でも、だからこそ、こういう場での栄誉が求められるところも大きいのです。単体のドラマもあるのです。特に天使もえは、マスカッツの中心メンバーでもありますからね。

 その意味では、天使もえが獲れなかったのは、これはこれでドラマティック。
 でも、これが演出だとするなら、DMMの底知れなさというものを見る思いです。

 正直、人気投票だけではないと思います。様々に事情を加味されての配置ではないかと思います。そのうえで、DMMは看板のS1(それも天使もえは生え抜きの専属です)を横に置き、キカタンに持って行かせた。ここはねえ、いいですねえ、うん。いい。

ともかくも、大槻ひびきが貫禄の受賞を果たしたことをここに言祝ぎ、AIKAが獲ったことを喜びたいと思っています。DMMが今後も業界の盟主として、そしてマスカッツがその象徴として、よりいっそうの繁栄のなされますことを、心よりお祈り申し上げます。
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こういう予想を外しまくる人間なりに、考えてみました。
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DMMが主催する、AV女優やAV作品への授賞イベントです。
ここでは、女優予想をしてみたいと思います。ふと思い立ったので。
では、さっそく行ってみましょう。

予想:
最優秀女優賞 大槻ひびき

・過去二回は上原亜衣、湊莉久とキカタンが受賞している(湊莉久は現在、teamzero専属)。
・キカタンに獲らせることは業界全体への配慮となる、というDMMの目配せを考慮。
・数字、実績とも受賞には文句なし。
・2008年デビューで,他に比べるとベテラン度が高いため、特別賞もありうる。

優秀女優賞 天使もえ
・S1の筆頭。昨年は新人賞を獲っている。白石茉莉奈が新人賞→優秀賞となったことから考えても妥当な線。
・主宰者DMMの看板メーカー・S1の筆頭であり、授賞式ゲストのマスカッツのメンバーであることから、むしろ最優秀を獲らせにくいのではと考えた。これでマスカッツメンバーが最優秀の祝福などしたら、非マスカッツの人たちのどっちらけ感は高い。DMMがそんな下手を打つだろうか、という懸念から二番目とした。

最優秀新人賞 市川まさみ
・最優秀、優秀、新人賞の三枠は過去、キカタン、DMM専属、SOD専属で振り分けられているため、上の二つがSODでなければほぼ自動的に入る。

 以上の予想の難点は、三名中二人、大槻ひびきと市川まさみが同じ事務所、T-POWERSであること。しかし過去二回、当事務所から受賞者は出ておらず、反動的に二つ獲る可能性も考慮できる。

特別賞 紗倉まな
2014年は麻美ゆま、2015年は希志あいの。奇しくもマスカッツのリーダーが続いているが、ここは功労賞的な要素も強い。一般への認知度もあり、業界を盛り上げた人気女優ということであれば、紗倉まなが最も妥当。

話題賞 三上悠亜
この枠は非常に読みにくい。2014年は吉沢明歩と明日花キララ。2015年はさくらゆら。
長年の功労者に贈るかと思えば、わりと新顔にも送っている。昨年新人賞だった天使もえをわざわざこの枠に置く意味が感じられず、かといって紗倉まなは特別賞のほうがふさわしい。単純にマスカッツと親和性が高く、SKEからやってきた話題性で考えてみた。賞の名前からすれば、申し分ないはず。

スペシャルプレゼンター賞 伊東ちなみ
この枠は非常に読みにくい。過去二回の受賞者はteam-zeroと溜池ゴローの専属。新人女優ノミネートから出る可能性は高いものの、誰もがこれといって決定打に欠ける。ここは単純に勘である。看板メーカーなのにわりと冷遇されている、MOODYZってことで。

メディア賞 葵つかさ
去年からの賞。去年は小島みなみ。
メディア賞と名付くからにはやはり露出が必要で、地上波テレビはその最たるもの。小島みなみはその条件を満たしていた。この枠はどうしてもマスカッツが強くなるか、あるいは紗倉まな。しかし、他の女優は妥当な線でほぼ埋まっているので、ここは葵つかさの収まりがよい。以上の予想がはまれば、★マスカッツの全メンバーを抜かりなく配することができる。売り上げ的な面で言うと、他の賞は厳しい気がする。

 我ながらなかなかバランスの取れた予想であると言えよう。
 個人的にはAIKAが獲ってほしいし、ずっとノミネートされているJULIAも何かに引っかかる可能性は高い。
 
 さあ、どうなるかな?


