カテゴリ:邦画( 164 )

 
『シン・ゴジラ』がどうしてぴんと来なかったのか、について、前の記事で思うところを述べました。言ってしまえば、「てめえの問題だろ」ということなのですが、それで終わるのもいささか詮ないように思いまして、こちらではもう少し映画のほうを向いてみたいと思います。自分は本作を楽しめたぞ! という方に、教えを請いたい気持ちがあります。

 どうしてぴんと来なかったのか、なのですが、考えてみて思い当たる節がもうひとつありました。「否応なく心を鷲づかみにされるような表現」というのを、ぼくはどうも感知できなかったのですね。

 本作は「饒舌にしてきわめて情報量の多い会議シーン」と、「ゴジラの破壊描写シーン」とが、映画全体を構成する大きな柱になっていると見受けました。その中で皆様は、どういうところに心を鷲づかみにされたのだろう、と感じたのです。

 一度ですべてを飲み込むのが困難なほどの情報量。会話のスピード。会議のシーンではびっくりさせられ、圧倒させられたのですが、会話劇の快楽というのをぼくはあまり感じられなかったというか、「情報の速射砲だなあ、思い切ったことをするなあ」と「感心」はしたものの、「感動」を覚えなかったんです。 

 観ながら連想したのは、増村保造の『巨人と玩具』。あの会話劇の早さにかつてのぼくは圧倒させられたし、そのテンポの良さとやりとり自体の快楽に魅せられた。あのときは感動を覚えたものでした。『シン・ゴジラ』の場合はむしろ、「一回で全部聞き取らせてなんかやんないぞ」とばかり、ある意味でリーダビリティを下げている。「観客に追いつかせてやんないぞ」とばかり、ハイスピードの会話劇で圧倒しようとしているように思えた。それはそれで結構だし、その手があったかと「感心」はした。でも、「感動」的なつくりとはどうしても思えなかった。被弾覚悟で申すなら、「それで鷲づかみにしようってのは、安易っちゃ安易な手法じゃないか?」とも感じたのです。

一方、ゴジラの破壊描写シーン。こちらも本当によくできていたと思うし、ゴジラが成長する過程にしても電車の使い方にしても、その手があったかと「感心」させられました。東京の街をさんざんに破壊し尽くすシーンにしても、『巨神兵、東京に現る』の完成形といった風で、世界に通ずる表現であったろうと思います。

 ですが、こちらもまた「否応なく鷲づかみにされる」ようなものを感得できなかった。
 じゃあおまえが鷲づかみにされたものを言ってみろ、と言われるなら、今年の映画でいえば『アイ・アム・ア・ヒーロー』がそうでした。大泉洋演じる主人公の恋人、片瀬那奈がゾンビに変異するシーンがあるのですが、あそこでもうぼくは持って行かれた。今までの海外ゾンビものにもなかなか観られなかったような変異の仕方、見せ方で、主人公の命がすれすれの状況に置かれる映画的快楽含め、完全にやられた。なおかつ、そのシーンのあとに連なる東京のパニック描写、タクシーに乗って街を逃げ出すまでのシークエンス。ああ、もうこの映画に抱かれてもいいや、とあのくだりで確かに感じられたのです。こんなのは観たことがない、と素直に思えたんです。

『シン・ゴジラ』において、すごいすごいとたくさんの話は聞こえてくるわけですが、皆さんはどの辺でエレクトしたんでしょうか。批判というのではなくて、素朴に教えてほしいなあということです。喧嘩をする気はまるでありません。自分はこの描写に鷲づかみにされちゃったよ! というのを教えてほしいのです。変な言い方ですが、どの段階で「この映画に抱かれてもいい」と思えたのか。その点についてぜひ知りたい。ぼくはどんな答えが来ても、「なるほどなあ」と言わせてもらいたいと思います(議論目当ての方は求めていません)。


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映画は観るタイミングが大事。今のぼくは本作を求めていなかった。
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 TLを観ても大絶賛、どいつもこいつも大絶賛。完全に今年の大フィーバー映画となった作品ゆえ、ひとまずは観ておかねばと思い、映画館に参じました。正直、ゴジラ感度はもともと低い人間なのですが、面白いものにはやはり触れておくべきであろうという義務感に押され、観に行った次第であります。

