右翼と左翼、保守とリベラル。政治の話をする際は、とかく立場が分かれがちになります。今回は左右両方の、あるべき姿について考えたいと思います。

 ではそもそも右翼と左翼とは何なのか、なんてことを言い出すと、それこそフランス革命の話だの、日本の特殊性だのというところから振り返らねばなりません。そうでなくても、歴史認識やその他さまざまに違いがあるわけで、ひとつひとつを詳しく見ていく手間は取れません。立場の違いをわかりやすく示すために、ここでは例として、「外国や外国人に対する捉え方」という切り口から捉えてみたいと思います。

左右の違い
 左右の考えの違いを分かつものとして、ひとつに「多文化共生」というものがあります。左は外国人コミュニティも含め、多様な価値観がともにあることを良しとして、そのような社会を推進したいと考えます。右よりも外国人の権利や人権などに寛容だし、外国人の参政権も認めるべきだ、と主張する向きも中にはあるわけです。

 左にとって重要な価値のひとつとして、「平等」という概念が挙げられます。19世紀以降に世界を席巻した共産主義という考え方はまさしく「左」によるものであり、世に溢れる不平等を無くしていこうとするのが、左の大きな重点です。

 そしてまた、特に日本の場合においてですが、左は平和外交を志向する向きが強いです。政党で言えば共産・社民が筆頭であるように、膨張政策を続ける中国に対してもなお、軍事的対立ではなく、平和外交を目指すべきなのだという主張を掲げます。

 つまり左は、国内においては外国人も含め、多様な価値観や平等な権利を志向しつつ、外国に対しては平和的な対話外交を推進しようとする性質があるわけです。

 一方、右はというと、この考えと大きく対立します。
 移民の流入に対して反対したり、外国人参政権に反対したり、中国に対しては軍事的な抑止力を持って備えようとする考えが強くあるわけです。

 右は「保守」とも呼ばれるだけあって、物事が変わっていくことについては慎重な立場を取ります。外国人の増加や権利拡大が、日本の文化や習慣を大きく変えてしまうのではないかと考えるし、日本の輪郭を確固として保つためにも、下手な融和外交はすべきではないと考えます。歴史認識という点でも、特に中韓に対し、 決して譲れない部分というものを多く持っています。そして昨今の場合、中韓の国家性や民族性に対して批判的な向きも大きくなっているし、日本という国家の価値、あるいは高潔さを称揚する人も多くいる状況です。

 さて、ここではどちらがいいとか悪いとか、そういう話をしたいのではありません。
 上記のおさらいを踏まえたうえで、右にも左にも顧みるべき点があるであろう、ということについて、考えてみたいのであります。ネット上の言説ややりとりなどを見ると、どうにも右も左も、自分たちのあるべき姿を見失っているのではないか、と思えてしまうのです。その点に関する指摘を、行っていきたいと思います。

左の問題と取るべき態度
 まずは左です。
 左は、多文化共生や多様な価値観というものを尊びます。たとえ文化や考え方が違っても互いを尊重しあい、ともに住みよい社会をつくっていこうという理念を持っています。そして、軍事的対立ではなく、平和外交の努力を進めるべきだとも考えます。

 そうしたときに問われるのは、異質な他者に対する構え方です。右の人々が外国人との軋轢を憂慮するなら、左はそれを緩和できるように範を示さねばならない。自分と考えの違う人を安易に罵倒したり、嘲笑したりするのではなく、どうすれば共存できるのか(あるいは相手の振る舞いを改めさせられるのか)を考えねばならない。武力によるのではなく、対話による外交が必要だと主張するならば、卓抜した対話能力を示さねばならない。

 要するに左は、他者に対する寛容さについて、右を導くべき立場なのです。それができないなら、異質な他者との共生など無理であると、自分から言っているようなものです。
 また左は、異質な相手との対話力を必要とする立場なのです。それができないなら、対話による平和外交などできないと、自分から言っているようなものです。

 むろんそれは、何から何まで寛容せよというのではありません。そんなことを言い出したら、「移民排斥という立場を寛容せよ」ということになって、主張が通らなくなります。ですから左は、移民排斥を主張する他者に対して、説得的な論理を打ち出す必要があるし、彼らの不安を取り除けるような対話力が求められるわけです。

 しかし残念なことに、今の左はさしたる政治的な力を持っていません。ネット上においても、右の考えを左に溶かし込むような、有効な方策を持っていません。ここが、左にとっての大きな課題なのです。

右の問題とあるべき姿
 右を見ていきましょう。
 右は右で、あまりよろしくない振る舞いというものが確認されます。
  
 昨今に右に見られる振る舞いとして、特徴的なものがあります。それは、中国や韓国に対して嘲笑的だったり攻撃的だったりという振る舞いです。あるいは、日本はすごいのだと自己賛美的になりやすい態度です。左は右に比べると国家意識が強く、同時に自国の文化や歴史を肯定的に捉えるものですが、それがいささか過度に(あるいは歪んだ形で)表出しているように、ぼくには思えるのです。
 
 たとえば、こういう言説があります。「中国人は行儀が悪く、自分勝手である」「韓国人は平気で嘘をつくし、日本を罵倒する」「一方、日本人は礼節を重んじ、相手をきちんと尊重する」。なるほど、仮にそうだとしましょう。

 で、あるばらばです。
 日本人は高潔さを保たねばならないし、誇り高くあらねばなりません。行儀の悪い振る舞いは避けねばならないし、嘘をつくべきでもありません。それでこそ日本人の美徳を示せようというものです。

 しかし残念ながら、とてもそうとは思えない振る舞いも、ネットには数多く見られます。
 決して行儀がいいとは言えない発言や、相手を貶めるようなデマや、相手を尊重しない表現の数々が、「右」や「愛国」を自称する人々の手によって放たれています。 左が自己の取るべき道を歩めずにいるように、右は右で自分たちのあるべき姿を見失っているように思えてなりません。

 他民族を一緒くたにして貶めるような物言いは避けねばならないし、自分たちの主張に間違いがないか、厳しい目で捉え続けるべきです。日本人の礼節を重んじるならば、たとえネット上とはいえ、見知らぬ他人に敬語を欠くなどあってはならないし、謙遜の美徳というものを軽んじてもいけません。相手がどうのとすぐさまあげつらおうとする態度は控えるべきだし、たとえ相手がどうであれ、自分たちに甘くなってはいけません。
 左は戦争を恐れ、平和という題目を唱え、軍事増強や強硬外交に反対する。一方で右は、「戦争が起こってほしいなんて、思っているはずないだろう」「戦争になるなんて考えすぎだ」と反発する。であるならば、右はその正しさを示す意味でも、日頃からつとめて抑制的な振る舞いを、心がけねばなりません。

 左は寛容さと対話力を持つ必要があります。
 右は礼節と高潔さを持つ必要があります。

最後に
 ネットにおける言説や主張、やりとりなどを散見するに、右も左も自分たちのあるべき姿、取るべき態度を、忘れているように思うのです。どちらの立場であっても、自分たちの思想に基づく振る舞いを、忘れてはならないと思うのです。
 右翼、左翼という言葉は暗示的で、「翼」という文字を持っています。飛行機であれ鳥であれ、片方の翼がなくては満足に飛べないし、本来は互いが支え合うべきものであるはずなのです。
 右でありながら左である、左でありながら右である。
 そのようなしなやかさを、失ってはならないように思います。

 おしまい。

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 辺野古の基地新設工事が進められる沖縄。沖縄が抱えている米軍基地問題には右派、左派ともに、自派を顧みる必要があるように思います。

 まず、そもそもどうして沖縄に基地が必要なのか。という話を紐解いていけばそれこそ戦後史自体を振り返ることにもなるので、ここでは避けます。今現在、なぜ基地が必要かと端的に問えば、その答えは「海洋進出を例とする、中国の膨張政策に備える」というものになるでしょう。北朝鮮有事というのもありますが、やはり中国の存在が大きいわけです。尖閣諸島の一件を取っても明らかなわけですし、中国が今後の外交を改める兆しはあまり認められません。

 だからこそ、抑止力としての米軍基地が必要で、沖縄には基地がある。
 政府並びに、それを支持する右派は、沖縄の基地を是とします。

 一方、今の沖縄では、米軍基地の存在に批判的な民意が多数派です。国政選挙を見ても、現在の翁長知事が選ばれているのを見ても、沖縄の意思としては、基地負担の軽減を求めるものになっています。共産党、社民党、自由党をはじめとして、左派の陣営は辺野古基地、あるいは高江のヘリパッド建設に異議を唱えています。

左派への問い
 さて、しかし、左派はここできちんと考えねばならないと思います。
 右派の疑問に、きちんと答える必要があります。

 米軍基地なしに、中国の海洋進出を防げるのか?

 ここについて右派を説得できない限りは、基地建設の反対運動が力を持ちません。中国が攻めてくるわけないじゃないか、と言われても、実際に尖閣への威嚇的な行動は確認されているわけで、中国に対する脅威というものを右派は感じている。なればこそ、彼らを説得できるような、安心させられるような論を立てない限り、基地反対の主張は現実味を欠いてしまう。お花畑だ、などと揶揄される原因のひとつは、その点にあろうかと思います。

 これは沖縄のみならず、国防全体にまつわる議論にも言えます。日本共産党は日米安保の破棄のみならず、自衛隊の縮小をも主張している。ではどうやって国を守るのかと言えば、平和外交への努力だと言う。なるほど確かに、平和外交はとても大事です。しかし、そのためには卓抜した外交能力が問われるわけだし、外交とは相手方の意見もあるわけですから、こちらの努力だけではなかなかうまくいかないというのもまた現実です。だからこそ、右派は防衛費の拡大路線を是とするわけです。平和外交がどのようにして可能であるか、ということに説得力を持たせられなければ、やはり右派の納得は得られません。

「米軍基地が要らないっていうけど、それで中国を抑えられるのか? どうしてそう言えるんだ?」

 中国に怯える右派の恐怖。これを取り除く論理を、左派は構築する必要があると思います。

右派への願い
 さて、問題があるのは左派だけではありません。

 そうは言っても、沖縄の民意は米軍基地反対という点で、はっきりとしているのです。むろん、国防は国全体に関わることですから、沖縄だけの民意をくみ取るわけにはいきません。しかし他方、彼らの民意は民意として尊重する必要も、ないわけではないのです。
 この点について、右派は向き合わねばならないと思います。
 
 大きく言って、右派は次の三つの点に留意する必要があります。
 ① 米軍の存在によって、領土、領空を奪われている現状。
 ② 米軍なしでは日本を守れない、という現状。
 ③ 米軍基地の存在は、沖縄の民意に反しているのだという現状。

 「自国は自国で守る」というのが、本来主権国家としてのあり得べき姿であろうと、ぼくは思います。つまり、①と②というのは、本当のことを言えば好ましいものではないのです。それは理念の問題だけではなく、現実的なことでもある。米兵に日本人が蹂躙されたり、航空訓練の騒音で住民が辛い思いをしたりというのは、まったくいいことではありません。

 この①②を踏まえた上で、③に絡むことですが、ネットにおける右派の主張などを見る限り、逡巡が足りないように思えます。「ニュース女子」の問題でもそうですし、翁長知事に対する評価などもそうですが、基地に反対する人々を嘲弄するような発言が、目についてなりません。

 右派に必要なのは、左派を嗤うことでも潰すことでもない。
沖縄の人々が納得できるように、寄り添う態度です。
 そして右派であるならば、自国を自国で守れずにいることについて、忸怩たる思いがあってしかるべきです。

 沖縄では基地を要らないと言っている。でも、地政学的に見て、防衛上の観点から見て基地を置かざるを得ない。その矛盾に悩む態度が右派に欠けているように、ぼくには見えるのです。

 「本土の人間が負担を押しつけてしまって申し訳ない。でも、どうかここは折れてくれ」というためらいの気持ちが必要であるし、また同時に、「基地を負担してくれてありがとう」という感謝の思いがあってもいいはずです。米軍に対して「思いやり予算」を払うのなら、同じ日本の人々に対して、そういう思いやりがあってもいいはずです。少なくとも現段階で、政府は右派の主張どおりに事を運んでいる。左派に対して怯える必要はない。だからこそ、基地に反対する沖縄への思いやりの気持ちとか、慰めの気持ちとか、そんな情を抱いていいはずなのです。

 基地に反対している人の言動に、いっさい問題がないとは言いません。しかし、右派が寄り添う気持ちを失い、ただ黙って受け入れろと押しつけるような態度では、彼らが反発を覚えるのも無理からぬ話です。右派は先に述べた①②③を忘れるべきではないのです。

 左派が基地を除去したければ、右派の不安をも取り除く論理と戦略が必要です。
 右派が沖縄の反対を鎮めたければ、①②③の事実を胸に留め、納得を得られる語り方をすべきです。

現実に理想を
 おまえはどう思うのかって?

