カテゴリ:邦画( 164 )

「あるある映画」が意味づけるもの

d0151584_10115983.jpg


最近の学園ものの邦画には、田舎を舞台としたものが数多いようです。というより都会の中学高校というのは、映画ではほとんど描かれることがないように思います。話題になったものでいえば、「リリィ・シュシュのすべて」「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」「リンダリンダリンダ」「夜のピクニック」など、ある地方の田舎町、一領域を照らすことで物語世界を打ち立てることが多いようです。

妙といえば妙、道理といえば道理。
都会に住む学生も多いはずで、そこで生まれる物語も数多いはずなのに、何故田舎を舞台とすることが多いのかと考えれば、妙。学生という存在、その物語を照らすには夾雑要素が少ない世界のほうがやりやすいと考えれば、道理でしょう。また、田舎を舞台とすると、それぞれの観客の田舎時代のくすぐったさを演出することが出来ます。ああ、あんな感じの建物あったなあとか、ああ、あんな風な道よく通ったな、といったように、どこかしらのフックを提供しやすく、それは都会的なものと比べても人々の心に訴えやすいのです。

さて、今回の『リンダリンダリンダ』。これもまた地方都市が舞台。あらすじを語るのは他の誰かにお任せするとして、いきなり感想から書き始めましょう。

かなり、「あるある」的な部分に力を入れているなあという感じがしました。あるあるネタをちりばめてシーンを進めていますね。その点に関していうと枚挙に暇ありませんが、たとえば主人公たちの性格配置、キャラ設定からしてそうなのです。前田亜希が一番キャラが薄いのですが、うまい具合に可愛らしさを殺している。この人はもっと可愛く描こうと思えば描ける人なのでしょうけれど、メイクの感じなどがかなり没個性化され、汎用的な存在になっています。香椎由宇にしてもそうで、ちょっとむかつく顔なんです。学校の同級生を恋愛対象にしていない感じの尖った風情に「ああ、おるおる」と思ってしまいました。また、関根史織の、親しい相手に対してもテンションの低い感じというのもわかります。ここにペ・ドゥナをスパイスにしてバンドが駆動していくわけです。韓国人留学生、という設定を入れることで特異性を生んでいて、もしそれを剥いでしまうと本当に「あるある」で終わりかねなかったと思いますね。

この映画は「あるある」が集積されています。いや、厳密に言うと、「あるあるっぽさ」。リアリティという言葉ともちょっと違う。リアリティを持たせようとする努力がくどくなった形、とでも言えましょう。最初はそれがすごく心地よかったんです。冒頭のシーン、不美人の女子高生がカメラに語りかけるところ、撮影の男子があたふたしているところなど、「わかるわあ」と思いました。なんかこの、後々になって全てのことがこっ恥ずかしい記憶になるであろうところなどは、抜群でした。で、観ていくうちに、「そろそろええで」と少し思いました。例はいくらでも挙げられますが、ダブっている先輩が何故か声がやけにハスキーボイスだったり、「プリンを買おう」という仲間の女子高生らしい振る舞いに対し、関根史織が「千円超えちゃうじゃん」と言い、「デザートは?」という仲間たちに「うちのお母さんが寒天つくるから」と答えたり、甲本雅裕演ずる先生が廊下で生徒を呼び止めてぐずぐずになったり、兄ちゃんが電話している横で腕立てを始めていたり、男子生徒がクレープ屋の客商売なのに全然愛想よく対応できていなかったり、ペ・ドゥナの日韓交流の催しの部屋がもうどうしようもない内実だったり、主人公たちが本当にしょうもないことで笑いあったり、とにかくそういうことが集積されています。それで引っ張ったという感じがしますね。物語自体に大した抑揚がない中で、そういう「あるある」をおかずにして観客を飽きさせないように作っているという印象です。