先にひとつ申しておきます。自分で書いておいてなんですが、この記事はおよそ映画評の体をなしてはおりません。作品の批評を読みたいなと思う方は、時間の無駄になりますので、速やかに別サイトへと飛んでくださいませ。

さて、『シン・ゴジラ』です。
 ひときわ高い情報密度と、これまたたいへん密度の高い特撮シーン。この組み合わせが熱狂的なムーブメントを引き起こしているのでありましょう。とかくエンターテインメントでは「わかりやすさ」が求められ、「感情移入できる脚本作り」が求められる。本作はその裏をかくかのようにどちらの要素も捨て去り、政治的判断や軍事的考証のリアリティを求めている。そのことが好事家の心を捉え、情報的な読み解きの快楽を与え、オタク的快楽を存分に満たしてくれる作品たらしめているのでしょう。こういう作品をつくるというのは並大抵の情熱ではないはずであり、その点はただただ敬服の限りであります。

 さて、そうは言いつつ、ぼくが鑑賞中に感じたことというのは別にありまして、実のところぼくは何度も、「帰ろうかなあ」と思ってしまったのであります。端的に言って、映画にのめり込むことができなかったのであります(批評的なものを読みたい人は本当に引き返してください)。
 
 しかしそれはまったくもって、映画の出来を起因とするものではありません。上に述べましたように、作品自体は実にあっぱれな傑作であったろうと思います。入り込めなかったのは一方的に、ぼくの問題なのです。

 話は逸れるのですが、かつてぼくは園子温の『愛のむきだし』を観たときに大興奮を覚えました。いろんな人の批評を観たり聴いたりする中で、印象的な評価をする人がいました。それはあの伊集院光さんでして、彼は『愛のむきだし』について、「今の自分はこの映画を求めていない」と仰ったのです。そのときはぴんと来ずにいたものですが、『シン・ゴジラ』を観ている間、ぼくが感じたことはまさにそれでした。ぼくは今、この映画を求めていない。

いやあ、精神的なタイミング、興味のタイミングが悪かったということです。別の折りに観ていれば、もっと楽しめたかもしれないと後悔しています。すごい作品だと頭ではわかっているのに、気持ちの部分でちっともエレクトできなかったのですね。それでもよっぽどしごかれれば勃起するのではないかと思って観に行ったものの、結局ふにゃちんで帰ってきてしまった。

 どういうところでそう感じたのかと言えば、この映画が持つリアリティによるのです。大杉漣演ずる総理をはじめ、政治家や官僚たちがリアリティ溢れる議論をしている。その様を観るにつけぼくの意識は映画を離れ、まさにリアルな方面へと逸脱してしまった。平たく言えば、現実社会の問題のほうに思いを馳せてしまった。

 劇中では日本の防衛ということについて盛んなやりとりが交わされる。アメリカとの交渉の過程が描かれる。ゴジラが虚構の東京を壊し続ける。その様子によってぼくの意識はたとえば、沖縄の高江のほうに飛んでしまった。

 現実では国土防衛の名の下に、アメリカ軍のヘリパッド建設工事が進められ、地元の人々の生活が脅かされるような状況が生まれている。虚構の防衛省が勇ましい判断を下す一方で、現実の沖縄防衛局は警察との協力のもと、反対派の住民たちと軋轢を起こしている。
「現実対虚構」? 悲しいよ。虚構の圧勝だ。現実の問題に国民の関心は向かず、みんなは虚構の怪物相手にわっしょいわっしょいだ。
 
怪物。モンスター。たとえばこの作品が公開される数日前、相模原の障害者施設では実に痛ましい事件が起きた。戦後最悪とも言われる、個人による直接的な殺傷事件だ。現実は現実にそういうモンスターを生みだしてしまった。にもかかわらず、みんなが向いてるのは虚構のモンスターのほうだ。ポケモンとゴジラが、現実のモンスターを覆い隠してしまった。「現実対虚構」? 悲しいよ。ここでも虚構の圧勝だ。