 ぼくは、沖縄の米軍基地をなくすべきだと思います。
 しかし、国防も必要なので、沖縄の米軍基地に変わる抑止力を持つべきだと思います。
 そのためには憲法九条を改正の上で、対地攻撃能力を持つ自衛隊基地を、沖縄に置くべきだと思います。米軍ではなく、自衛隊が守る。①②に処するための回答です。

 むろん、日米安保は必要です。しかし、考えてみてください。
 アメリカにとっていちばん大事なのは、日本を守ることではありません。
 彼らにしても中国の海洋進出は脅威であり、そのために日本を防衛の砦としているのです。なればこそ、日本はもっと強気に出ていいはずなのです。
「俺たちなしでは中国から国を守れないぞ!」とアメリカに言われても、強気に出られるように、九条を改憲して自衛隊を強化する。
 そのうえで、「アメリカさん、海洋線を守りたいのはあんたらも同じだろ、日本に協力しろよ」と言えるようにする。肝心な部分を忘れてはいけません。日本はアメリカに守ってもらっているけれど、一方で、アメリカは日本によって中国の海洋進出を止めたがっているのですから。利用する狡猾さが必要なのです。尖閣への安保適用なんてのは、アメリカの戦略として当たり前の話で、それで喜んでるのは情けのない話なのです。

 当然、そんなことは一朝一夕にはできない。何年もかかることです。
 しかし、理想を持った現実主義と、理想のない現実主義は違う。
 他国に国防を頼って何のためらいもない右派は、志のない現実主義です。
 フィリピンのドゥテルテは米軍との同盟関係について問われた際、「自分は他国の軍人がいない国を目指したい」と言った。それこそが右派の取るべき思考です。
 ドゥテルテには賛否がつきまといますが、この点については正しいと思います。
 理想に現実を、現実に理想を。
 
 ちょっと格好いいことを言って、今日はこれまで。

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 昨今、巷に広まった言葉として、「フェイク・ニュース」「ポスト・トゥルース」といったものがあります。さらには「オルタナティブ・ファクト」なる言葉まで生まれる状況でありまして、とかく「真実に触れる」ことが困難な時代であるなあと見受けます。


カスタム・ファクトとは何か?
 一昔前はマスメディアが世間の情報を独占できたものでありますが、今ではひとりひとりがメディアの時代となりまして、「マスコミは本当のことを報道していない」「ネットに真相が書かれている」という論調がそこかしこに生まれるようになりました。

 この手のことで騒がしくなるのは、とりわけ政治の世界でございます。昨年のアメリカ大統領選が好例でありましょう。ネット情報自体が政局を左右する時代にあって、ニュースひとつ、情報ひとつが武器になる。真偽不明の情報がもとから溢れていることに加え、フェイクであっても有利に事を運べばそれでいい、と考える不届き者が出てきて収拾がつかなくなり、いやはや何が真実なのかと、まことに頭を抱えたくなる時世でございます。

 この状況を表す言葉が「ポスト・トゥルース」だったのかと思いますが、ぼくなりの表現で言うならば、現代は「カスタム・ファクト」の時代ではないかとも考えます。今回はこの「カスタム・ファクト」という概念を掘り下げたく思います。

 初めに言っておくと、この言葉はぼくが思いつきででっち上げた単語です。英語的には「カスタマイズド・ファクト」「カスタムメイド・ファクト」などというほうが正しいのかも知れません。意味はと言えば、「趣味に応じてあつらえられた真実」とでもなりましょう。「セレクテッド・ファクト」という言い方も適当かも知れません。

カスタム・ファクトの誘惑
 先に要点を述べてしまいますが、人というのは何につけ、「信じたいものを信じる」のですね。既に言い尽くされた表現ですが、ともかくも人というのは自分好みの真実を選ぶ習性があるのです。

 現代では何が本当で何が嘘なのか、あるいはどれほどまで辿れば正しい理解に辿り着けるのか、非常に見極めが難しい。そこまでにいろいろな情報を吟味しなくてはならないし、うっかり信じ込まないように絶えず疑いと警戒の気持ちを持たねばならない。はっきり言ってそれはとても手間が掛かるし、疲れるし、そもそもそれだけの手間を費やしても「本当の本当」に到達できる保証などない。人が信じたいものを信じてしまうのも、まあ致し方のない状況であります。

 そうなった場合、人が選ぶ合理的な行動は何か。
 自分にちょうどいい、ないしは収まりのいい、気分的に好ましいファクトを飲み込むということです。そうしないといつまでも精神的に落ち着かないからです。

 裏を返すと、人は精神的な安定を得るためなら、本当に事実かどうかというのをまさしく二の次にしてしまうわけです。別の人が真相として提示するものがあっても、精神的に不安定になる以上は受け入れたくない。そう考えた場合、人が「カスタム・ファクト」を見出すのは、とても自然なことなのです。

 カスタム・ファクトを選択し続ける限り、精神的には安定します。なにしろ耳心地のいいものだけを選ぶわけですから、不快な思いはせずにすむ。たとえ偏見がないつもりでも、人は確証バイアス、認知バイアスに絡め取られやすい生き物でありますから、自分でも気づかないうちに、好みのファクトのみを選び続けたりもするでしょう。

 特に現代の場合、カスタム・ファクトをつくりやすい時代です。ネット広告にしてもアマゾンのお薦めにしても、そのユーザーの好みをコンピュータが読み取ってくれる。こちらが頼みもしないうちから先回りして、好きそうなものを教えてくれる。過剰なまでのサービスが、考える前に答えを与えてくれる。特殊な趣味であっても、ネットの世界を一歩踏み出せばどこかしらに同好の士を見つけることができ、自分と意見を同じくする人たちが頼もしさを与えてくれる。くれるくれるくれる。

 ひとりひとりがメディアになれる現代は、ひとりひとりが自分に最適なものを選べる時代です。古く昭和の時代はケータイもなく、テレビも家族に一台しかなく、好きな番組が見られずに仕方なく家族の好きな番組を横で見ていた、なんて風景もあったわけですが、そんな話は今ではほとんど聞かなくなった。誰でも、自分好みのものを選べます。多少お金に余裕があれば、ネットでお気に入り商品をいくらでもゲットできる。

 さて、そうなった場合、情報もまた個人用にカスタマイズされるのは、むしろ自然なことでありましょう。事実かどうかよりも、いかに好ましいか、いかに精神的に安定できるか、そちらの優先度が高くなっても、何も不思議ではないわけです。

 だから、ぼくは言うのです。現代が、カスタム・ファクトの時代であると。

カスタム・ファクトの表れ
 しかし、この状況には危険性もつきまといます。
 信じたいものだけを信じることが可能な状況を突き詰めていくと、そこには(原理的な帰結として)カルトが発生します。真実かどうかが二の次である以上、居心地の良さをひたすら求めていけば、カルト的な狂信性に辿り着くのは時間の問題となる。むしろ居心地の良くない情報が、その人の背中を押しさえするでしょう。

 既にその兆候は、ネットのそこかしこに見受けられる。
 この文章を書こうと思いついたのは、あるネット動画がきっかけです。
 固有名は伏せますが、たとえば次のようなことです。

 あるテレビ番組がありました。その内容にデマや虚偽、いいかげんな報道が多く含まれているとして、抗議の声を上げる人(A)がいました。
 ところがその抗議に対して、「言論弾圧だ!」と食ってかかる人間(B)が出始めました。

 Aは「デマを訂正してくれ」と言っているに過ぎないのですが、Bにはそれが通じない。なぜなら、Bにとってその番組内容がデマではないからなんですね。「カスタム・ファクト」のなせる業です。Bとしては番組内容を十分に事実だと信じているので、Aの要望が「言論弾圧」という概念で捉えられてしまうわけです。

 むろん、Aが絶対に正しい保証もない。同時に、Bが正しい保証もない。
 それぞれが「カスタム・ファクト」の世界に生きている。

 これを解決する方法はただひとつ、双方が話し合い、双方が納得しうるファクトを導き出すことしかありません。逆に言えば、それができさえすれば、簡単に解決できるわけで、ある意味ではとても単純なことなのです。
 しかし、それは実際のところ、容易ではありません。
 いや、それが実は、本当に難しい。

 なぜなら。

 人は信じたいものを信じてしまうからです。

 ファクトよりも、カスタム・ファクトが尊いと信じ、そう振る舞ってしまうからです。

 現代において、カスタム・ファクトの誘惑を絶つのはきわめて困難だとつくづく感じる次第です。

 そしてこれもまた、ぼくなりのカスタム・ファクトなのかもしれません。

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 大阪の「森友学園」という学校法人が、近頃何かと問題になっているようであります。
 園児に教育勅語を暗唱させたり、軍歌を歌わせたりということで注目を集めた「塚本幼稚園」が、その進学先として設けようとしている学校が「瑞穂の國 記念小學院」。その土地購入に際して、不当に安く払い下げたのではないか、という疑義が持ち上がり、国会でも質問が繰り返されています。
 
 その細かな経緯については他に譲るとして、ここでは、ネット上に見られる多くのリアクションについて、考えてみたいと思います。この件についてツイッターなどを見ますと、批判する側、その矛先を逸らそうとする側に別れている印象を受けます。大まかに言って、いわゆる「左翼」の側が問題視しており、「右翼」の側が追及を嫌っている感じです。この辺の振る舞いについて、気になることをつらつらと述べてみます。

渦巻く「ホワットアバウティズム」
 これはつい最近知った言葉で、ぼくの中での流行語になっているのです。皆さんはご存じでしょうか。
ホワットアバウト。英語で書けばWhat about. 「~についてはどうなんだ?」というときの言い回しです。
You criticize them so loudly, but what about that?
[君はこの問題についてうるさく言うけどね、じゃああの問題はどうなんだ?]

 お見受けする限り、今回の問題について、いわゆるネトウヨ系の人たちは、このホワットアバウティズムを多用しています。
「じゃあ朝日新聞の土地はどうなんだ?」「じゃあ大阪の朝鮮学校はどうなんだ?」「じゃあ国会の無断欠勤はどうなんだ?」「他にももっと審議すべき問題がある!」
 実際に、ツイッターで検索をかけてみてください。ホワットアバウティズムの例を、実に多く見つけることができます。

「ホワットアバウティズム」の誘惑と実態
 実は、このやり方というのは、いちばん簡単なんです。かく言うぼくも、過去にこのブログやツイッターにおいて、この手の言い返しを使ったことは何度もあるわけです(その点の自戒の意味でも、この文章を書いているのです)。
このやり方は、非常に便利です。なぜなら、防御と攻撃を同時に行えるからです。
 自分サイドの問題について突っ込ませず、なおかつ相手の弱みを突ける。一挙両得の手法であり、たいへん使い勝手がいいのです。これは何も、今回の森友学園の問題に限らない。とても広範に使われる手法で、相手を煙に巻きたいとき、実に重宝します。


 しかし、この手法には問題があります。
 なんというか、建設性に乏しいのです。
「おまえサイドにも問題があるのだから、この件について触れるな」という態度は、根本的な解決を生みません。「お互いに探られたくない腹はあるだろう」と、クリンチに持ち込んでやりすごす態度は、何も発展性がないのです。ゆえにこの手法は、「その場の論議に負けたくない」場合に絶大な効果を発揮する反面、あまり建設的な議論を生み出さないのです。このホワットアバウティズムという手法を煎じ詰めると、実に意味のないやりとりに行き着きます。

A「○○は問題だ! 追及するぞ!」
B「ふん、じゃあ、地球規模の環境汚染についてはどうなんだよ?」
A「は?」
B「おまえの扱っているのは所詮は小さな問題だ。この世界には大きな問題が横たわっている。地球規模で進む環境汚染について論議せず、そんな小さな問題にこだわるのか? もっと論じるべきことはあるはずだ!」

 ちょっと飛躍的に映るかも知れませんが、ひたすらホワットアバウティズムで矛先をかわしてみてください。ホワットアバウティズムを多用していくと、(それが環境問題かどうかは別として)最終的には実りのない部分に辿り着いてしまうのです。

「○○について批判するんですね。じゃあ、××についてもお願いします」というのは、どこかで一度くらいは見覚えのある言い回しでしょう。
 しかし当然ながら、人や組織の動ける範囲には限界があります。すべての問題について平等に追及することなどできません。
 だからこそ、それぞれがそれぞれの問題意識の中で、追及していけばよい。ホワットアバウティズムで逃げていては、ある問題についてきちんと取り組むことができなくなります。「じゃあ××についてもお願いします」というなら、「じゃあそれは君がやってね」で終了です。
 ホワットアバウティズムを仕掛けて、言ってやったとにんまりするのがゴールというのは、どうにも発展性に欠ける論議です。

これは誰の問題なのか?
 さて、ここで冒頭の森友学園問題について戻りますけれども、ぼくにはとても大きな疑問があります。なぜ右派は、あるいはネトウヨ系の方々は、この問題について触れるのを避けたがるのでしょうか? ホワットアバウティズムで逃げたがるのでしょうか?

 今回の件では、いわば「愛国」的な学校法人が問題となっています。であればこそ、日頃「愛国」とか「日本が好き」とかってことを言明なさっている方は、なおいっそう批判すべきなのではないでしょうか。なんなら左翼の方以上に、「愛国者を騙りながら、いいかげんなことやってんじゃねーぞ」と、息巻いてもいいはずなのです。

 問題となっている学校法人が、国家の財産たる国有地を不当に安く購入した疑いがある。
 その法人の幼稚園では、登園する園児や保護者に対して、虐待的・差別的言動を行っていた疑いがある。なればこそ愛国者は言うべきであります。「愛国者の面汚しが!」と。
 民進党や共産党など、「愛国者」の方々が「反日」と罵る相手に任せるのではなく、「愛国者」の筆頭たる自民党のほうこそが、この問題を激しく追及してもよさそうなものです。「日本政府の代表者たる安倍首相の名を使って、疑われるようなことをするな!」と、威勢良く森友学園に突っかかってもよさそうなものです。
 
 しかし、それはしない。やるのは、ホワットアバウティズムの繰り返し。
 ぼくには本当に、その一点がわからない。
 この問題を、朝日新聞や民進党になど扱わせるのではなく、産経新聞や自民党といった「愛国」的組織にこそ糾弾の先頭に立ってもらいたいし、ネトウヨ系の皆さんも怒りにたぎるべきなのです。しかし、それはしない。本当に、なぜなのでしょう?
 これは徹頭徹尾、愛国者の問題なのです。民進や共産や朝日新聞ごときに、先鞭をつけられてどうするのです。
 
憲法改正、教育無償化の問題
 近頃に進んでおります憲法改正論議。その重要項目のひとつとして、教育無償化というのが上げられております。法律で整備できるのだからそれでいいんじゃないかと個人的には思うのですが、自民党、日本維新の会、民進党細野グループなどは、「教育は国の柱」と考え、法律ではなく憲法に書き込むのだというお考えのようです。

 なるほど、実に高邁な考え方です。
 
 はて、そうなるとぼくには疑問です。それほどまでに教育に熱心な各党の方々が、どうして今回の問題、それも「愛国」を旨とする学校法人に関して、ほおかむりを決めているのでしょうか。そのような学校で差別・虐待的言動があったなどとすれば、教育無償化の憲法改正を進めようというほど熱心な方々は、いの一番に注視すべき問題でありましょう。国を愛するなどと言いながらそんないいかげんなことをしているのか、獅子身中の虫ではないかと、誰よりも早く駆けつけて、事態を精査すべきでありましょう。

 だが、断る。それはしない。

 なぜなのか。
 合理的に考えると、実に恐るべき結論が導かれます。

 自称「愛国者」は、愛国者ではない。
 教育無償化の憲法改正を訴える人間は教育に興味がない。

 領土問題についてうるさく叫びながら、国有地の不当廉価売却を無視。
 教育について憲法改正を主張しながら、教育現場の問題を無視。
 では、彼らは何に興味があるのか。

 自分は国を愛しているのだ! と叫ぶ美しき自己像。
 自分たちの力で憲法を変えるのだ! と叫ぶ逞しき自己像。
 それ以上のものは、何もない。理想の鏡に、現実は映らない。

 まさか、よもや、そんなはずは。そんなはずない!

 でも、実際にそうなんじゃないか?

 最後に
 昨年に発生した相模原障害者施設事件について、先頃、犯人の鑑定結果が公表されました。いわく、「自己愛性パーソナリティ障害」。自分は特別であり、他者に危害を加えても許されるとまで考えたであろう犯人の姿に、今の日本の「愛国」と重なるものを見てしまいます。ニッポンすごい! 中韓は死ね! と叫ぶ、自称「愛国者」の姿と。

 あれ?
 そういえば。
 あの犯人も、「愛国」的な思想に、共鳴していたそうで。


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 ツイッターなどを眺めておりますと時折、小学校のかけ算に関する議論が観測されます。

 Q.りんごが3こずつ、4つのおさらにのっています。ぜんぶでいくつでしょう?