この映画の重きはそこにこそあったと見るべきなのでしょう。四人でバンドを成功させよう、というのは実は彼女たちにとってそんなに大事じゃなかった気がします。そうでなければ、あんな風に四人揃って舞台の時間に寝過ごしたりしませんって。しかも前田亜希は恋の告白っていうイベントまであったわけで、あそこまでずっと、くどいほどの「あるある」を積んできたのに、あそこに来て「寝過ごしてハプニング」なんて仕出かしませんもん。ペ・ドゥナの歌も別に全然上手ではないわけで、あのバンド演奏はひとつの終局、物語推進のもの以上のものではなかったのではないでしょうか。彼女たちにとって「ブルーハーツ」は特段の意味を持っていない、ということがそれを裏付けてくれます。韓国人留学生を入れてきたならなおのことです。おそらくは意味もわからぬまま、「僕の右手」を口ずさんでいたのです。その意味でいうと逆説的に、鑑賞後すべてのシーンが意味づけられてきます。呆れるほどに意味のない振る舞いのひとつひとつが、後々包括的に意味づけられてくる。僕たちの記憶をくすぐってくる。青春の瞬間瞬間をうまく切り取っていると言えましょう。だから、この映画において「あるある」を感じられない人にはきついかもしれないですね。これの外国版があったら相当きついはずです。「あるある」と言えませんから。

韓国人留学生という設定なら「青空」あたりを歌ってくれると違う動きが生まれるなあ、とも思いましたが、どうやらそんな意味など考えてはいけない映画だったようですね。頭を空にして心地よくありし日を振り返るにはいい映画ではないでしょうか。
[PR]
カルト映画になれたのに、なりきれなかった作品
d0151584_1082641.jpg


『スワロウテイル』は観始めてすぐ、その世界観に惚れました。「イェンタウン」という日本語、中国語、英語の混ざり合う空間は僕好みのにおいっぷりで、「これは下手なことをしない限り面白くなるだろう」と思いました。
 
が、結果的にいうと下手なことをしてくれたところも多く、その分だけどうにも心に残りにくい映画になりました。カルト映画になれたのに、なりきれなかったという印象ですね。まあ、別にカルト映画をつくってやろうとは思っていなかったでしょうけど、この世界観を活かして形作られているかといえば、どうにも足りなかったように思います。
 
 役者自体はおそらく90年代以降の邦画で最も充実したラインナップなのではないかと思っています。少なくとも個人的にはそうです。三上博史、渡部篤郎、山口智子という大好きな俳優のほか、桃井かおりもさすがの名演であり、CHARAという特殊な存在を中央に配したことで物語世界に拍車が掛かっていました。が、主人公の伊藤歩は微妙です。伊藤歩といえば僕にはどうしてもテレビドラマ『リップスティック』の不良キャラの印象が強くて、ああした役柄に違和感を覚えました。まあ、彼女がそのドラマに出たのはこの映画から数年後のことなので、それは僕の側の問題なのですが。

伊藤歩自体、というよりもそのキャラクター設定が世界の拡大を留めてしまったという感じを受けてしまうんです。あのいわば訳のわからない世界、どんな規則があるのかも明瞭でない場所では、確かにああいう、観客にとってのひとつの移入装置が必要なのもわかるんです。まともな人がいたほうがまともじゃないものが対比されますからね。ただ結果的に言えば、それは別に必要ではなかった。そこまで他の登場人物がぶっ飛んでいるわけでもないですから。だから要するに、伊藤歩が歩んだイェンタウン世界への融和と、三上博史やCHARAなどのようにイェンタウン世界で上昇しようとする動きが、どうにもかみ合っていなかったんです。どちらかにしてしまえばよかった気がするんです。融和物語か上昇物語か。どちらかに決めた後で、あらためて世界の多様性を示すことも可能だったのではないかと僕は思うのです。こうした世界観の場合、当然多元体描写のほうが面白くなるわけですが、融和物語を組み込むならもっと絡ませていかなければ世界観が活きてこない。それを蝶の刺青でどうこうしてみたり、刑務所に弁当を届けてみたり、どうでもいいことばかりに時間をかけています。野島伸司ドラマみたいでした。岩井俊二と野島伸司は親和性が高そうで、野島伸司のドラマも大好きですが、この世界では要らなかったんじゃないかなあ。あれをすることで、せっかく濃度の高いものになりそうなイェンタウン的特殊性が薄まってしまったように思えてなりません。あれではイェンタウンならではの出来事として成立しないんです。