 そのような形で、『シン・ゴジラ』がリアルであればあるほどにぼくは、現実のほうへと引っ張られてしまったのです。リアルであればあるほどに、本作が映画という虚構であることに、距離感を抱いてしまったのです。

 そうなってしまうと楽しめるものも楽しめなくなって、たとえば石原さとみが出てきた瞬間にぼくは思わず小声で「だっさ」と呟いてしまった。CMの女王たる石原さとみでありますが、CMの女王であるがゆえにCM臭がつきすぎてしまったんじゃないかと思われ、個人的な嗅覚センサーに引っかかり続けました。個人的に彼女からはCMのにおいしかしてこないのです。そうであるがゆえに、演技や英語のいかんを問う以前に、このたいへんよくできた映画世界と不調和な感じがして、存在感がださく思えたのであります。
 石原さとみをディスっていると思われたらそれはちょっと違います。ぼくがCMの広告主なら、あるいは広告代理店マンなら、彼女を大いに起用したく思うでしょう。とても美人だし、お金になる人だと思います。ただ、その分だけ……という話です。あくまでぼくの受け止め方のお話なので、彼女のファンの人は噛みつかないでください。

 話ついでにもうひとつ言うと主演の長谷川博己は、本作の特技監督でもある樋口真嗣の『進撃の巨人』のとき、取り返しのつかないくらいださい演技をさせられてしまっており、あの印象がちらついてしまいました。なんで『進撃』メンバーをぼこぼこ使うのだ、と思ってしまいました。

 ことほどさように、完全に手前勝手な受け止め方のもろもろによって、ぼくは本作の良い観客にはなれなかったのであります。一言で言うと、「ああ、もったいないことをしてしまった。もっと前向きな気分のときに観ればよかった」という感を禁じ得ないのであります。映画は観るタイミングが実に大事であると、あらためて思い知らされた映画鑑賞体験でございました。

 …………と、ここまで書いて、あとになってから気になることがでてきました。
 この次の記事で、ちょっと書いておこうと思います。

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せいぜいが「愛の小さな波紋」。
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「ほのめかし」の必要。
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性的怪物の肖像
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風合いある小品。
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 前田敦子主演作。80分尺で規模の小さな世界を描く小品ですが、独特の味わいを放つ作品でありました。

 大学を出ても職に就こうとせず、家業も家事も父親に任せきりの主人公、タマ子の日常が描かれます。舞台は田舎町で、家はスポーツ用品店を営んでいます。父親との二人暮らしですね。

 テーマは明白で、「彼女がどう成長するかですね。
 序盤10分はきわめてだらりとしたトーンでセットアップがなされ、その後に父親との衝突があります。「このままだらだらしていても駄目だ、いつになったらちゃんとするんだ」という父親に対し、「少なくとも、今ではない!」と怒鳴るタマ子。

 しかしこれによって突き動かされ、およそ25分の段階で、新たなことを始めようと、アイドルのオーディションに応募したりします。でも、それが周りに露見すると急に嫌になってしまい、まただらけた状態に戻ってしまいます。短い映画なので、中間地点にどん底を持ってきています

 クライマックスへの糸口は、父の再婚。
 父の再婚話が進むことによって、タマ子自体の前進も促されるつくりです。
 再婚するかもしれない相手に父への思いを打ち明けたり、母親に「東京に来る?」と誘われたり、そうしたことを通して彼女はモラトリアムから脱していくきっかけを掴みます。父に「家を出ろ」と言われたタマ子は、「合格だよ」と答え、新たな人生に歩み出す手がかりを掴むのです。

 山下監督作品では『ばかのハコ船』が一番好きで、『リンダリンダリンダ』も好きです。『天然コケッコー』『どんてん生活』『苦役列車』などでも独特の風合いが生み出されているのですが、それらに比べるとやや威力は弱いかな、という感じはどうしてもありました。作品自体が小規模、ということはあるにせよ、同じような「無様な状態」を描いた作品だと、『ばかのハコ船』が素晴らしく、どうしても思い出してしまいました。前田敦子が持つ綺麗さによって、主人公の無様さが薄まってしまう、ないしは綺麗なものに見えてしまう、というのはあります。この映画はアイドルなどではなく、ブスな女優を起用していれば、よりいっそうもの悲しい風合いが漂い、良い意味での無様さが生まれたのではないか、などと考えてもしまいます。『ばかのハコ船』はその点においてもまた、優れた作品だったのです。ヒロインがブスでしたから。