 これに対し、

 A.3×4=12

と書いたら○がもらえて、4×3=12だと×にされてしまう
そんな報告がネットに上がり、一悶着が起こるわけです。

当然ながら数学的には、両方とも正解です。ではなぜ×にされてしまうかといえば、算数における「意味理解」の段階というものがあるそうで、小学校の先生の中にはその辺でこだわりを持つ方もいらっしゃるようなのです。

 この問題には、とても簡単な解決策があるように思います。

 前提として、両方を○にしたうえで、次の授業で議論の時間を設ければいいのです。

 教師が生徒に対して、「3×4って書いた子と、4×3って書いた子がいるけど、どっちが正しいのかな?」などと発問してみる。すると中には、「どっちでもいいに決まってるじゃん」と聡い子もいるでしょうし、「3×4が正しいよ!」と主張する子も出てくるでしょう(大人たちのツイッターがそうであるように)。

そこで、「4×3」と書いた子が発言してくれるようなら、どうしてそういう風に式をつくったのか、答えさせてみればいい。あるいは教師サイドから、4×3だとどういう解釈ができるのかを考えさせてみればいい。

 そうやって時間を割いたうえで、「なるほど、かけ算の場合はどちらでもいいんだね」という風に結論づけておけば、数学的正しさは無傷で留まるし、子供は子供で、自分とは別の見方、捉え方に気づけると思うのです。

 これを広げて考えれば、よく言われるような話、「正義と悪」の二分法ではなく、「正義とまた別の正義」のような政治哲学的テーマにまで、教育の機会を与えられるのです。いわゆる「多様な見方」というものを獲得できる機会になるはずで、単に算数の問題に収まらない、実りのある議論を築けるわけなのです。

子供を教育するというのは、そういうことではないかと思います。
 安易に「どちらでもいいんだ」と提示するのでもなく、「こちらが正しい」と決めつけるのではなく、双方の視点からものの見方を示すこと。そうやって、算数に留まらない思考の幅を広げること。それがまた、算数そのものの理解をも深めるはずなのです。

かけ算の順序はどちらでもいい。ただし、どうしてどちらでもいいのかをちゃんと考えさせること。その機会をしっかりと与えること。

 この議論における最終回答は、以上をもって決したのではないでしょうか。

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 先に断っておきますが、ぼくはここでネトウヨ批判をしたいのではありません。ネトウヨの人と喧嘩する気もありません。その人たちが何を考え、どうしてネトウヨでいたがるのかを分析してみたいのです。「ネトウヨはいかにしてネトウヨであり続けるか」が本稿のテーマです。誰に頼まれたわけでもないのにネトウヨでいるということは、そうすることが本人にとってプラスになると感じているからでしょう。では、どういう点がプラスになるのか。ぼくが考えたいのは、まさにそこなのです。今からいくつもの指摘を行いますが、おそらくネトウヨ的な人で、一つも当てはまらないという人はいないと思います。ネトウヨがネトウヨでいたいと思う理由はきっと、次のいずれかです。それではさっそく参りましょう。

① 帰属意識
「日本が好き!」とわざわざ言明する心性は何なのでしょう。好きなものを自己紹介するのは別段おかしなことではありませんが、なぜわざわざそれを言おうと思ったのか。好きなものは無数にあるはずですし、長年日本で暮らしていればむしろ、わざわざ言う必要はなさそうに思えます。現に、日本で日本人同士で自己紹介するとき、わざわざ「僕は日本人です」と言ったりはしない。その場所にいながらその場所のことを好きだとあえて言うのは、「帰属意識」が高いことの表れであるように見受けます。そして、その帰属意識の高さゆえに、排外主義と結びつきやすくなる。あなたは日本人なの? あなたは日本が好きなの? と、自分の帰属スペースの純粋性を保ちたくなるのではないでしょうか。強硬な外交を望むのも、自身の帰属先の輪郭がくっきりするように思うからではないでしょうか。裏を返すと、他の部分での帰属意識に不安を抱えている可能性もあるように思います。自分の家族、友人、学校、会社、サークル、街。エトセトラ。いわば「居場所」のようなものを求めたいけれど等身大では満たされず、一足飛びに大きな共同体=国家を愛するという言明に結びつくのではないかと、そんな可能性も指摘できます。

② 承認意識
 人は何かにつけ「居場所」「帰属先」を求めるものですが、それを「国家」と結びつければ、ある面でとても安心できます。学校という共同体はいつか卒業しなくてはならないし、今の職場が好きでもいつ変わってしまうかわからない。反面、国家は過去も未来も長年にわたって存在するものであり、居場所としては実にうってつけです。居場所としてこれほど安定的で、なおかつ崇高なものはそうそうない。だからときとしてこんなことを言う。「日本に生まれたことを誇りに思う」と。自分が日本人であることが、承認欲求を満たしてくれる。国歌を歌うことの強制を支持したり、沖縄の選挙結果を無視して国防強化を支持したり、ときとして国家主義とも取られる振る舞いは、日本という存在が自分の承認意識と結びついているからではないでしょうか。

③ 使命意識
 帰属意識と承認意識が促すものとしては、妥当な線だと思います。
 自分の居場所、自分を認めてくれるもの。それに対して自分も何かをしたいと思うのは道理で、だからこそときに攻撃的な振る舞いを行う。自分もこの日本社会に対して何かを言いたい、言わずにはいられない、言うべきだ。自分は私利私欲ではなく、この崇高な国家共同体のために発言するのだ。そのような使命意識が①や②から導かれても、何の不思議もありません。
 保守的な言論人として知られる古谷経衡氏によれば、ネトウヨの人々は日本人全体の平均と比べて、高学歴かつ高収入であるそうです。成功した自営業者なども多く見られ、だからこそ社会福祉に対しては割合冷淡な態度を示すのではないか、と彼は指摘しています。
高収入であれば、その使命意識として弱者救済を叫んでもよさそうですが、必ずしもそうではない。弱者救済は、①や②とは無縁だからです。むしろ仕事の成功によって、もっと大きなものを求めたくなる。自分は自分の会社のためにだけ働いているのではない。自分はこの国家のために働くのだ。崇高な使命意識は、さらなる自己肯定を呼び込んでくれる。いや、仮に成功していない人であっても、日本について論じると何か大きなことを言ったような気もするし、自分は日本人としての使命を果たしているのだと自意識を満たせる。①や②や③は独立したものではなく、互いに絡み合ったものと見るべきでしょう。

④ 被虐意識
「中国や韓国は反日的な言動を繰り返している。自分はそれに反対しているだけだ」(③でいえば、「日本人なら反対すべきだ」)。このような物言いを観測することもあります。確かに、中韓は反日的な言動が多い。ではなぜ、ネトウヨ以外の日本人はそこまで目くじらを立てないのか。いや逆に、なぜネトウヨは目くじらを立てるのか。ここには③と絡み合った被虐意識が見て取れる。「自分たちは不当に攻撃されている」という意識が、相手への攻撃的発言を生み出す。書籍でも「中国人に乗っ取られる」系の言説は多いようですし、「在日に支配されている」系の言説はデマも含め、ネトウヨを刺激します。実際に中国は尖閣に船を出しているし、竹島も占領されているわけで、被虐意識を抱く材料は十分にあるわけです。「外国人への不安」というのもこの被虐意識に関連するでしょう。「特に何をされたわけではないけれど、外国人は怖い」みたいな不安感覚です。これが排外主義と結びつかないとしたら、むしろそのほうが不自然と言えるものです。

⑤ 嗜虐意識
 ④と対照をなすこの意識は、簡単に言えば「いじめは楽しい」です。なぜ世間の学校や職場でいじめはなくならないのか。理由はとても簡単。いじめが楽しいからです。それは人間の暗い一側面としてあるものです。それこそ皇帝がサディズム的性愛に励んだ古代ローマの頃から、存在するものです。弱者を叩けば、自分の優越性を確認できるのです。
 ニコニコ動画などで、気に入らない政治家が答弁につまったりすると弾幕を張る。貧困問題で虚偽が発覚するとスレッドが乱立する。そこにあるのは系統だった批判などではない。みんなで叩くのは楽しい、という本音でしょう。みんなが殴ってる。俺も殴っていいんだ。さあ殴ってやれ。これは別にネトウヨ特有のものではないでしょうが、ネトウヨをネトウヨたらしめる炎上的振る舞いのひとつと見受けます。被虐意識が根幹にあるなら、復讐したいと思うのが人情。反動的な攻撃性。復讐の矛先が正しくても間違っていても、大きくても小さくてもかまわない。いや、むしろ小さいほうが、反撃してこないからやりやすい。おい、こいつ、反撃してこねえぞ、もっとやっちまえ、というのはいじめの楽しみ。嗜虐意識。

⑥ 自縄自縛意識
 人はとかく、自分の間違いを正すことに抵抗を覚えるものです。「はい、論破」と得意げに言いたがるその心性は、自分が論破されれば悔しいという心理の表れ。人は誰しも(当然ぼく自身も)、多かれ少なかれ自分の意見に固執してしまいがちなのです。
 とりわけ、自分の意見を言葉にしたときは危険です。
 言霊なんて言葉もありますが、何かを発言するというのはそれだけで意味を帯びるものであります。そして、自分自身を縛りつけやすくなる。人が自分の意見を簡単に変えにくいのは、「それまでの自分を否定することになるから」というのが大きいでしょう。動物的な感覚として、単純に負けたくないというのもあるはずです。
 人は自分の言葉に縛られていく。
 たとえば相手と何か議論になったとする。
 自分はAだと思う。相手はBだと言っている。
 このとき、仮にAに自信がなくても、議論に負けるのが嫌で、ことさらにAだと主張したくなったりする。
 すると、最初はAについて半信半疑だったとしても、だんだんとAであるに違いないと思うようになり、どう考えてもBを否定するしかないとさえ思う。
 そうやって、柔軟性をなくしてしまう。
「自分を否定するのは嫌」という意識。くわえて、「自分自身を洗脳する」意識。
 この二つが自縄自縛をもたらして、たとえやめたくてもやめられなくなる。もう、強硬な主張を続けるしかない。

⑦ 脱宗教の不安意識
 森達也監督のドキュメンタリー『A』『A2』というのがありました。事件後のオウム真理教の姿を追ったもので、そこには事件があっても教団を抜けない信者たちの様子が描かれていました。ぼくは思ったものです。なぜ抜けないのだろうかと。しかし、考えてみればその理由はある意味、とても自然なものでしょう。彼らはむしろ、抜け出るわけにはいかないのです。
 今戻ったところで、自分は社会で「元信者」として見られる。
 今戻ったところで、一般社会で幸せになれるとは思えない。
 だったら、ずっとこの場所にいたほうがいい。
 宗教を抜けろと、外部の人間が言うのは簡単です。でも、いざ入ってしまった人間は猛烈に不安なのでしょう。
 抜けたとして、幸せになれるかと。これは⑥とも関連しますね。
 たとえばそれまで、「支那人死ね、朝鮮人帰れ」とネット上で言い続けた人間がいるとして、その楽しみを奪われるのはすごく嫌だと思うんです。悪いことだとわかっていても、それをやめたら自分の楽しみがなくなってしまう。わかった、ヘイトスピーチはやめると言ってみても、そのあと別の形で今までみたいな楽しみを得られるかは、わかったものじゃない。
 だったら続けたほうがいい。ヘイトスピーチ教を、信仰していたい。
 そういう意識が働いても、何の不思議もないのです。
 
⑧ お手軽意識
 これは書くまでもないことですが、書くまでもないと言いつつこうしてぼくが書いているように、ネットはお手軽です。お手軽に①を、②を、③を、あるいは⑤を満たしうるわけです。ぼくがブログをやめられずにいるように、お手軽な楽しみをやめたくはないのです。



 もちろんこれらは、ネトウヨだけに認められるものではない。「パヨク」にも当てはまることでしょう。しかし、「日本」という国家、郷土、共同体の後ろ盾があればこそ、安心してその活動を続けられるというものです。
 自分は日本を愛している→そんな自分に反対するのは売国奴だ。
その図式を描いた瞬間、①~⑧が一気にその人の脳内を駆け巡り、指は次の一文字を打つためにキーボードを鳴らす。
 以上に述べたようなことが、ネトウヨにネトウヨを続けさせる大きな要因と思われます。

 ご指摘やご意見はありがたく頂戴するつもりでおりますが、日本人たるもの、くれぐれも人と話すときの良識を忘れませぬようご配慮願います。ネトウヨの人たちって下品だな、などと思いたくありません。ぼくはむしろ、ネトウヨの人からいろいろと意見を賜りたいなあと心から思っているところなのです。
 もしもコメント頂ける場合でも、もうひとつだけご注意願います。
 「おまえの言っていることはむしろ左翼に当てはまる」とか、「韓国に言ってやれ」的なものは一切求めていません。④のせいなのか、ネトウヨの人たちに見られがちな振る舞いとして、「話を相手のほうに逸らす」というのがあります。その手のコメントは求めていません。ぼくはネトウヨについて考えているので、それ以外の人たちを対象とするコメントはしなくてもいいです。と、まあ、そんなところであります。

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 最近、「ネトウヨ」について考えています。彼らはどのような思想を持っていて、どのような人間であるのか、考えているのです。自分の思考を整理する意味で、分析を試みたいと思います。と言って、ぼくにはネトウヨの知り合いがいるわけでもないし、仮にいたところでそれを一般化することもできない。定量的な調査をしたわけでもないため、ぼくがこれより述べるのはあくまで印象論に過ぎません。

 いや、あるいはぼくが考えたいのは、少し別のことかもしれない。「ネトウヨがどのような思想の人々か」ということより、「どうしてネトウヨはネトウヨになるのか」「どうしてネトウヨはネトウヨであり続けようと思うのか」についてのほうが、興味がある。その人がなぜ、ネトウヨ的なあり方に駆り立てられるのかを考えてみたいのです。

 さて、先ほどからネトウヨネトウヨと言っていますが、「その用語の定義は何なんだ」ということがよく言われるようです。万人が同意できるのは「ネット右翼の略称」ということでしょうが、その内実となると確かに難しい。そもそも右翼とは、なんてことを考え出すとそれだけでたいへんな作業だし、安倍政権を支持していればネトウヨということでもないし、中韓に批判的なことを書けばネトウヨというのも乱暴です。そもそも、「安倍政権を支持」と一口に言っても、それが経済政策への支持なのか、外交への支持なのか、積極的な消極的かなど、中身は一様ではないでしょう。この用語は実のところ、定義が難渋なのです。

 ただ、ネット上における特徴的な振る舞いから、その定義を試みることはできるかもしれません。たとえばツイッターにおいて、中国人や韓国人、在日外国人を罵倒する発言。それを繰り返す人々はネトウヨだと個人的には思います。中韓の政府を批判するのとは別に、「犯日支那人」とか「姦国人」などというように、あえて漢字をいじくったりまでして攻撃的な物言いをする人は、ネトウヨと言って差し支えない気がします。「パヨク」と言って左翼的言論・政治家を揶揄したり、「嫌韓・嫌中」をわざわざツイッターのプロフィールで表明したりする人も、ぼくが想定するネトウヨの人たちです。中国や韓国、北朝鮮での事件や不祥事のニュースを多くリツイートするのもネトウヨ的振る舞いと思われます。