ストーリーがなんちゃらということも公開当時言われたみたいですが、僕は上記のように言いつつ、本当はそんなものはどうでもいいんです。確かに最低限ストーリーを理解させてもらわないとデヴィット・リンチ監督『インランド・エンパイア』のような地獄を見るわけですが、この『スワロウテイル』の場合、ストーリー云々よりも、世界観の提示さえ全うなら僕は問題なく観られたんです。ただその世界観が十分じゃなかったんですね。いや、たとえばあのイェンタウン的猥雑、渡部のいる『あおぞら』的荒涼、そして時折見られる現代日本的整頓がごちゃごちゃになっているところとかはすごくいい。言語にしてもそうで、あれを聞いて僕は、きわめて日本的な映画だという印象を持ちました。しかし、その外見を支えるものがあまりなかった。

変な世界は変な世界できちんとしておいてほしいんです。その意味でいえば山口智子の役柄が引っかかります。江口洋介のリャンキの組織に追われて、CHARAと桃井が渡部の「あおぞら」に逃げてくる。渡部は多勢に無勢の絶体絶命の状況において、挑発的に銃をぶっ放す。どうなんねん、あかんやんけ、と観客が思う中、びっくりしました。ああいうのをデウス・エクス・マキナとでもいうのでしょうか。山口智子がバズーカで敵をすべてぶっ飛ばしてしまうんです。あれはいただけない。あれでいいなら何でもありになってしまう。イェンタウンのような変な世界を提示したなら、つまり秩序のわからない「なんでもあり」のような世界を提示するなら、一方できちんとその秩序を保たねばならない。それが「外見を支えるもの」です。「なんでもあり」の世界ほど秩序を保たないとならないはずなんです。

そろそろやめにしましょう。そういえば公開当時、子供が偽札を使う描写があったせいでR指定になったというのを何かで読みました。あんなもんはどうでもいいんです。ほな何かい、子供が真似するんかい。真似してあんな風に偽札の機能をはたせるんかい。どうせ千円損して終わりになるだけなんですから、あほな子供に見せてやってもいいんです。

二時間半というたっぷりした時間をとって、世界観を提示しつつ、結局それが岩井俊二的な穏やかさに悪い形で中和されてしまったという印象を受けました。
[PR]
イムジン河の不在
d0151584_1071254.jpg

本作には「イムジン河」がない。前作では北と南の間に流れた河を日本人と在日朝鮮人の間にある溝にトレースし、鴨川における名シーンに繋げた。塩谷瞬演ずる耕介が沢尻エリカ演ずるキョンジャと仲良くなりたい一心で覚え歌ったあの歌は、映画を纏め上げる最重要の装置として強烈に機能していた。前作にあって本作になかったもの、その象徴として「イムジン河」がある。無論、本作においてそれを中心に据える必要はない。それに変わる別の装置が必要だったのだ。軸となる武器がなく、芸能界や難病や劇中映画のテーマといった諸所の要素が最終的な統合を見出せないのだ。

民族的対立というマクロ、個人の繋がりというミクロ。マクロでぶつかり、ミクロで分かり合う。マクロは乱暴な衝突を続け、ミクロは繊細に接近する。耕介はキョンジャと恋し、桃子はアンソンの子を孕み、耕介はアンソンと友達になり、大友康平演ずる男気あるラジオディレクターは当時の放送ルールを打ち破って演奏を許可した。前作のキャッチコピー、「世界は愛で変えられる」をどれほどの本気さで井筒が打ち出したのかは知らないが、少なくとも物語はそのメッセージを忠実に打ち出していた。本作はどうか。「love & peace」が副題となっている。キャッチコピー以上に重要なコピーたる副題が、果たしてどう機能していたか。日本人にしろ在日朝鮮人にしろ、結局は双方とも自閉している。主人公たるアンソンもキョンジャも分かり合えた日本人といえば藤井隆演じる佐藤くんくらいのもので、寺島進演じる日本人は最終的に罠にはめるし、石原のカリカチュアなのだろうか、ラサール石井演じた三浦とも何も分かり合えなければ分かり合おうともしない。物語のフックを前作以上に散りばめながら、そのどれにおいてもloveもpeaceもない。反戦を訴えればpeaceを主張できるか。違うと思う。その点における工夫、前作にあったそれが何故か本作では姿を消している。