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 もっとも、前田敦子はその辺の、可愛いとブスのバランスを良い感じで持っている人でもあるので、キャスティングに文句はありません。

 観終えたときは、モラトリアムを脱する上での通過儀礼的要素がやや弱いかな、という印象を受けました。しかし少し間を置いてみると、独り身である自分の父親を再婚相手に託す、という行いが、一種の通過儀礼として機能しているのだなとわかりました。巣立ちのための儀式として、自分を育ててくれた親の幸福を助けるというのは、物語的にきちんと意味合いを帯びています。「合格だよ」という、一見傲岸不遜な物言いは、彼女なりの照れ隠しの意味があるのであって、このような台詞を置く巧みさには、なるほど敬服を覚える次第であります。

 また、食事シーンが効果的です。食事シーンを随時挟み込むことによって、家庭の様子を凝縮して描き出すという手法。食事というのは動物的な意味合いを帯びており、そこには生活の本質、生きるという営みのありようが浮かび上がります。ゆえにして、独りでもそもそ喰ってるシーン、父親と咀嚼音を立てながら一緒に何かを食べているシーンなどが、そのおりそのおりで違う意味を持って伝わってくるわけです。

 地元に帰ってきた同級生、写真店の中学生と彼のヘルメット、そして彼のカノジョの垢抜けない感じなど、田舎くささも随所で描かれていて、ほどよい風合いでありました。お薦めです。


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たいへんよく練り上げられた脚本です。

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 角田光代原作、宮沢りえ主演の本作は、銀行で働く兼業主婦が主人公。彼女による横領事件をモチーフにした作品です。原作は未読なのですが、脚本的に要点をきちんと押さえた良作であったと思います。

 映画を貫く問いは、「お金をどのように使うと幸福になれるのか」。もしくは「幸福になるためにお金をどう使うべきか」。これが作品の大きなテーマです。

その辺りのことを映画の序盤、宮沢りえによる保険の勧誘という場面で示しているのが大変巧みです。保険というのはまさしく、お金の使い方をめぐる商品。この作品のテーマを一発で表しているんですね。また、勧誘先の老人、石橋蓮司とのやりとりを通して、主人公の人となりや生活ぶりを垣間見せるというのもうまい。この手法によって情報の開示をスムーズに行えているし、そのおかげで場面の密度も高くなっている。

また、同じシークエンスで性的な危うさを忍ばせることにより、この映画における「凶兆」を表現している。のちのちの展開と重なっているし、この序盤の密度というのは大変すばらしいものがあります。序盤で家庭の状況、銀行の人間模様、キャラクターをすべて示し、物語のキーマンたる小林聡美とも大事なやりとりを果たしている。映画全体のセットアップとして、かなり模範的な時間配分です。

真面目な行員だった宮沢りえが道を踏み外していくのは、池松壮亮扮する若者との出会いがきっかけです。彼との秘め事が横領を加速させていくのですが、そこに至るまでの順番もたいへんに綺麗です。

『横道世之介』ではバカリズムに見えて仕方なかった池松壮亮。この映画でも非常に丁度良い若者感を出しています。彼は今とても売り出し中のようですが、作り手の側としては、丁度良いんだと思います。イケメン過ぎるわけじゃないし、映画的風合いになじませやすい顔や喋り方なんです。

この映画も、やろうと思えばもっとイケメンの俳優を使ってもいいんでしょうけれど、きっとそれじゃ駄目なんですね。「イケメンだから惹かれた」だったらわかりやすいけれど、それじゃあこの映画で大事なことが、むしろぼけてしまう。宮沢りえが彼に惚れるのは、イケメンだからじゃない。この映画の要点は「逸脱すること」にあるのであって、ケメン要素、男性的魅力というのはむしろ邪魔ですらあるわけです。

 最初の横領のきっかけが、化粧品を買いたくなる場面。ここは女性的自覚の芽生えとして、映画の軸と繋がっているし、「あとで返せばいいや」という形で着服してしまうのも、逸脱の入り口として非常に説得力がある