 もっと言うと、ことさらに「日本が好き」「日本に生まれたことが誇り」などとプロフィールに書く人も、ぼくの想定するネトウヨです。ぼくはこの地球が好きだし、日本が好きだし、両親が好きですが、いちいちそれを書こうとは思わない。多くの人々もそうでしょう。それをわざわざ表明したくなる心性は、ネトウヨ的振る舞いのように見受けます。

 では、支持政党はどうでしょう。ネトウヨで民進党や共産党を支持している人はおそらく皆無で、支持するのはやはり自民党、ないしは日本のこころ、あるいはさらに右寄りの、今は議席を持っていない政党が対象となるでしょう。その中でも支持する政治家は安倍総理をはじめ、特に稲田防衛大臣や青山繁晴議員、片山さつき議員、高市早苗議員といったあたりでしょうか。彼や彼女たちをことさらに応援する発言、リツイートを繰り返す傾向が見られるように思います。そしてそういう人たちは同時に、民進党の辻本清美議員や有田芳生議員などに批判的な発言、リツイートを繰り返すこともあるのではないでしょうか。それをすればネトウヨだ、というわけではなく、ネトウヨの人にはよく見られる振る舞いであるという印象の話です。

 余談ですが、少し興味深い出来事があります。右派のネット局として有名な「チャンネル桜」。ここでは右派的な言論がメインでなされるわけですが、自民党の西田昌司議員への反応が面白いのです。西田議員は人気のコメンテーターだったようですが、あるときを境にYouTubeでの反応が「低評価」ばかりになった。それはいつかといえば、ぼくが記憶する限り、彼がヘイトスピーチ規制にまつわる法案成立に積極的に取り組んだ頃からです。彼は自民党の議員でありながら(少なくとも「チャンネル桜」の視聴者層には)批判的な姿勢をもって迎えられているようです。それが何を意味するかは、ここでは触れません。

 ネトウヨと思しき人々の興味としては、「ヘイトスピーチ規制」「生活保護の不正受給」「パチンコ」「朝鮮学校」「外国人参政権」などのトピックが他にも挙げられるでしょう。歴史問題もそうですね。慰安婦や南京、あるいは領土問題も重要ですし、憲法や靖國神社に関することも大いに関心を惹くところでしょう。むろん、天皇陛下にまつわることもあります。なにしろ話題は多岐に渡りますから、こういう発言をしたらネトウヨだと決めるのは難しい。そこがネトウヨの定義の難しさであろうと思います。

簡単な整理を試みます。

①中国や韓国や北朝鮮が嫌いである。その言動が気になる。
②自民党・日本のこころ・さらに右寄りの政党のいずれかを積極的に支持している。
③民進党や共産党が嫌いである。その党や議員の発言に批判的である。
④歴史認識問題、領土問題に関心があり、中韓の対応に反対する。
⑤保守とされる著名人を好ましく思う。

 以上のような姿勢をネット上で繰り返し発言したり、リツイートしたり、あるいはそれに反対する人々に意見をぶつけたりするのが、ネトウヨであろうと思われます。上の①~⑤のうち、いくつを満たしているかでネトウヨ度は変わるでしょうし、発言頻度の多さやリツイートの頻度なども度合いの要素になるように思います。たとえば③や④を満たすだけではネトウヨではないし、「韓国きらーい」と何気なく書き込んだからネトウヨというものでもない。その種の発言を繰り返したり、攻撃的な発言をぶつけたりするたび、ネトウヨ度は上がっていくでしょう。

 狭義のネトウヨとしては、「①~⑤をすべて満たし、なおかつそれをネット上で何度も、長期にわたり表明している人」ではないかと思います。

 はあ、長くなってしまった。ぼくが書きたいのはこんなことじゃなかったのです。
 これはあくまで準備。
 ぼくが考えたいのは、「ネトウヨはなぜネトウヨであり続けようとするか」のほう。
 次の記事に回しましょう。


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 ふと思いついた疑問の答えが、なかなか出なくて困っています。
 
 最近はAV問題について頭巡らすことが多くなっているのですが、そこに児童ポルノの問題も絡んできたりして、少しややこしさを感じたりもしています。

 ぼくは「表現の自由」を重んずる立場です。
 他者の人権を害しない範囲で、表現は許されるべきと思う。それゆえ児童ポルノについても、たとえば18歳以上の女優が演ずる小中学生のAVがあってもいいと思うし、「非実在青少年」をレイプする漫画があっても、その存在は許容されるべきだと思う(褒められたものかどうかは別として)。後の話を円滑に進めるため、それらをひとまず、「虚構的児童ポルノ」と呼ぶことにします。一方、マイノリティに対するヘイトスピーチ(ヘイトクライム)については、その属性を持つ人々の生活を脅かすものとして、反対の立場です。朝鮮人死ねとか、中国人帰れとか、そういう表現はなくすべきであるとぼくは思うのです。

さしあたり、4つの立場に分類すると、
①虚構的児童ポルノも、マイノリティへのヘイトスピーチもOK
②虚構的児童ポルノはOK。マイノリティへのヘイトスピーチはNG
③虚構的児童ポルノはNG。マイノリティへのヘイトスピーチはOK
④虚構的児童ポルノもマイノリティへのヘイトスピーチもNG

Q1.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?


 ①は表現の自由の原理的肯定派。④は積極的表現規制派。
ぼくは②の立場です。③という人がどういう人かはある意味で興味があります。
②の立場の人というのはそれなりに多いのではないかと、勝手な印象を抱いています。
そしてこの文章は、①と②の人に向けて書いています。

 はて、とここで立ち止まる。 

では、次のようなAVや漫画があったらどう反応するか。

A.「在日朝鮮女を集団レイプ!」   B.「身体障害者を拷問陵辱!」

 正直に言えば、そんなタイトルの作品を目にしたら、ぼくは大いに顔をしかめ、眉をひそめ、唾を吐きたくなるし、あってほしくないと思う。さて、上で①や②を選んだ人は、ここでどう反応するのでしょうか? もちろんそれは、あくまで「虚構的」なもの。本当にそういう人々ではないと仮定します。

 ここで、立場を整理します。虚構的児童ポルノをOKとした人に尋ねます。

①AもBもOK
②AはOK。BはNG
③AはNG。BはOK
④AもBもNG

Q2.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?

 ①を選んだ人に訊くことはありません。徹底した表現の自由肯定論者でしょう。②や③の人はなぜそこに線を引くのか、興味があります。ぼくは④です。

 さて、ぼくはここで困ってしまう。
「レイプ表現や虚構的児童ポルノを許容しつつ、民族的マイノリティや障害者を対象とするポルノを許容しない」という立場は、何か正当な理屈を持ちうるのだろうか?

 当然、そこに絡んでくるのは差別という問題。マイノリティや障害者は、社会的に差別されやすい人々です。彼らを対象とするのはよくない、という意見がまずはある。

 でも、ぼくが例としてあげた架空の作品は、差別を煽動する内容ではない。あくまでもポルノです。「日本人の成人女性をレイプする作品」はよくて、「在日朝鮮女をレイプする作品」は駄目なのか。なぜそう言えるのか(「朝鮮女」の表現が気に入らないなら、「韓国人女性」でも結構です)。「実際のレイプを誘発しかねない!」という意見であれば、レイプAVや虚構的児童ポルノにだって当てはまってしまい、表現規制派と同じ。

 幼女のレイプはよくてAやBは駄目だというのは、どうしても弁護が難しいような気がしてしまうのです。幼女も民族的マイノリティも社会的、生得的少数派だし、幼女も障害者も庇護を必要とする人々です。虚構的児童ポルノをよしとしたうえで、ぼくたちはQ2の④という立場を果たして取りうるだろうか? ①の立場以外で、表現の自由を語りうるのか?

 もう少し掘り下げます。
 レイプではなく、そのものずばり殺人だったらどうなのか? 
 現実の世の中でも、小学校や施設に押し入り、虐殺する事件が過去に起きている。
 
 思考実験として考えてみてください。

A.「女子小学生をレイプ!」 B.「女子小学生を殺害!」
C.「在日韓国人を殺害!」  D.「障害者を殺害!」

 もちろん、すべて架空の設定の作品です。
 さて、Aだけを許すという理屈は成り立つか?
レイプと殺人に、軽重をつけて語っていいのか? BとCとDに差異はあるか?

 さまざまな問いを投げてきたのですが、ぼくには明確な答えが出せずにいます。
 あるいはぼくがここで述べたことは、既に表現の自由/規制論議で語られ尽くしているのかもしれませんが、AV問題を契機にあらためて考えてしまったのです。

 HRN的な、「エロいものは全部駄目だ!」な人たちには必要のない問いでしょう(個人的には、反応頂かなくて結構です)。かたや、ヘイトも含めたあらゆる表現を許容する人たちにも必要ないでしょう(この問いについて悩むまでもないでしょうから)。

 ぼくがお相手したいのは、そのどちらでもない人たち。
 表現の自由を重んじるからこそ、その内省を求められる人たち。

 さて皆さんは、表現の自由というものにどう向き合うのでしょう?
 とりわけ訊きたいのは、Q1で②を選び、Q2で④を選ぶ立場について。果たしてそんな立場は成立するかということ。

この仮定はまったくあり得ないものだとぼくには思えない。もしも虚構的児童ポルノを許容するなら、それ以外の作品群も出てきかねない(もしかしたら既に流通しているかもしれない)。その状況がもしやってきたら、どういう構えをとる? 一時期流行ったサンデル教授じゃないですが、この問いは多分に社会哲学的なもののように、ぼくは勝手に思うわけであります。

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 伊藤和子弁護士率いるHRNがこの半年ほど、AV規制にまつわる活動を活発化させています。その報告書にはDMMの名前も挙げられ、我が愛する恵比寿★マスカッツとも決して無縁ではありません。既に多くの方々がHRNの問題点を指摘していますが、あらためて今回、「HRNには人権を守る気などさらさらない」ことがはっきりしたように思います。一般に示された報告書には数多くの問題があるのですが、すべてに触れるのはどうにも難儀であります。端的な事例をもとに、「HRNには人権を守る気がない」ことを指摘したいと思います。

 前提として申し上げますが、かねてより彼らが問題視するAV強要、そして児童ポルノというものは、それ自体許されるべきものではありません。ゆえに、彼らが本当にAV強要被害をなくしたいと考え、真摯に児童ポルノ問題に取り組む団体であるのならば、僕はその活動を応援したいと思います。被害者の人権は守られるべきものに相違ありません。ところが実際、彼らのなしていることはまるで真実性を帯びず、真摯に人権問題に取り組むものとは到底言えない。そのことを述べていこうと思います。ありていに言えば、HRNは人権の敵と言わざるを得ない状況です

 9月5日付で発表された報告書では、「児童ポルノ」についての問題を取り上げています。児童ポルノとは簡単にいって「18歳未満の少年少女を被写体とする、性的要素を含んだ事物」のことを差します。ところで、それが18歳未満を連想させつつ、実際は18歳以上の出演者である場合はどうなのでしょう。あるいはそれが漫画の場合はどうなのでしょう。この点においては議論の余地を残すところかもしれませんが、HRNはそうしたものも広義の児童ポルノに含めようとしているようです。オーケー。わかった。だったら、その目線でとりあえずは考えてみましょう。HRNの目線に立ったうえで、HRNの問題点を指摘しましょう。

 さて、9月5日付で発表された報告書においては、HRNは複数のAV作品を取り上げ、「児童ポルノの疑いがある」ものとして示しています。その作品はタイトルに「小学生」などと銘打ったものであり、なるほど字義通りに受け取れば、悪辣な児童ポルノということになります。実際は成年の出演者であっても、「小学生」であることを強調するのは、もしかしたら問題のあることかもしれません。オーケー。HRNの言うとおり。仮にそうだとしましょう。

 その点を加味しても、この報告書には、非常に大きな問題があります
 一般向けの報告書は伏せ字になっているものもありますが、十分に作品名を特定できるものも複数掲載されています。ちょっと検索すれば、数秒のうちにどの作品を差しているのかわかってしまいます。
 そういえばHRNは今年に入ってから、AV強要について盛んに主張していました。強要被害を受けた女性に寄り添い、その個人名も作品名も公表しない方針を貫いていたはずです。それがなぜここにきて、すぐに作品名がわかるような報告書を出したのか。
 
 その作品に出演した女優が、強要被害を受けた可能性はないのでしょうか。HRNが本当に強要問題に真摯に取り組んでいるのなら、真っ先にそのことに配慮を向けるはずです。そして強要被害を受けていたと判明したら、作品の名前は出すべきではない。少なくともHRNは、そのような方針でいたはずです。

この一点を取ってみても、彼らは強要被害について真剣に考えてなどいないのが、はっきりしています。また、もしも本当に児童ポルノであるならば余計に問題であり、彼らは18歳未満の出演者を特定できるような報告書を仕上げたことになります。
 
 いや、待てよ。そうか。なるほど。

 HRNはきっと、当該作品の出演者に関して年齢などの調査を細かく行い、強要被害もないと断定したうえで、報告書に作品名を挙げたのでしょう。そうでないと、ことの筋目が通りません。あの大変高名で聡明なHRNが、いい加減な団体だということになります。まさかそんなはずはない。

 ところが。

 実際はその形跡がまるで見られないどころか、むしろ報告書において、出演者への聞き取りなどなんらしていないことが明らかになっています。ある作品については成年の女優であることが判明していますが(ド素人が一分もかからずに確かめられます)、HRNは実在も不確かな小児科医の診断として、「小学校高学年の可能性もある」などと表記しています。

 と、いうことは。

 HRNは作品名を特定可能な形で表記しつつ、出演者の情報も特定できていない

 と、いうことは。

 その女優が「強要被害者であった場合の二次被害」の可能性も考慮せず、「仮に18歳未満であった場合の二次被害」も考慮せず、そのうえで出演者を特定できる形で、報告書を出したことになります。人権被害に加担する可能性があるわけです。

 だとすると、きわめて残念な結論が導かれる。
 HRNはAV強要問題にも児童ポルノ問題にも、真剣に取り組む気がないということです。人権を守る気がないのです。そのくせいっちょまえに、「児童の権利を考えて」などと言い、「出演者の二次被害、法令違反を防止するため」、出演者の情報を非開示にする、などと言っている。というかそもそも、本当にその気があるならば作品名を出すべきではない。AV強要についても、彼らには被害者を救う気がないというのは、以前の記事で述べたとおりです。