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 こっちのミューズはブドウ味。
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楽しめるのはきっと、原作を知らないティーン。
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どうせ原作は超えられない。そう思って観ればいい。
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もろもろ、勉強し直してまいります。
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# by karasmoker | 2015-07-21 00:00 | Comments(2)
 
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 当ブログは「リクエストがあった場合のみ更新する」というスタイルです。
 オーダー制のブログというわけです。

 求めてくれる読者の方々がいないのであれば、意味がありません。読んでくださる方のいる限りは、できる形でお応えしていきたいと考えております。

 オーダー対象の作品の条件は次の通りです。
①映画作品あるいは単発のドラマ作品。
②ツタヤでDVDレンタル可能。
③ただし、過去に記事化しているものを除く。
 
基本的にはこの三点です。ただし、ご配慮いただきたいこともございます。できれば避けていただきたいのは次のようなオーダーです。
①「自分は観ていないが、ためしに観てもらって感想を知りたい。それで観るかどうか決める」

これは避けてほしいです。ぼくの見方はあくまでぼくの見方でしかないので、観るかどうかを左右してほしくはありません。それに、「ふうん、じゃあ観るのやめた」と言われても、どうにも書いた側としては拍子抜けしてしまうのです。

②「自分は観た。面白くなかった。世間の評判も悪い。あまりにひどいのでぜひ観てほしい」

 くさいものを人に嗅がせたくなる気持ちはわかりますが、くさいとわかっているものに手間を避けるほどには暇じゃないのです。テレビ局製で、CMと朝のワイドショーだけが盛り上がっているようなタイプのものはとりわけ避けてほしいです。逆に、「世間は駄目だと言っているが自分は面白いと思う」「自分はつまらなかったが世間の評判はいい」というようなものは歓迎です。

 以上がオーダー作品の条件となります。
 オーダーを拒否する場合もございます。いまさら「20世紀少年の三部作を観ろ」と言われてもこれは拒否します。避けてほしいと申している以上は、その辺は汲んでいただければと思います。
 数にもよりますが、オーダーは遅くとも1ヶ月以内にはお応えする予定です。殺到したりした場合はまた別ですが、まあないでしょう。
 数が見えないので、ひとまずはお一人様一作とさせてください。

 注意書きが多くなるのは世知辛い世の習いでございます。申し訳ありません。
 さて、最後にもうひとつだけ。せっかくなのでオーダーしていただいた皆さんがどういう人なのか、ぼくとしては知りたくもあります。ですので、ぜひ皆さんのことを教えてほしいのです。

 といって、詳しく詮索する気は毛頭ないので、都道府県と性別くらいを教えてくれればそれでいいです。「京都在住の女です」とか「鹿児島在住の男です」とか、そんなくらいのもんでいいのです。ぼくは東京在住の男ですが、ああ、ぜんぜん別の県の人が読んでくれているんだなあと思えたら楽しいし、女性のオーダーとあればちょいとテンションも上がろうというもんです(別に記事の中身に性差はつけませんので念のため)。それ以上の詮索は一切しませんのでご安心ください。

 長くなりましたが、以上になります。今後は「なにさま映画評 Made-to-Order」という形で、やっていくことにいたしますので、気が向いたらオーダーください。




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クライマックスを活かせていれば。
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そして、普遍的なものへ。
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