 逸脱の開始は、二段階で設定されています。
 ひとつめは、駅のホームで池松のもとに出向く場面。これが性的逸脱の開始。
ここからそれまでの生活とは違うところへ進んでいき、映画は第二幕へと入っていきます。

 ふたつめが金銭的逸脱。池松が金を必要としているのがわかり、宮沢は彼に金を貸そうと申し出ます。性的逸脱が、金銭的逸脱を誘発するのですね。先の化粧品を買う場面、あれを忠実になぞって方向性を定め、話を深めている。

 池松は大学の学費が必要だと語るのですが、「同情すべき理由でお金を貸す」ことは、「善行」でもあります。善行であるがゆえに、観る者は主人公にも共感を覚えてしまうというつくりです。これは善行であると言って、逸脱の言い訳をつくる。逸脱の正当性を善行に求める。この点は、劇中で時折に描かれる少女時代とも通じているところです。言い訳によって、宮沢の行動を説得的に描き出す。観客の気持ちが宮沢を離れないようにつなぎ止めているのです。
第二幕では、平和にして平凡だった宮沢の生活が一変。蕩尽に狂う様子が描かれます。上映時間のちょうど中間点で、幸福の絶頂が描かれます。池松とのホテルでの場面ですね。
幸福の絶頂を描いたということはすなわち、あとは転げ落ちていくだけです。

絶頂のあと、池松の様子がおかしくなるし、小林聡美も異変に気づくし、これまで伏兵的に置いておいた奔放な若手社員、大島優子の正体がわかる。このようにどん底への坂道をきちんとセッティングしてある。大島優子の存在は、宮沢の延命措置となるのですが、一方で傷がさらに深まってしまうということにもなります。

 どん底はもはや明確。池松との別れの場面であり、、クレジットカードが機能しない場面ですね。最初は石橋蓮司の性的視線を嫌っていたはずの宮沢が、逆に彼を誘惑しようとするところなどは、いよいよ彼女が堕ちてしまったのだというのを示す上で、とても大きな効果を上げています。詐欺で金を稼ごうと、存在しない架空の保険をばらまいているところなどは、精神的崩壊をも描き出している。性的・金銭的・精神的崩壊によって、どん底へ突き落とす。巧い。実に巧い。

クライマックスは、秩序の象徴である小林聡美との対峙。
過去の回想場面によって、宮沢の動機をあらためて補強してみせたうえで、小林との直接的なぶつかりに強度を与えている。第一幕、第二幕の総括を宮沢自身が行い、自分が進むべき場所がどこなのかを、そのときもなお考えさせる。そして、ガラスを割ることで、宮沢は秩序の世界から逃げ出す。

 最後のシーンは海外。一人の男性に出会う。自分が募金した相手ではないかと想像させる相手で、彼との語らいもないままに、宮沢は姿を消してしまう。

ラストの部分が、悪く言えば曖昧な形で決着しているところはやや残念であるものの、全体としてはきわめて精巧なつくりであり、脚本的にはとても勉強になるものでした。
 お薦めです。


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テーマに惜しさはあるにせよ、出色のゾンビ映画だと思います。
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 『HUNTER×HUNTER』よろしく、連載と休載を繰り返すことでおなじみの当ブログですが、また(たぶん一時的にですが)記事を流そうと思います。以前はだらだらと思いつくままに語っていたのですが、形式を変えて、脚本の流れを追うような形で書いていきます。

 今までのだらだら語りに比べると遊びの部分が少なく、客観性を高めているので、いわゆる「評論」に近しいものになろうかと思います。また、時間を節約したいので画像キャプチャはありません。だらだら語りを楽しんでくれていた方がいるとすれば申し訳ありませんが、これまでとちょっと違うものになります。もっぱら自分のために書くのでネタバレ全開です。しばしの間ですが、もしも読んでくれる人がいたら、またよろしくお願いします。

 さて、『アイ・アム・ア・ヒーロー』です。

 評価の高い作品である一方、クリティカルな批判意見も目にしたので、気になって観に行きました。原作は途中まで読んでいて、確かクルス編の途中くらいでストップにしてしまいました。細かい内容などは覚えていない部分もあるので、原作との異同などは考えず、一本の映画として観ていきたいと思います。