 こういういい加減な団体があると、本当に真面目に活動している人権団体にとっても有害でありましょう。だからこそ、HRNは人権の敵なのです。まるで、差別が目的のくせに愛国を標榜するどこかの保守団体のように。

この手の連中がいちばんたちが悪いと、個人的には思います。本音は別のところにあるくせに、さも立派な大義名分を掲げて活動し、いかにもそれらしく振る舞う。しかし根底のところで真摯ではないから、いたずらにそうした主張自体のイメージを毀損し、本気でその問題を考えている人々の邪魔になる

 なぜ堂々と言わないのか。
 ポルノが嫌いだ、ポルノを規制しろと堂々と言えばいい。ハードなポルノは嫌いだから規制しろと言えばいい。成年であっても漫画であっても、児童を連想させる表現は全部駄目だと言いたいなら言えばいい。表現の自由を縮めたいと、堂々と言えばいい。

 ついでにレイシストもそうだ。愛国とか保守とかそんな笠を着なくても、差別が目的なら堂々とそう言えばいい。自分が本当に真剣に心から差別をしたいなら、その態度を表明すればいい。それでどんなに批判されても、自分が正しいと信じるならその道を行けばいい。

 おわかりか。

 彼らは自分自身の主張に対してさえ、真摯ではない。
 彼らは自分自身の欲望に対してさえ、真摯ではない。

 HRNは、一刻も早くあのいい加減な報告書を取り下げるべきです。人権問題にとって邪魔です。HRNは「いいかげんな団体が人権問題の邪魔をしている」ことについて、真剣に取り組むべきです。

 DMMもDMMだし、IPPAもIPPAです。ひとまず引くのはいいとしても、相手はいいかげんな主張で突っかかってきただけなのだから、ちゃんと毅然と対応してほしいものです。

 まだまだ問題点は多いのですが、全部書くのはあまりにも難儀なので、この辺で。

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『シン・ゴジラ』がどうしてぴんと来なかったのか、について、前の記事で思うところを述べました。言ってしまえば、「てめえの問題だろ」ということなのですが、それで終わるのもいささか詮ないように思いまして、こちらではもう少し映画のほうを向いてみたいと思います。自分は本作を楽しめたぞ! という方に、教えを請いたい気持ちがあります。

 どうしてぴんと来なかったのか、なのですが、考えてみて思い当たる節がもうひとつありました。「否応なく心を鷲づかみにされるような表現」というのを、ぼくはどうも感知できなかったのですね。

 本作は「饒舌にしてきわめて情報量の多い会議シーン」と、「ゴジラの破壊描写シーン」とが、映画全体を構成する大きな柱になっていると見受けました。その中で皆様は、どういうところに心を鷲づかみにされたのだろう、と感じたのです。

 一度ですべてを飲み込むのが困難なほどの情報量。会話のスピード。会議のシーンではびっくりさせられ、圧倒させられたのですが、会話劇の快楽というのをぼくはあまり感じられなかったというか、「情報の速射砲だなあ、思い切ったことをするなあ」と「感心」はしたものの、「感動」を覚えなかったんです。 

 観ながら連想したのは、増村保造の『巨人と玩具』。あの会話劇の早さにかつてのぼくは圧倒させられたし、そのテンポの良さとやりとり自体の快楽に魅せられた。あのときは感動を覚えたものでした。『シン・ゴジラ』の場合はむしろ、「一回で全部聞き取らせてなんかやんないぞ」とばかり、ある意味でリーダビリティを下げている。「観客に追いつかせてやんないぞ」とばかり、ハイスピードの会話劇で圧倒しようとしているように思えた。それはそれで結構だし、その手があったかと「感心」はした。でも、「感動」的なつくりとはどうしても思えなかった。被弾覚悟で申すなら、「それで鷲づかみにしようってのは、安易っちゃ安易な手法じゃないか?」とも感じたのです。

一方、ゴジラの破壊描写シーン。こちらも本当によくできていたと思うし、ゴジラが成長する過程にしても電車の使い方にしても、その手があったかと「感心」させられました。東京の街をさんざんに破壊し尽くすシーンにしても、『巨神兵、東京に現る』の完成形といった風で、世界に通ずる表現であったろうと思います。

 ですが、こちらもまた「否応なく鷲づかみにされる」ようなものを感得できなかった。
 じゃあおまえが鷲づかみにされたものを言ってみろ、と言われるなら、今年の映画でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』がそうでした。大泉洋演じる主人公の恋人、片瀬那奈がゾンビに変異するシーンがあるのですが、あそこでもうぼくは持って行かれた。今までの海外ゾンビものにもなかなか観られなかったような変異の仕方、見せ方で、主人公の命がすれすれの状況に置かれる映画的快楽含め、完全にやられた。なおかつ、そのシーンのあとに連なる東京のパニック描写、タクシーに乗って街を逃げ出すまでのシークエンス。ああ、もうこの映画に抱かれてもいいや、とあのくだりで確かに感じられたのです。こんなのは観たことがない、と素直に思えたんです。

『シン・ゴジラ』において、すごいすごいとたくさんの話は聞こえてくるわけですが、皆さんはどの辺でエレクトしたんでしょうか。批判というのではなくて、素朴に教えてほしいなあということです。喧嘩をする気はまるでありません。自分はこの描写に鷲づかみにされちゃったよ! というのを教えてほしいのです。変な言い方ですが、どの段階で「この映画に抱かれてもいい」と思えたのか。その点についてぜひ知りたい。ぼくはどんな答えが来ても、「なるほどなあ」と言わせてもらいたいと思います(議論目当ての方は求めていません)。


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映画は観るタイミングが大事。今のぼくは本作を求めていなかった。
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 TLを観ても大絶賛、どいつもこいつも大絶賛。完全に今年の大フィーバー映画となった作品ゆえ、ひとまずは観ておかねばと思い、映画館に参じました。正直、ゴジラ感度はもともと低い人間なのですが、面白いものにはやはり触れておくべきであろうという義務感に押され、観に行った次第であります。

先にひとつ申しておきます。自分で書いておいてなんですが、この記事はおよそ映画評の体をなしてはおりません。作品の批評を読みたいなと思う方は、時間の無駄になりますので、速やかに別サイトへと飛んでくださいませ。

さて、『シン・ゴジラ』です。
 ひときわ高い情報密度と、これまたたいへん密度の高い特撮シーン。この組み合わせが熱狂的なムーブメントを引き起こしているのでありましょう。とかくエンターテインメントでは「わかりやすさ」が求められ、「感情移入できる脚本作り」が求められる。本作はその裏をかくかのようにどちらの要素も捨て去り、政治的判断や軍事的考証のリアリティを求めている。そのことが好事家の心を捉え、情報的な読み解きの快楽を与え、オタク的快楽を存分に満たしてくれる作品たらしめているのでしょう。こういう作品をつくるというのは並大抵の情熱ではないはずであり、その点はただただ敬服の限りであります。

 さて、そうは言いつつ、ぼくが鑑賞中に感じたことというのは別にありまして、実のところぼくは何度も、「帰ろうかなあ」と思ってしまったのであります。端的に言って、映画にのめり込むことができなかったのであります(批評的なものを読みたい人は本当に引き返してください)。
 
 しかしそれはまったくもって、映画の出来を起因とするものではありません。上に述べましたように、作品自体は実にあっぱれな傑作であったろうと思います。入り込めなかったのは一方的に、ぼくの問題なのです。

 話は逸れるのですが、かつてぼくは園子温の『愛のむきだし』を観たときに大興奮を覚えました。いろんな人の批評を観たり聴いたりする中で、印象的な評価をする人がいました。それはあの伊集院光さんでして、彼は『愛のむきだし』について、「今の自分はこの映画を求めていない」と仰ったのです。そのときはぴんと来ずにいたものですが、『シン・ゴジラ』を観ている間、ぼくが感じたことはまさにそれでした。ぼくは今、この映画を求めていない。

いやあ、精神的なタイミング、興味のタイミングが悪かったということです。別の折りに観ていれば、もっと楽しめたかもしれないと後悔しています。すごい作品だと頭ではわかっているのに、気持ちの部分でちっともエレクトできなかったのですね。それでもよっぽどしごかれれば勃起するのではないかと思って観に行ったものの、結局ふにゃちんで帰ってきてしまった。

 どういうところでそう感じたのかと言えば、この映画が持つリアリティによるのです。大杉漣演ずる総理をはじめ、政治家や官僚たちがリアリティ溢れる議論をしている。その様を観るにつけぼくの意識は映画を離れ、まさにリアルな方面へと逸脱してしまった。平たく言えば、現実社会の問題のほうに思いを馳せてしまった。

 劇中では日本の防衛ということについて盛んなやりとりが交わされる。アメリカとの交渉の過程が描かれる。ゴジラが虚構の東京を壊し続ける。その様子によってぼくの意識はたとえば、沖縄の高江のほうに飛んでしまった。

 現実では国土防衛の名の下に、アメリカ軍のヘリパッド建設工事が進められ、地元の人々の生活が脅かされるような状況が生まれている。虚構の防衛省が勇ましい判断を下す一方で、現実の沖縄防衛局は警察との協力のもと、反対派の住民たちと軋轢を起こしている。
「現実対虚構」? 悲しいよ。虚構の圧勝だ。現実の問題に国民の関心は向かず、みんなは虚構の怪物相手にわっしょいわっしょいだ。
 
怪物。モンスター。たとえばこの作品が公開される数日前、相模原の障害者施設では実に痛ましい事件が起きた。戦後最悪とも言われる、個人による直接的な殺傷事件だ。現実は現実にそういうモンスターを生みだしてしまった。にもかかわらず、みんなが向いてるのは虚構のモンスターのほうだ。ポケモンとゴジラが、現実のモンスターを覆い隠してしまった。「現実対虚構」? 悲しいよ。ここでも虚構の圧勝だ。

 そのような形で、『シン・ゴジラ』がリアルであればあるほどにぼくは、現実のほうへと引っ張られてしまったのです。リアルであればあるほどに、本作が映画という虚構であることに、距離感を抱いてしまったのです。

 そうなってしまうと楽しめるものも楽しめなくなって、たとえば石原さとみが出てきた瞬間にぼくは思わず小声で「だっさ」と呟いてしまった。CMの女王たる石原さとみでありますが、CMの女王であるがゆえにCM臭がつきすぎてしまったんじゃないかと思われ、個人的な嗅覚センサーに引っかかり続けました。個人的に彼女からはCMのにおいしかしてこないのです。そうであるがゆえに、演技や英語のいかんを問う以前に、このたいへんよくできた映画世界と不調和な感じがして、存在感がださく思えたのであります。
 石原さとみをディスっていると思われたらそれはちょっと違います。ぼくがCMの広告主なら、あるいは広告代理店マンなら、彼女を大いに起用したく思うでしょう。とても美人だし、お金になる人だと思います。ただ、その分だけ……という話です。あくまでぼくの受け止め方のお話なので、彼女のファンの人は噛みつかないでください。

 話ついでにもうひとつ言うと主演の長谷川博己は、本作の特技監督でもある樋口真嗣の『進撃の巨人』のとき、取り返しのつかないくらいださい演技をさせられてしまっており、あの印象がちらついてしまいました。なんで『進撃』メンバーをぼこぼこ使うのだ、と思ってしまいました。

 ことほどさように、完全に手前勝手な受け止め方のもろもろによって、ぼくは本作の良い観客にはなれなかったのであります。一言で言うと、「ああ、もったいないことをしてしまった。もっと前向きな気分のときに観ればよかった」という感を禁じ得ないのであります。映画は観るタイミングが実に大事であると、あらためて思い知らされた映画鑑賞体験でございました。

 …………と、ここまで書いて、あとになってから気になることがでてきました。
 この次の記事で、ちょっと書いておこうと思います。

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 都知事選の結果が決まりました。保守分裂と言われながらも、終わってみれば極右系が勝つというなんとも激しい結果になりました。
 本来であれば野党にも多少の分がある選挙戦だったはずですが、終わってみればぜんぜん駄目だった。
 そのあたりについて、思うところを述べます。

 もし仮にぼくが向こうサイドを支持していたとしたら、鳥越サイドを見てこう思ったでしょう。

 なんてちょろいんだろうか、と。

 週刊誌報道への備えはもとより、決定的にちょろさが見えたのは、宇都宮さんの応援があるかないかということが話題に上ったときです。鳥越さんを応援すべきだ、いやそれは宇都宮さん自身の判断だと、ツイッター上でもいさかいが起こっていました。

 ぼくが小池陣営にいたら、この時点で鳥越への警戒心を完全に解いただろうと思います。
 鳥越はもう相手にしなくていいなと、見きったと思います。
 それは、鳥越支持者と宇都宮支持者で揉めていたからではありません。
 鳥越支持者が「そんなこと」にこだわるほど視野狭窄に陥っていたからです

 はっきり言って、宇都宮さんが応援するかどうかなんてことはどうだってよかったはずです。宇都宮さんがいようがいまいが、無党派層の趨勢に大きな影響を与えることはなかったのです。鳥越陣営がすべきだったのは、ただひたすら無党派のほうだけを見て戦略を練ることだったのです。にもかかわらず、彼らは肝心な最終週にネット討論会も欠席し、クローズドな個人演説会をする始末でした。その姿勢のほうが大問題なのであって、宇都宮さんの件なんかは、副次的なことに過ぎなかったのです。

 ぼくはここに、反自民勢力(リベラル・左翼勢力)の重大な病理が潜んでいる気がしてなりません。キーワードは「悪魔化」、そして「美しく負ける左翼」です。

 「悪魔化」について話しましょう。
 かねてより安倍政権は、ヒトラーだとかファシズムだとか言って批判されることが多くありました。確かに、立法の進め方やなんかについて、問題があるとぼくも感じることが多いです。もしかしたら彼はヒトラー的かもしれないし、そうでないかもしれません。ファシズム的かもしれないし、そうでないかもしれません。

 ぼくが気になるのは、そこじゃないのです。
 ぼくが気になるのは、相手の悪魔化です。
 相手を悪魔化することはたいへん危険です。
 なぜ危険なのか。
 相手を過剰に悪魔化すれば、それと対峙する自分たちを過剰に美化してしまうからです
 ヒトラーがいれば、ヒトラーと戦う自分を英雄視できる。
 ファシズムがあれば、ファシズムと戦う自分たちを英雄視できる。
 この時点で、少なくとも自意識は半分ほどが満たされます。
 勝とうが負けようが、自分は英雄であり、敵は悪魔であるという認識は変わりません
 たとえ負けたとしても、自分たちはその正しさを貫いたと信じられます。
 正しい自分たちの思いは通じるのだと信じられます。
 だからその正しさに酔い続け、戦略に対するかまえがない
 ここにあるのはただ、「美しく負ける左翼」の姿です。

 今回の鳥越さんにしてもそうです。
 小池はヤバイ、増田は駄目だ、宇都宮は非協力的だ。
 鳥越さんは負けたけれど、自分たちは正しい選択をし続けたのだ。
 悪いのは、鳥越さんを支援しなかった奴らだ。
 有権者の多くは小池のヤバさに気づいていないんだ。まったく、困ったもんだ。

 違う。
 鳥越さんが負けたのはただの戦略的失敗です。週刊誌報道後のダメージコントロールにミスったのが大失点。あのピンチをチャンスにすることも可能であったのに、注目の集まるネット討論会は休むし、そのくせ仲間内のクローズドな個人演説会を開くし、どう考えても自ら勝ち目を無くしていったのです。それに気づかず、相手を悪魔化する快感に酔ってしまったがゆえに、支持者たちは味方を増やすどころか、宇都宮さん支持者と喧嘩する体たらくになったのです。

 そろそろ気づくべきです。悪魔化では勝てないことに。

 今後の選挙全般で、野党陣営が勝つための方策は次の二つ。

 価値観の提示と、戦略

 戦略は言うまでもないとして、大事なのは価値観の提示です。
 
 わかりやすいところでいえば、アベノミクス。安倍政権の強みは、アベノミクスの内実ではない。アベノミクスという価値観を提示したことです。自分たちはこの方向で行きます、とはっきり明言し、キャッチ-なパッケージとして示したことです。内実をまったく知らない有権者であっても、「アベノミクスって、なんかしっかりしてそう」くらいのイメージで投票させてしまうわけです。

 安倍の暴走を止めると、野党はおそらく何百回と言ってきたでしょうけれど、そのワーディングでは勝てないのです。
 暴走を止めたとして、そのあとあなたたちはどうしたいの?
 この日本をどのように運営していきたいの?