なおかつ、前作にあった1968年的風景、昔的風景の風味が著しく低下したのも残念だった。舞台は1974年。歌謡曲や流行アイテムを散りばめてはいるものの、前作を強く支えた風味が消えてしまっている。前作は京都という一都市を舞台にし、そこに空気をこめることで濃密な空間が描かれていたが、本作ではキョンジャがロケで地方に行ってみたり、アンソンが見知らぬ田舎に出て奔走したりと空気が分散し、街の風情が消えてしまった。

アンソンの父の受難を描いた過去のシーンはどうか。カリカチュア的な人物、映画まで登場させて同時期公開の映画に真っ向からぶつけた本作は、前作よりも格段に「反戦」の色合いが強い。にじみ出ているならまだしも、真っ向から描いた。ならばあのコラージュで正しいのか。僕の記憶力、集中力が乏しいせいも多分にあるだろうが、アンソンの父がどんな顔だったか、まるで思い出せない。空襲のシーンには強烈なインパクトがあった。しかしその主体となるべき存在の顔がない。その状態でクライマックスにコラージュされても、そのドラマ部分が活きてこないので、協奏曲にならない。幾度も前作の思い出を語るようだが、前作終盤の多元シーンの協奏は本当に素晴らしかった。本筋ではないはずの桃子の破水シーンが、実に短い瞬間でありながら力強い支えとなった。本作はその濃度を大きく失っている。キョンジャのドラマ部分がその要因でもある。

中村ゆりの演技はよかった。演技をしていない部分などは特によく、かなり素に近い演技に見える部分が多々あって好感が持てた。しかし、彼女の演じた筋が結局、ラストの濃度を高めることが出来なかった要因となってしまった。彼女は芸能界に入り、順風満帆かと思ったのもつかの間、在日ということで差別を受けたり恋人に裏切られたり枕営業で役を掴んだりと沢山の酷い目に会う。しかし、その部分が活きないのだ。嫌そうではあるが、辛そうではない。すごく嫌だ、と感じる気持ちが伝わっても、すごく辛い、というところにまで至らない。病院の前で「朝鮮人になんて生まれなければよかった」と号泣するシーンがあるが、嫌さはあっても辛さがないため、ちっとも伝わってこない。

子どもの筋ジストロフィーの話がよくわからなかったというのが正直なところだ。劇中、快方に向かう様子も知らせもなく、それでいて酷さのあまりどうしようもなくなる、ということもない。ということは、あの子ども、チャンスは映画が幕切れを迎えた後もっと酷くなっていくのだということを観客に予期させて終わる。希望がない。この希望のなさをどう処理すればいいのかということについては、鑑賞後の余韻でもう少し考えてみたいと思う。何故あんな形で終わらせたのか、僕にはまだちゃんと処理できないところだ。

ちょいと書き出したら案外沢山書いてしまった。期待値が高かったためかなりきつめに書いてしまうことになった。そういえば以前、前作を褒めたところ訳のわからないコメントが大量に書き込まれるという椿事があった。今回はそうならないように願う。おわり。
[PR]
時間的・空間的な蓄積の問題をどう解決すべきか
d0151584_1064826.jpg

 前々から観ようと思っていた西川美和監督『ゆれる』です。かなり期待してみたのですが、そのせいもあってか、鑑賞後感で言うといまひとつぴんと来ませんでした。わりとたっぷりと間を置く感じの演出で、嫌いじゃないはずなのに、何故か好きになれなかった。このもやっと感を誰か言葉で表してくれと願い、ネット上で探し回ったのですが、高評価を与えるものばかりで、さらっと観た限りでは辛口なものは見受けられませんでした。やはり辛口で書くというのは、多少根性が要るものです。誰も読んでいないようなこんなブログでも、誰かの目に触れる可能性がある限り、辛口がそのまま己のあほさを晒しかねないわけですから。でもまあ、それはそれでいいんです。下の文章を読んで、僕の阿呆さを指摘してくれたら、それはそれで有難いわけですから。なかなか誰も相手にしてくれないのですがね、ぶひひ。