 大泉洋演じる主人公は漫画家のアシスタントをしていて、オープニングは仕事場の場面。
 序盤では漫画家を目指しつつも、花の咲かない状態が続いているという現況が示されます。持ち込み原稿を没にされたり、同期の漫画家との格差を示されたり、同棲相手に早く夢を諦めろとどやされたり、かなり辛い状況にあるのがわかります。

 話の中心はゾンビシーンになっていくわけですが、オープニングシーンで奇妙なニュースが流れ、かなり早い段階でその「凶兆」が示される。これは大きな美点です。その後もちらほらと怪しい影が出てきたりして危険を予兆させます。この映画は序盤、ほぼ音楽を用いていなかったんじゃないでしょうか。日常の静けさを演出し、あとのパニックシーンに繋げるうえでも効果的でした。

 この映画の肝がゾンビ描写/ゾンビサバイバルにあるとすると、その点は抜群の出来であったと思います。最初に変容をあらわにするのは同棲相手の片瀬那奈。ここのゾンビ描写は満点だと思います。ロメロ的なゾンビでもなく、アメリカ映画のゾンビと違うものを造型できていて、ツカミとしてはパーフェクト。それまでずっと抑えめのトーンで進めていた分、ショックシーンとしても効果絶大。ゾンビ映画にはその数だけ「ゾンビとの初遭遇シーン」があるわけですが、その中でもトップクラスにいいんじゃないでしょうか。

 その後、映画は明確に第二幕へと移行します。主人公は所持していた銃を抱え、漫画家の仕事場に行き、そこでも知り合いたちのゾンビに会う。細かい演出で言うと、主人公があの仕事場に土足で上がるんですね。あれが第二幕(=非日常)への決定的なターニングポイントを示しています。ここでもゾンビ描写がいい。人相がまるまる変わってしまうのは原作でも同様でしたが、あれで一気に人称性がなくなるんですね。

 街のパニックについても、日常が秒音ごとに侵食されていく様子が巧みに活写されていた。日本の、東京の街並みをうまく非日常化させていて、ワンシーンの中にエスカレーションがあった。直後にカーアクションも盛り込んでいて、ここもたいへんよかった。同棲相手の変容から第二幕序盤にかけては非の打ち所がありません。

 この過程で、ヒロインの一人である女子高生、有村架純と出会います。彼女と出会った主人公は、富士山を目指します。ネットの噂で、ウイルスが届かないと言われているのです。その道中で神社に立ち寄り、二人は仲良くなるのですが、ここは個人的に少しもったいなさも感じました。よく解釈すれば、それまでの危機に次ぐ危機のあとで、観客を一度緩和させてくれるシーン。しかし少しほっこりしすぎというか、打ち解けすぎの感も強いです。メロンパンを分け合う「食事効果」を踏まえているのは美点ですが、有村が大泉に平気でため口を使っていたり、音楽を聴いて安らいだりというのが、どうにも急な感じがしてしまった。

 ただ、事情はわかる。これは仕方ないんですね。というのも、彼女は直後にゾンビ化してしまうんです。それも主人公を襲わない半ゾンビになる。主人公は彼女に危機を救ってもらったこともあり、捨て置けなくなる。彼女を後半まで連れていく都合上、短い時間で二人の仲を接近させておく必要があり、強引にでも仲の良さを詰め込まねばならなかったのです。

 半ゾンビとなった彼女を連れて(カートに乗せて)、主人公は歩き始めます。着いた先はショッピングモール。ゾンビに襲われていたところを、もう一人のキーパーソン、長澤まさみに助けられます。モールでは吉沢悠をリーダーとするコミュニティが築かれていて、ほっと一安心。ここが映画の真ん中部分に当たります。

 映画の流れとして、中間地点に「束の間の解決」を置くのが綺麗なんです。そのあとに危険度を上げていくのが理想的この映画はその点をちゃんと踏まえています。多くの人が建物の屋上に逃げており、平穏を享受しているのですが、一方ではゾンビの危機もあり、組織内の不和もあるんですね。