 その見通しを、一言で提示できる必要があるのです。
 それがなければ勝てないし、それがあれば少なくとも今よりは十分に勝てる。

 悪魔化をやめて、美しく負ける左翼の自己像から、脱却する必要があります。

 でもね、それはきっと難しいんです。

 だって脱却しないほうが、よほど気持ちがいいんですもの。

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公党は公党たるに足る、明確なメッセージを出してください。
 相模原の障害者施設における殺傷事件。この件については個人的な事情もあって、強い憤りと悲しみを感じています(ぼく個人は、被害に遭われた方々の関係者というわけではありません)。

 謹んで、ご冥福をお祈りします。

今回の事件は、明らかに障害者だけを狙った犯行です。犯人の精神状態がどのようなものであるかはわかりませんが、彼らが標的となったことは明白です(ところで、「障害」を「障がい」と記すべきという主張もありましょうが、ここでは漢字表記とします)。

 その意味において、本件は明確なヘイトクライムです。無差別なものではなく、特定の性質を持った人々を狙っている事件としては、戦後最悪のものであろうと思われます。

 にもかかわらず、とぼくは思ってしまうのです。

にもかかわらず、政府ならびに公党各位の反応が鈍い。そのように感じてしまうのは、ぼくだけでしょうか。この事件は無差別なものではない。特定の人々に対する犯罪です。それは個人的な人間関係や利害に基づく殺人とは別種のものです。近代社会が築いてきた「障害者福祉」という理念をも傷つけるものであり、政治家の方々にはより強い批難のメッセージを放ってほしいと、ぼくは思うのです。普段から、道徳や秩序を大切にしようと仰っている方には特に。そして普段から、弱者の権利を大事にと謳っている方には特に。

 むろん、政治家の方々個人はSNS等々で、本件に言及されていると思います。しかし、そこは個人としてでなく公党として、あるいは政府としてメッセージを打ち出してほしい。

 我が国(我が党)はヘイトクライムを許さない。
 障害者の人々を標的にするような犯罪を、我が国(我が党)は断じて許さない。

 そう明言してほしい。この記事を書いている現在、ネット上には発見することができません(もしあれば、教えてもらえるとありがたいです)。知的障害者の人とご家族の方の「全国手をつなぐ育成会連合会」の声明のようなものを、公党には出してほしい。

 政治的テロが起きた場合、政府は速やかにそのような声明を打ち出すじゃないですか。「テロには屈しない」「テロを許さない」「断固としてテロと戦う」 
なぜその勇ましさを、今回は発揮してくれないのか。
 国として、政府として、党としてそのメッセージがあるだけで、わずかでも安心できる人々がいるとぼくは思うのです。ところが今、テレビや新聞を賑わせるのはむしろ、あの犯罪者の呪いの言葉のほう。なぜどの党も、正面からあの呪いを打ち消そうとしないのか。ぼくにはそのことが、輪を掛けて悲しいのです。

 世間では間もなく、ゴジラの映画が封切りとなります。新しい都知事も決まります。ポケモンだって、まだまだユーザーと評判を広げていくでしょう。そうなればまた、世間の注目はそちらに移ってしまうことでしょう。その前に、政府や各党はこの件をもっと大きく取り上げてほしいとぼくは思う。それがたとえ集票狙い、選挙目当てだってかまわない。
 あの呪いを打ち消すメッセージを、もっと放てよ。


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ついでになりますが、この事件に関連して気になるブログの記事を見つけたので、ちょっと話しておきたいと思います(政党の方に向けてのものではありません、あえてリンクも貼りません)。
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 殺人事件というのはドラマや映画なんかで見る限りは刺激的だし、実際に起こった猟奇的な事件なんかにしても、ぼくもまた好奇の目で見つめてしまうことがたまにあります。その被害者のことなんか考えずに、事件の特異性に目を奪われてしまうことはあるし、きっとこれからもあると思います。

 けれど、この事件についてはまだ起こったばかりであり、今もなお重傷を負って苦しんでいる人がいるわけです。あくまで、可能性として、さらなる犠牲が出るかもしれないのです。

それをよ。

 早々とランキングとかにしてんじゃねーぞ。

 第何位とか、数字にしてんじゃねーぞ。

 もしも、今も重傷で苦しんでる人がこのあと死んだりしたら、その犠牲者の数字を書き換えるのかよ。ランキングの順位いじるのかよ。どんな顔してキーボード叩くんだてめえは。おっと、一人増えたのか、書き換え書き換え、とかやるのかよてめえは。

どんなに映画に詳しいか知らねえが、どんなに文学に詳しいか知らねえが、それは今、やるべきことなのかよ? 今、やらなくちゃいけないのかよ? 一ヶ月後じゃ駄目なのかよ? だったらその旨も書き添えてくれないか。ぼくには意図も意味がわからないからさ。
どれくらい深刻なものかをわかりやすくした? それはランキングじゃなきゃ駄目か? それが「男の魂」か?

個人の趣味のことですから、リプを飛ばして突っかかっていく気はありません(反応があればお答えします)。でも、こうして空リプを飛ばすくらいはさせてもらいたいと思います。

ついでと言いながら、つい熱くなってしまいました。

 ヘイトクライムを許さないというメッセージが放たれることを、強く期待します。

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放送に隠されていた問題点
 7月25日放送のNHK「クローズアップ現代+」の特集を、タイミングよくリアルタイムで全編観ました。「AV出演強要被害」の問題についてでした。かなり問題の多い放送だったなあという印象を受け、むかむかし続けているので、ここで吐き出しておこうと思うのであります。

 昨今言われる一連のAVの「強要被害」について、ぼくが認識したのは今年の5月頃。それ以降あちこちでさまざまな見解が語られてきたわけですが、あの問題提起がいみじくもあぶり出した、別の側面があるんですね。「強要被害」が語られることを通して見えてきたのは、社会における「AV業界蔑視」問題。NHKの放送は、完全にそれを描き出していたように見受けます。

 かの放送の内容が、AVへの意図せぬ出演を防止する目的で描かれたものであることは、重々承知しています。ただ、そうであるがゆえに一方的な内容のものであったとも、強く感じるわけであります。

 放送において最も問題があるなあと思った点は、AVあるいはAV業界の良い面が、25分弱の放送の中で、ただの一言さえも触れられなかったところです。いや、今回の放送のテーマは強要被害問題だから、何もAV業界全般について詳しく触れろと言っているわけではない。本来ならまともな業者の取材もするべきだったけど、まあそこは言いません。

 ただ、ただ一言で良かった。

「こういうことがあると、健全に活動している業者も迷惑を受けてしまいますよね」とか、「業界全体のイメージが悪くなってしまいますよね」とか、「こういった悪事はあくまで一部の悪質な業者だけと信じたいんですけど」とか、「自発的に活躍している女優さんもいっぱいいるんですけど」とか、ささやかなフォローがあるだけで、ぼくはぜんぜん違う印象を持ったはずです。っていうか、他の業界のことなら入れるでしょうね、そういうフォローを。
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 でも、その一言すらない。観ている人は、「なんかAV業界って怖いんだね」というイメージを持つだけでしょう。今回の放送で、多くのまともなAV業界人が傷つけられたんじゃないかと僕は思ってしまうし、実際反発している人もツイッター上で見受けました。「ぜんぜん業界蔑視的じゃなかったよ」的に逆張りしてる人とかいるんですが、そういう人は普段からナチュラルに蔑視してるんじゃないかな、と思います。自分の差別意識に、人は気づきにくいものです。


彼女が戦うべき別の相手
 放送では松本圭世という、元テレビ愛知アナウンサーの女性が証言者の一人として登場していました。彼女は騙されてAVに出演してしまい、アナウンサーの職を追われてしまい、今は被害に苦しむ人たちを応援する活動をしているそうです。

 はて、ぼくにはひとつ、たいへん大きな疑問があります。なぜ、彼女は職を追われる羽目になったのでしょうか。構図としては、彼女はまあいわば、レイプされてしまったような格好のわけですね(実際は性的行為を行ってすらいないようですが)。で、そのレイプ被害者の彼女が、レイプにあったということで職を追われたと、そういう話なんでしょう? 確かにそりゃ、レイプ犯はよくないです。ここは強調しておきます。でも、レイプされたからとやめさせられるなら、それもまた大問題でしょう。それじゃまるで、イスラムの姦通罪、名誉殺人じゃないですか。
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 なんでそんなことが起きるかと言えば、AV自体を悪いものだと決めつけているからでしょう。AVに出た人間はアナウンサーでいる資格がない。そのようにして、AV女優を差別しているわけでしょう。そういう捉え方が、彼女を傷つけることになったんじゃないのかとぼくは思うわけです。だから彼女が戦うべきは、そのAV業者と同時に、雇われ先のテレビ局であったはずだし、あの放送に出ていた弁護士さんがもしも本当に人権派だというなら、そんなことでやめさせるなと憤るべきなんです(放送では一切言わなかったね)。

 繰り返します。AVの強要を擁護するつもりはない。でも、放送に出ていた匿名の証言の傷をさらに深くしたのは、AVへの蔑視でもあるんじゃないかと思えてなりません。「レイプまがいの事件に巻き込まれた」辛さのうえに、「AVなんていう醜悪なものに出てしまった」という価値観が乗っているとしたら、後半部分については緩和しうるものだろうと思うのです(くどいようですが、レイプまがいで出されたビデオを放置してよい、と言っているわけではありません)。
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 そうでなければ。

 AV女優はこの先も、ずっと蔑視され続けてしまう。AV強要被害が仮になくなっても、「AVに出たら人生終わり」みたいな価値観が残存していたら、AV女優の人たちは不当な蔑視を受け続けることになる。ぼくにはそれがどうしても許せない。強要被害がなくなれば蔑視はなくなるか? そんな風には思えない。強要被害の実態が出る前から、蔑視はあったじゃないか。だからアナウンサーは辞めさせられたんでしょう?

 いいじゃないか。AVに出ていたって。

 その言葉が、もっと必要だと僕は思うんです。



声優さんの件
 今年の4月には、人気声優さんがAVに出ていた、出ていないという件で話題を集めました。そのときには「AVに出ていたなんてショックだ」という反応が、ネット上で見受けられたと記憶しています。本人は否定しているとのことでしたが、ぼくはそれを聞いて、「ぜんぜんかまわないじゃないか」と思いました。声優が紅白に出るのはよくて、なんでAVに出ちゃいけないんだ? 

 はっきり言って、「AVに出てたなんてショック」と感じるその感じ方自体が、(もし仮に本人だったとして)彼女を傷つけることになると思います。もしもあなたが本当に彼女のファンだというなら、鼻息荒く出演を否定するのではなく、「AVに出ててもぜんぜんいいじゃん」「AV出演なんて、攻めてるじゃん」と鷹揚にかまえればいい。それができないということは、あなたは彼女を、そして何千人のAV女優をも傷つけているということです。差別に加担しているんです。仮に本人の意思に反しての出演ならば、その点には問題があるでしょう。でも、彼女自身の価値はなんら毀損されないということです。

 伊藤和子弁護士、もしあなたが本当にAV強要の被害者を救いたいと、もし本当に思っているなら、今やっていることのある部分は、完全に真逆です。「AV強要被害をなくす」ことはできたとしても、「AV強要被害に遭った」人たちは救われません。なぜなら、AV出演自体を悪いもののように捉えているからです(そうでないというなら、今回の放送でなぜ一言も、AV業界をフォローしなかったのか)。

被害者を本当に救うために
 AVに出た過去は消えないし、たとえ作品の流通を止めても、その人の中には記憶として残り続けるでしょう。その人を本当に救うには、「AVに出たなんて恥辱だわ」という感覚を取り去ってやることです。そのためには、AVに出ることはなんら悪いことではないというメッセージを放つことです。AV蔑視のある限り、その人は永遠に救われません。そんなメッセージは放てないというのならば--断言してもいい--あなたはその人を救う気がないんだ。自分の差別精神と偏狭な価値観が大事だから。

 こういう話をすると、「もし自分の娘が」的な反応も考えられますので、言っておきます。僕に娘はいませんが、仮にいたとして、もしも本人が自分の意思でその道を選ぶというならまったく止めようとは思いません。よく考えろとは言うかもしれませんが、それはどの業界であっても同じだし、本人の生き方次第でしょう。もしも強要されたら? その場合は憤るでしょう。でも、強要されたら別にAVに限らず、何でも怒るんじゃないですか。むりやりコンビニで働かされようが、むりやり会社に内定させられようが、むりやり政治家にさせられようが、強要ということそれ自体に僕は怒るでしょう。強要自体が、人権侵害なのです。職業は関係ありません。
 世間の方々におかれましてはどうか、「出演強要」と「出演自体」を切り分けて捉えてほしいと願います。「出演強要」をした人間には問題があっても、「出演自体」を行った本人には問題がないし、むしろAVは映画にもテレビにもできない魅力的な表現を行っている媒体なのです。ぼくはAVでヌくたびに、女優へのリスペクトを感じてやみません。

「AV出演強要」問題について、もしあなたが部外者なら(ぼくもですが)、解決することはできません。でも、AV蔑視問題については解決しうる。あなたがやめればいいのです。見方を変えるだけなのです。ひいては、(あるいは逆説的に思えるかもしれませんが)被害者を救うことにもなるでしょう。できることを、してほしいと思います。
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 知事選。
 参院選からすぐということで、東京はまだ政治の夏が続きます。くわえていうに、小池百合子さんが出馬した関係で、10月には東京10区の補選があります。この10区はぼくの居住地でもありまして、いやはや政治の季節が続くのであるなあと、気もそぞろになるのであります。

 さて、選挙においては「投票率問題」、「無党派層の動向問題」が話題となるのが常であります。直近の投票率が低かったのは単純にマスコミの報道が少なかったせいも大きいのでしょうが、ではこの投票率を上げるにはどうするか、ないしは鍵となる無党派層を動かすにはどうするかについて、考えてみたいと思います。

 普段、政治に興味がない人に対して選挙に行けと言っても、なかなか能動的なアクションにはなりません。なにしろ、政治にも政局にも興味がない人たちです。選挙とかうぜえ、という人たちです。では、彼らの票を取り込むにはどうしたらいいのでしょうか。

 これには簡単な解があるように思うのです。
 それは、「ものすごく身近な題材を公約に盛り込む」ということです。

 個人的な話になるのですが、ぼくは大学一年の頃、大学の自治会選挙の選挙管理委員長というのをやったことがあるのです。と言っても、当時のぼくには自治会が何なのかも、その選挙がどういう意味を持つのかもまるでわかりませんでした。たまたま新入生向けのお祭り的なイベントで知り合った自治会の人がいて、委員長をやったら5万くれるというので、何も考えずに請け負いました。

 確か2週間程度の仕事でしたが、ぼくは政治にとんと無頓着で、何党が右なのか左なのかもよくわからなかった。休み時間の教室に押しかけ、学生に投票を促すのですが、それが何を意味する投票なのかさえわかっていなかった。ただ、「5万あればプレステ2が買えるなあ」というだけの理由で、管理委員長をやっていたのです。

さて、ある日のことです。構内に建てた選挙告知用のテントで、何をするでもなく待機していたときのこと。女子学生の二人組がやってきて、ぼくにこう言ったのです。
投票したら、構内の携帯の電波がよくなるんですかぁ?

 なぜそんなことを訊かれたのかもわかっていなかったのですが、おそらくは自治会選挙の公約か何かに、そんなことが盛り込まれていたのでしょう。そのときのぼくはたぶん適当なことを言って、投票を促したりしたんだと思います(繰り返し申しますが、ぼくは本当に何もわからずに委員長職に就いていたのです)。

それきりぼくは自治会と何の関係も接触もなく過ごしたのですが、そのときの出来事はなぜかいまだに覚えている。

 投票率を上げるために大事なのはきっと、あの携帯電波を気にした女子学生のような、彼女が感じたような身近さなのです。どうです? 今の話でも、「5万あればプレステ2が買えるなあ」のあたりが、リアルなものに思えませんか? 要はそういうことです。

国政にしろ都政にしろ、トピックはどうしても大きなものになる。何々の分野に大規模な投資をするとか、何々の制度を拡充する方針だとか、何百億円規模の予算をどうするとか、そういうことばかりがどうしても中心になります。そうでなければ、今の政権与党が駄目であるということを説いたり、改革が必要だと説いたりですね。いずれにせよ、政治に無関心な層の肌感覚には、ちっともあってこないのです。

 こんな話があります。投票率が1%下がるたびに、若年層は13万5千円の損をしているのだと。その試算がどれほど正しいかは置くとして、このメッセージがどれほど有効なのかも疑問なのです。だって、肌感覚に表れてこないんです。家に来られて13万5千円持って行かれるようなら誰でも投票するでしょうが、政治に関心がなければ絶対ぴんと来ません。仮想の13万5千円は、目の前の500円にも劣るでしょう。

 投票率を上げるには、特に若者のばあいは、もっとわかりやすく、肌感覚でわかるような主張が必要だろうと思うのです。

 その意味で言うと、小池百合子さんはいい線ついているんです(ぼくは彼女の支持者ではありません。念のため)。彼女は今回の都知事選で、満員電車ゼロを目指すと言っている。これなんかは、通勤通学をする人の多くにとって、実にわかりやすいメッセージなのです。それが実現可能かどうかは別としても、このメッセージには有効性があるように思うのです。うまいメッセージだなあと思うのは、満員電車が毎日利用するものであり、多くの人の耳に触れやすいことだというのもあります(支持者の人は、電車の中で毎日このことを広めていくのがいいでしょう)。小池さんの陣営は組織的支持を期待できない以上、無党派に浸潤する身近な題材を取り上げている。その辺は、策士だなあと感じます。

 選挙に行かない層、無党派層を巻き込むには、とにかく身近な話題を広めていくことだろうと思うのです。その点で行くと、鳥越さんの「ガン検診」みたいなのは、高齢者層にとって響きやすい話題だと思います。福祉の充実とかそういう言い方よりも、ピンポイントで引っ張りやすいフックを提供するのは、大いにアリだと思います。新党改革で出馬し、30万票近くを得た山田太郎さんは「オタクの味方」というイメージで注目を集めています。「中学生でもわかるメッセージが投票行動を促す」というのも、鍵のひとつではないかと思います。

 いろいろ書きましたが、「わかりやすさ」が大事なんですね。
 ぼくが候補者だったら、と勝手に考えてみます。
 ぼくだったら演説で、「給料! 介護! 待機児童!」の三つを柱に、わかりやすく押すでしょう。やはりメインのビッグトピックが必要になります。それプラス、満員電車ネタみたいな、肌感覚に訴えようとするでしょう。

 それでいて、細かい数字はあまり言わない。数字の話は伝わりにくいので、主張の説得力を支えるふりかけ程度に用いるでしょう。
 金科玉条的に、「三つの柱」みたいなパッケージを連呼するでしょう。肌感覚や趣味感覚に引きつけて、オタク系の話題も横にまぶしておくでしょう。政治には興味がなくても、情報にはそれなりに敏感な層向けのマニフェストを組み入れるのです。

野党が与党に勝てずにいるのはなぜか。
 アベノミクスが立派だからじゃない。アベノミクスみたいな「わかりやすいパッケージがない」ことなんです。近頃の政治は候補者の知名度がものをいうと言われますが、結局のところは「パッケージ・ポリティクス」ではないのかとも思うのです。

 今回の都知事選は誰が勝つのか、三連単が見極めづらい選挙です。
 その中で抜き出るには、ワンイシューでもツーイシューでもかまわないのですが、わかりやすい身近なネタと、わかりやすい「パッケージ・ポリティクス」を活かすのが鍵じゃないかなあと、政治の夏にふと芽生えた雑感でございました。

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 参院選。三宅洋平さんを応援していましたが、負けてしまいました。
 民進党の小川敏夫さんが当選したのはよかったと思います。

 ネット上でも路上でも、誰より話題を集めていた三宅洋平さんが、なぜ負けてしまったのかについて、考えてみたいと思います。

 開票後の記者会見で彼は、ユーモア混じりに「ひげを剃れなかったことですかね」と言っていました。自分のスタイルが受け入れられなかったことが敗因だ、というのが、ひとつの自己分析なのだろうと思います。

 彼の言っていることには、頷ける部分も多いのです。
「見た目だけ小綺麗にしながらろくなことをしない議員なんか駄目だ」
「社会に出るなり、画一的なスタイルを強いられるなんてうんざりだろ?」
「自分らしくあれる社会をつくろうじゃないか」

 言い方は違うにせよ、彼の演説ではそのようなメッセージが発されていました。

 この発言には納得する人も多かろうと思いますし、彼のもたらしたエネルギーというのは多大でありました。

 ただ、です。

 自由なスタイルにはどうしても、裏付けが必要になるんですね。そして、これまでにないスタイルの人間は他の人間と比べて、その主張や人間性を厳しい目で見られてしまう。
 彼が負けたのは、そのスタイルゆえではない。
 目立つ分だけ、つっこまれる部分。そこへの配慮がやはり、足りなかったんです。

 彼は選挙期間中、SNSや電話による投票呼びかけを聴衆に訴えていました。
 彼が足りなかったのは、そのあとだったんです。
 そのあとへの想像力と言うべきでしょうか。

 彼を応援する人が、SNSや電話で広めたとする。すると、「三宅洋平」の名前を知る人が増えて、その名前を知った人の多くはネット上で、彼の人となりを調べるわけです。

 はい、そこで大きなネックがありました。
 陰謀論、エセ科学などに対する発言です。

 せっかく彼のことを知った人でも、「なんだこいつ、変なやつじゃないか」と見放してしまうのです。彼は「もし相手につっこまれたら、そこで対話してほしいんだ」と聴衆に呼びかけていたのですが、陰謀論やエセ科学をどう弁護したらいいのか、そこについて演説では触れることがなかったのです。

 嫌いな言葉ですが、「ブーメラン」が刺さってしまった。
 彼が安倍首相に対し、「演説で憲法について触れないじゃないか!」と言ったとしても、「おまえだって陰謀論やエセ科学について弁明してないだろ」と言われてしまう。

 彼はその自由なスタイル、悪く言えば「怪しげなスタイル」ゆえに負けたのではない。
 
 怪しげなスタイルを支えるだけの思想的裏付け、ないしは弁明がなかったことが、決定的な敗因だったのです。実にもったいないと思います。なにしろ、ネット上で彼を批判する人のほとんどは、そこを突いていたのですから。ひげのロン毛なんか駄目だな、という人たちよりも、はるかにずっと多い数で。

 ぼくは彼を支持していましたし、そのエネルギーは他の候補を圧倒していたと思うし、そのエネルギーを国会でぶつけられないのは残念であると今も思う。

 けれど、やはり裏付けと弁明が足りなかったのは致命的だった。

 ぼくは彼の今後に注目するし、今後も支持したい気持ちがある。
 多くの人もそうでしょう。

 だからこそ、まず彼がすべきことは、憲法について学ぶことや経済について語ることより先に、彼のネックとなっている非科学的・陰謀論的思想について、きちんと向き合うことであろうと思います。

 そうでないと。

 自民党のほうがまともだよな、と思わせ続けてしまうのです。
 あのクソみたいな改憲草案しか出せない自民党のほうがまともだ。そのように思われることは、三宅さん本人のみならず、多くの人にとっての不幸です。

 今後も政治について活動されていくのなら、三宅洋平さんには考え直してもらいたい。
 彼の周りにいる人、彼に言葉を届けられる人たちは一刻も早く、その思想的問題点について、彼に訴えてほしい。そうすれば、彼はいい意味で、大化けするかもしれないのです。

 彼を支持した者の一人としての、切なる願いであります。ヤーマン。


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 政治に対するぼくの基本的な考えとして、「邪悪かどうか」というのがある。
 むろん、邪悪なものを受け入れたくはない。
 だから民族ヘイトとか、密告を促進するようなメッセージとか、そうしたものはまるで受け入れられない。憲法を変えて人権を奪おうという政党や、その政党に与する人々の思想も、受け入れるわけにはいかない。裏を返せば、邪悪でないと感じるものは、聞く価値があると思う。

 さて、ここに三宅洋平という人物がいる。
 彼は陰謀論を信じたり、エセ医学に傾いたり、足りない部分がかなりある。その点は多くの人が指摘している。ただ、彼の演説を聴く限りにおいて、彼が邪悪であるようには思えない。ここはぼくにとって肝心な部分だ。

 突き放して言ってしまえば、彼には「バカ」なところが多分にある。しかし、彼の直すべき点というのは、修正が可能なレベルである。ぼくにはそう感じられる。

 では、なぜ感じられるのか。彼の演説を見て、聞いて、その内容は決して邪悪でないと思えたからだ。彼の演説は憎しみを煽るものでもなければ、人々の分断を促すものでもなく、そこに邪悪さはないと思えたからだ。「音楽ばっかやってきて脳の容量いっぱい余ってる」という彼ならば、陰謀論の危うさやエセ医学の無意味さを理解できると思うのだ。

 ここまで書いて、まるでポジティブな理由がないことに気づく。
 彼が「邪悪」でなく、「修正可能なレベルのバカ」であることは、推す理由にならない。
 邪悪でなく、賢い人間を推すほうがいいはずだ。
 そうとわかったうえで、なぜ彼を推すのか。

 演説からもたらされるエネルギー、と言うと、あまりに簡単すぎるかもしれない。
 しかし、まずはそれが答えだ。

 演説中、彼が繰り返し言ったこと。
「ポデモス! おれたちはできる!」
「おれは票を割りに来たんじゃない! 掘り起こしに来たんだ!」 
「投票に行かなかった4922万人で、日本は変えられる!」

 こういうメッセージを繰り返し放つ人間を、ぼくは見たことがなかった。
 日本の人々の多くは今、政治に対して「学習性無気力」とでも言うべき状態にあると思う。学習性無気力とは、期待や努力が繰り返し繰り返し裏切られることにより、「どうせやっても駄目だ」「どうせ変わらない」と、その気力を失ってしまう状態のことだ。

 その状態をなんとかしたい! と訴えるのは、バカさを補ってあまりあるエネルギーだとぼくは思った。残念ではあるが、これまで野党として戦ってきた人々からは、彼のようなエネルギーを感じることがぼくにはできなかった。棄権してきた多くの人間もそうかもしれない。

 野党には堅実な実務家もいるだろうし、老獪な有力者もいる。けれど彼のように、バカみたいに、学習性無気力を打破しようとする政治家を、ぼくは見たことがなかった。そして今回、有力とされる他の立候補者たちに、彼のような熱量を感じさせる人間を、ぼくは見出すことができないのだ。

 彼の熱量については、ネット上の検索数も証左となろう。「選挙は祭」と幾度も唱え、今回の立候補者でもダントツの検索数を誇っている彼は、それだけ人々を引きつける熱量を帯びている。ただトンデモな主張を言っているだけなら、そうはならない。あのエネルギーは、希有なのだ。たとえ彼が嫌いな人でも、そこは認めてくれるんじゃないかと思う。

 繰り返し言う。彼はある面においてバカであり、その知的姿勢にも問題がある。
 批判する人の中で、ある人は障害者にまつわる発言を捉え、ある人は人工地震にまつわる発言を捉え、ユダヤ陰謀論を捉え、ホメオパシーを捉えるだろう。

 批判する人たちに言いたい。
 ぼくも同意見だ。
 もしも当選したりしたら、大いにぶっ叩くべきだ。
 そして、彼の間違いを認めさせたい。皮肉でなく、本当にそう思うのだ。

 そして、彼があのエネルギーを、正しい方向に持って行けるよう働きかけたいと思う。
 もしそれが可能ならば、護憲派にとってものすごく大きな味方になるとぼくは思う。
 真面目で素直に党則に従う優秀な政治家には、できないことができるとぼくは思う。

 そのエネルギーに、危険さを見出す人もいるだろう。
 だが、彼は邪悪ではないとぼくは感じる。圧倒的なポジティブさがある。自分らしくあれる社会をつくろうと訴えている。憲法が国民を縛るなんてまっぴらだと、真っ当な感覚を持っている。ぼくの目には、そのように映るのだ。