 主人公の危険度が上がったのは、銃を失った部分。連れていた女子高生がゾンビであることもばれてしまい、組織内の不和も高まり、それまでよりも危ない状況に陥ってしまいます。自分のふがいなさを嘆く場面もあるなど、精神的な弱さもここで示されます。

 その後、食糧を得るためにモール探索に出るのですが、組織にいた岡田儀徳がリーダーの吉沢悠と反目してしまい、その結果として悲劇が増幅します。尺の都合上、反目の経過や吉沢悠のキャラなどは、やや性急なままに進んでしまった部分がありますが、致し方ないところでしょう。

建物の中でゾンビの大群に襲われ、仲間たちがどんどん死んでいく。安全圏であったはずの屋上も、あるゾンビの出現で崩壊してしまい、「束の間の解決」の反対である「どん底」へと至ります。

 その間、主人公はロッカーに隠れてその場をやり過ごしていました。第二幕から第三幕に移行するのは、彼がロッカーから出て行く場面。屋上にいた長澤まさみたちを助けるべく、勇気を振り絞って出て行きます(ちなみにこのとき、ロレックスをたくさんはめていたために助かるという描写があります。あれは序盤の片桐仁のくだりと繋がりのある展開ですね)。

ここからはクライマックスで、満足感を味わわせてくれる詰め込み具合でした。細かい経過は省きますが、これでもかというくらいにアクションを詰め込んでいる。多少しつこいかもしれませんが、しつこいくらいが丁度良いんですね。

この映画の第三幕がカタルシスを生むのは、銃の存在ゆえです。それまで主人公は一切銃を撃てなかった。それがここに来て、これでもかと撃ちまくる。これが大きな要因です。アメリカではゾンビを序盤から撃つのが当たり前ですが、日本ではそうもいかない。そこを逆手にとっての使い方としては、この上ない方法ではないかと思います。

 映画的に言うと、銃の発砲は男性性を担うものでもあります。すなわち、これまでずっと自分の男性性に自信を持てなかった主人公が、いよいよ第三幕でそれを発揮するんですね。中盤では女子高生や女性に助けられていた主人公が、ここに来てその二人を守る。作り手は明らかに「男性性」を意識している

 ラストは三人で車に乗って逃亡。結末を迎えます。ここに及んで、有村を半ゾンビ化させたことも意味を持つ。大泉と長澤と有村の関係は、父と母と子供の形をとるんですね。映画の途中、有村をカートで運んでいたでしょう? あれは赤ん坊のメタファにもなっているわけです。主人公は艱難辛苦の末に男性性を獲得し、妻子を守り、父へ至るという流れなのです。

 映画の序盤において、主人公は同棲相手との間に家庭を築けずにいました。そして、その相手を失ってしまった。序盤と結末にリンクが観られる点も美点です。惜しむらくは、序盤のテーマ設定。「漫画で成功したいんだ!」という動機をセットしたのはいいのですが、その背景にもっと、同棲相手への意識があればなおよかった。そうするとリンクの糸がさらに太くなったように思われます。同棲相手の存在/欠損をもっと意義深く描けば、女子高生たちを助ける動機がさらに補強されたのではないかと、思ったりもします。ゲームの『ラスト・オブ・アス』において、主人公のジョエルは娘を失い、その面影をエリーに重ねていた。たとえばああいうことです。

もうひとつの惜しい部分は、有村がなぜ半ゾンビに留まったのかですね。「赤ん坊に甘噛みされたから」というのがエクスキューズになっていますが、ウイルスってそういうことなのか? という疑問は残ります。有村と大泉の結びつきはあくまでも、にわかな出会いによるもの。であるため、彼を決して襲わない善良なゾンビになるのも、少しご都合主義的な感じがしてしまうわけです。

 ただ、そこまで突っつくのはしつこいかなとも思います。二人はカーアクションで、力を合わせて死の危険を乗り越えた。その点を踏まえ、絆が強まったとも言えるし、映画の制限時間の中で、できうるだけの工夫をしている。その点はすばらしいのであります。

 全体を通していえば、非常によく整えられた快作であると思います。
 お薦めであります。

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楽しめるのはきっと、原作を知らないティーン。
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どうせ原作は超えられない。そう思って観ればいい。
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