「大きなエネルギーのあるバカ」「小さなエネルギーの実務家」。
 粗悪な改憲を食い止められるのはどちらだと思うか。
 これまで切り込めなかった部分に、突っ込んでいけるのはどちらか。
 ヒーローの訪れをいたずらに願うのは危険だ。
 同様に、ヒーローなんかいないと思いすぎてしまうのも危険なことだ。

 はからずも、ずいぶんと長くなってしまった。
 以上のことをもってぼくは、三宅洋平を支持したいと思う。
 もっと書くべきことはありそうだけれど、まあ、それは当選の暁に。

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 強要によってAV出演させられた、という元AV女優がいるらしく、メーカーやDMMを巻き込んで大ごとになっています。
 事務所社長の逮捕容疑は強要とは別ですが、マスコミでも取り沙汰されているので、無視できる要素ではありません。
 今回の「被害者」とされる女性は、通算400本以上の作品に出演していたと言われています。本人を知る現役AV女優が「本人は楽しんでやっていたし、強要なんて考えられない」と異論を唱え、一方では「楽しんでやっているように見えても、あとで辛くなることもある」と、反論が出たりもしています。

 本記事では、洗脳という言葉を使います。今回の件について、一種の鍵概念たり得ると思うからです。
 用法としては必ずしも正しくないだろうし、過去の彼女が事務所に洗脳されていたのだと言いたいわけでもありません。
 話をわかりやすくするために、使う言葉です。
 と、まず最初に述べておきます。

 AVを離れ、まずは一般論として考えてみます。

 ある洗脳を施された、一人の人間がいるとします。
 さて、悪いのは洗脳した人間か。
 それとも、洗脳を解こうとする人間か。

 もちろん、洗脳した人間が悪いと多くの人は答えるでしょう。
 しかし、果たして本当にそうなのか。
 
 自分の生きるべき道を探し、さまよっていた人間にとって、洗脳は救いの道でもあります。洗脳を施す人間は言うでしょう。
「おまえはこちらの世界を進むべきだ。おまえの人生には別の可能性がある。迷うことなく、こちらの世界に飛び込んでこい」
もし仮にその人間が、そこに活路を見出したなら、洗脳はその人にとっていいことなのです。

 洗脳を解こうとする人間は(およそ必ず)、その道を否定する人間です。
その人はこう言うでしょう。
「おまえの進む道は間違っている。おまえの人生はよくないものだ。だから、今までの人生を否定して、新たな人生を歩め」

 さて、この構図から明らかなように、洗脳する側も洗脳を解く側も、目指すものは同じなのです。自分の世界観に従えと、言っているのです。宗教であれば、その神の教えを信じるか信じないかの問題であり、立場が違うだけなのです。

 では、どちらがその人を幸せにできるのでしょうか。

 森達也がオウム真理教を追った映画『A』『A2』は、観る者にその問いを突きつけます。

 オウムによる凄惨な事件が起こってもなお、教団に残ろうとする人間がいる。
 かたや、教団からの洗脳を解こうと試みる人たちもいる。

 オウムが反社会的組織であった以上、脱洗脳をすべきだとぼくたちは思います。
 しかし、果たしてそれが当人にとって幸せな選択であるかどうか、ぼくたちにはわかりません。これは非常に重要な問題です。

 オウムに一度入信した人にしてみれば、いまさら出られないという思いもあるでしょう。仮に出て行っても、社会では「元オウム信者」として後ろ指を指される。それなら、教団の中にいたほうがいい。そういう風に考えた人間も、いるだろうとぼくは思うのです。

 高橋泉監督の映画『ある朝スウプは』は、また別の問いを突きつけます。

 劇中では、あるカップルの同居生活が描かれます。男のほうは鬱病を患っており、新興宗教に入信しようとします。しかし、女はそれを止めようとする。入ってはいけないと。
 そのとき、男は女に問うのです。
「それなら、おまえはおれを救ってくれるのか?」

 洗脳によって幸福になった人間がいたとして、その洗脳を解くことは正しいのか。
 解いたあと、その人間の人生がいいものになると、果たして約束できるのか。
 解いたあと、洗脳されていた人生への喪失感を、埋め合わせてやることはできるのか。
 洗脳を解くことは、本当に正しい行いと言えるのだろうか。

 その人を幸せにする方法。
 それは、その洗脳状態を続けさせるか。
 あるいは、その人間の人生を肯定しつつ、洗脳を解くか。
 そのどちらかではないでしょうか。

 ぼくが今回の件でまずいなあと思うのは、元AV女優の400本以上にわたる作品を、DMMがおおむね流通停止にしてしまったことです。

 それは、その人間の人生の否定です。
 彼女の人生が肯定されていたら、彼女の足跡は誇るべきものとして、そこに残っていたかもしれない。彼女の作品を消すということは、それが恥ずべき、消すべき過去であると決めてしまったということです。

 多くのAV女優が怒ったり、あるいは違和感を表明したりしているのは、実はそこなのかもしれない。自分たちのやっていることは、消されねばならないことなのかって。

 これは、強要被害をなくすということとは、また別の問題です。
 強要を肯定的に捉えるわけはないし、洗脳する側が正しいというのでもない。
 ぼくが言いたいのは、否定しただけでは救われない、ということです。
 
「AVに出てたなんて過去は知られたくないものだろう。消してほしいと思うのも当然だ」

 もしもそのように考えるなら、その思考はすなわち、AV自体への蔑視です。

「あの人、昔、AVに出ていたらしいよ。ひそひそ」
 
 そのような後ろ指を、肯定する立場です。
 AVという変数に、「映画」「テレビ」「モデル雑誌」「オリンピック」が代入されることは決してない。
 それはAV自体を、悪しきもの/蔑視すべきものと捉えているからです。

 強要されたのかどうか、ぼくにはわからない。
 もしかしたら本当に、強要によって始まっていたのかもしれない。
 でも、それとは違う部分で、考えなくてはならないことがある。
「あなたがAVに出た過去は、決して恥ずべきものではない。むしろ、誇っていい」
 そのように言えないなら、本当の意味で救ったことにならない。
 少なくとも、その作品に出たその人は罪人ではないし、悪徳を犯したわけではない。
 彼女が悪徳を犯したというのなら、また別の洗脳を施したに過ぎない。

「うちのおばあちゃんは昔、映画に出ていたんだよ」
「うちのおばあちゃんは昔、AVに出ていたんだよ」
 その二つが、等価である社会。 
 そのような社会をもたらすことが、本当の意味で彼女を救うことではないのかと、ぼくは思うのです。強要はむろんなくすべきですが、強要がなくなれば事足りるわけではない。
 自発的に出演したあとで、恥ずべき過去だと思い込んでしまう人もいるでしょう。
強要云々だけでは、その人たちは救われない。

 本当に救うためには、映画とAVが等価である社会を目指すべきでしょう。

 そんな社会は来ないって?

 なるほど、だとしたら、彼女は永久に救われない。
 

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せいぜいが「愛の小さな波紋」。
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アクションの脚本としては実に正しい。しかし、設定に致命傷。
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物語の面白さは、規模に比例しない。
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「ほのめかし」の必要。
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皆さん、お願いです。
マッコイさんのツイッター番組サイトマスカッツサイト、何でもかまいません。
声を届けてください。番組改善の、要望の声を。

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性的怪物の肖像
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嘘というのは、それだけで物語。
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惜しい点は多々ありますが、程よく楽しめました。
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多幸感系。切なさはスパイス程度で。
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このうえは、マッコイさんに、ビンタをも


 近頃は演出があまりに弛緩しているために、こちとらもまともに評する気になれず、観ながら舌打ちを繰り返すこと多々でありまして、更新も滞っていたのでございます。むろん面白い点もあったわけですが、もったいない部分が目についてなりません。

 ここ4回を振り返ります。


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風合いある小品。
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 前田敦子主演作。80分尺で規模の小さな世界を描く小品ですが、独特の味わいを放つ作品でありました。

 大学を出ても職に就こうとせず、家業も家事も父親に任せきりの主人公、タマ子の日常が描かれます。舞台は田舎町で、家はスポーツ用品店を営んでいます。父親との二人暮らしですね。

 テーマは明白で、「彼女がどう成長するかですね。
 序盤10分はきわめてだらりとしたトーンでセットアップがなされ、その後に父親との衝突があります。「このままだらだらしていても駄目だ、いつになったらちゃんとするんだ」という父親に対し、「少なくとも、今ではない!」と怒鳴るタマ子。

 しかしこれによって突き動かされ、およそ25分の段階で、新たなことを始めようと、アイドルのオーディションに応募したりします。でも、それが周りに露見すると急に嫌になってしまい、まただらけた状態に戻ってしまいます。短い映画なので、中間地点にどん底を持ってきています

 クライマックスへの糸口は、父の再婚。
 父の再婚話が進むことによって、タマ子自体の前進も促されるつくりです。
 再婚するかもしれない相手に父への思いを打ち明けたり、母親に「東京に来る?」と誘われたり、そうしたことを通して彼女はモラトリアムから脱していくきっかけを掴みます。父に「家を出ろ」と言われたタマ子は、「合格だよ」と答え、新たな人生に歩み出す手がかりを掴むのです。

 山下監督作品では『ばかのハコ船』が一番好きで、『リンダリンダリンダ』も好きです。『天然コケッコー』『どんてん生活』『苦役列車』などでも独特の風合いが生み出されているのですが、それらに比べるとやや威力は弱いかな、という感じはどうしてもありました。作品自体が小規模、ということはあるにせよ、同じような「無様な状態」を描いた作品だと、『ばかのハコ船』が素晴らしく、どうしても思い出してしまいました。前田敦子が持つ綺麗さによって、主人公の無様さが薄まってしまう、ないしは綺麗なものに見えてしまう、というのはあります。この映画はアイドルなどではなく、ブスな女優を起用していれば、よりいっそうもの悲しい風合いが漂い、良い意味での無様さが生まれたのではないか、などと考えてもしまいます。『ばかのハコ船』はその点においてもまた、優れた作品だったのです。ヒロインがブスでしたから。

ばかのハコ船 [DVD]

山本浩司/エースデュースエンタテインメント

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 もっとも、前田敦子はその辺の、可愛いとブスのバランスを良い感じで持っている人でもあるので、キャスティングに文句はありません。

 観終えたときは、モラトリアムを脱する上での通過儀礼的要素がやや弱いかな、という印象を受けました。しかし少し間を置いてみると、独り身である自分の父親を再婚相手に託す、という行いが、一種の通過儀礼として機能しているのだなとわかりました。巣立ちのための儀式として、自分を育ててくれた親の幸福を助けるというのは、物語的にきちんと意味合いを帯びています。「合格だよ」という、一見傲岸不遜な物言いは、彼女なりの照れ隠しの意味があるのであって、このような台詞を置く巧みさには、なるほど敬服を覚える次第であります。

 また、食事シーンが効果的です。食事シーンを随時挟み込むことによって、家庭の様子を凝縮して描き出すという手法。食事というのは動物的な意味合いを帯びており、そこには生活の本質、生きるという営みのありようが浮かび上がります。ゆえにして、独りでもそもそ喰ってるシーン、父親と咀嚼音を立てながら一緒に何かを食べているシーンなどが、そのおりそのおりで違う意味を持って伝わってくるわけです。

 地元に帰ってきた同級生、写真店の中学生と彼のヘルメット、そして彼のカノジョの垢抜けない感じなど、田舎くささも随所で描かれていて、ほどよい風合いでありました。お薦めです。


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ミュージカルも効果的な、上品なラブコメディ。
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 ウディ・アレン、ジュリア・ロバーツ、エドワード・ノートン、ゴールディ・ホーン、ナタリー・ポートマン、ドリュー・バリモア、ティム・ロスといった、錚々たる布陣によるアンサンブル型ラブコメディです。ミュージカル・ラブコメディですね。大家族ものでひとりひとりの物語を要点のみ押さえ、ぽんぽん回していく。テンポのよい快作でありました。

大きな筋となるのは、①ウディ・アレンとジュリア・ロバーツの不倫恋愛、②エドワード・ノートンとドリュー・バリモアによる婚約恋愛、そこにナタリー・ポートマンらによるちょっとした恋物語の顛末や、いかれた元服役囚、ティム・ロスのドタバタ劇などが織り交ぜられます。物語にはほぼ絡まないけれど、家で独りだけ共和党支持で、政治的なことばかり喋っている長男ルーカス・ハースが面白かったですね。脇役の支えもしっかり効いている。

 映画には、話を動かすきっかけのポイント、第一幕と第二幕の転換ポイントなどがありますが、そうした要所にミュージカルシーンをきっちり配置している。この要点を押さえているのは非常に大きい。スムーズな進行のための大きな効果を上げています。ミュージカルというのは、「感情の頂点」を凝縮して表現するときにも有用で、この映画で言えば②にまつわる「恋の実り」の様子を描く際、その効果が顕著です。静かな高級宝石店、病院などの場面で用いることで、感情の高ぶりが劇的に演出されています。

一方、恋愛ものにおいては障害の存在がとても重要です。障害があるからこそ物語に緊張感が生まれるわけで、前半では①がそれを担う。ウディ・アレンはジュリア・ロバーツを口説き落としたい、ここでの苦闘がひとつめ。そしてジュリアには旦那がいる。これがふたつのめの苦難。障害を配置することで、恋の危うさが演出されます。もちろん、ウディ・アレンのコミカルな演技や台詞回しが、面白みを引き立てます。

 いろいろなことがうまく行くのが中間点まで。そこで「凶兆」として出現するのが、犯罪者のティム・ロス。②の恋愛を、坂道へと転がしていく。最終的にはドリューを銀行強盗にまで巻き込んでしまい、一度どん底をつくる。また、ナタリー・ポートマンの失恋、じいちゃんの死など、よからぬ気配が映画に立ちこめていく。

 最終的に、②は関係を取り戻すが、①は破綻してしまう。破綻の救済として、ゴールディ・ホーンとウディ・アレンの関係修復がある。クライマックスで二人のミュージカルが出てくるので、できれば前の段階で、この二人の関係をもっと濃く描くべきであったとは思いました。ゴールディ・ホーンは劇中、冒頭部以外はほとんどウディ・アレンと絡まないため、クライマックスで二人が踊っても、物語的カタルシスは決して大きくない。また、②の恋愛にしても、エドワード・ノートンの努力無しに関係が修復してしまうため、カタルシスが弱い。テンポの良いコメディとしてとても面白かったのですが、①と②の筋に関しては、お話としてのふしぶしを、もう少し固めておくとさらに楽しかっただろうなという感じはします。①のほうは、ジュリア・ロバーツがどうして旦那のもとに戻るのか、言葉で語ってしまうだけなので、その点の説得力が減じてしまっています。

 とはいえ、大家族の賑やかさと、タイプの違う二つの恋愛を、愉快なトーンで描いており、とても楽しい作品でありました。お薦めです。

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