さて、『ゆれる』が何故ぴんとこなかったのかなあと考えると、時間的・空間的な蓄積というのが物語の濃度において足りなかった、少なくとも僕にとっては足りなかった、というのがあります。たとえば、この映画において最重要点のひとつであるつり橋のシーン。真木ようこ演じるチエがオダギリ演じるタケルと出会い、恋します。そして、田舎から出たいと思い始める。飄々とした都会人となったかつての幼馴染を見て、自分の来歴が無味乾燥な灰色のように感じられてしまう。そうしたメンタリティは理解できます。
橋にまつわるくだりはその心情の具現です。山中、オダギリが橋を渡っていく。その姿を見る。自分も渡ろうと思う。香川照之演じる、タケルの兄ミツルは引き止めるが、ここにいてくれと言って自分も橋のほうに向かう。ミツルとタケル、橋のこちらとあちらが、そのまま自分のいる灰色の町と希望溢れるかのような都会に対比される。橋の真ん中に達し、タケルに手を振るチエ。そこにミツルがやってくる。

この直後で引っかかりました。チエは自分の服を掴むミツルに激高するんです。最初のハテナマークが点灯しました。いや、わかるんです。自分が進もうとするのを、自分が抜け出したいと思っている場所が離してくれない。タケルとミツルの対比は実にわかりやすくメタフォリカルです。そのメタファの構図に従えば、チエの激高もわかる。しかし、構図はあくまでも構図であって、人間ではない。あの状況で、チエがあんなにまで激高してミツルを拒絶するというのが僕にはどうにもしっくりこなかった。人の動きがメタフォリカルな構図を生み出していい具合の筋道が描けていたのに、ここに来てその構図自体が人を動かす力学になってしまった。順序が逆転してしまったんですね。意味わかります?人が動いて物語の道が出来るはずが、あらかじめできた道の上を人が歩いている、という感じを受けたんです。そういう印象を受けたゆえ、このシーンに入り込めなかったんです。そして、このシーンに入り込めなかったことが、この映画から受ける印象の方向を左右させてくれました。

 タケルの気持ちがこれまた僕にはよくわからなかったんです。
 タケルが落下を目撃したのか、したならば兄が突き落としたのかそうでないのか、それはこの物語の上で非常に大事になるわけですが、目撃していたなら何故落ちたチエのほうに向かわなかったのでしょうか。合理的な理由としては、タケルはその時点で「ミツルが突き落とした」という状況を目視したからです。事故で落ちたと思ったなら助けにいくか、助からないと思ったとしてもチエのほうに行かないというのは解せません。また、橋の上でのタケルの態度、橋の下を確認しようとしていなかったこと、それを踏まえ、やはりタケルは事実、落下を目視しており、なおかつそれが「突き落としたように見えた、あるいはそう感じた」のです。そして衝突などあって、その記憶に確信を持ち、証言台に立ってしまいます。

しかし、「七年後」のラストシーン、タケルは昔のホームビデオを見て「突き落としていない」という記憶が結実するにいたり号泣し、兄のもとへと向かいます。

人の記憶がどうたらということがこの映画に関して言われているようですが、確かに曖昧なものです。そしてそれはその瞬間だけではなく、そのときの精神状態にも左右される。同じものを見ても別物のように見えることはいくらでもあるわけです。弟は兄が突き落としたように見えた、あるいはそう感じた。であるならば、そのように見えてしまう要因、簡単に言えば「兄に対するわだかまり」があったと見るのが自然です。七年後のシーンが示唆するように、タケルは「突き落としたのを見た」のではなく、「突き落としたと思い込んだ」と見るべきでしょう。では、それは何故なのか。

僕が冒頭述べた時間的・空間的蓄積の問題というのは要するに、兄と弟の間にある溝とは何か、ということです。この弟は兄に対して何を感じているのか。逆の立場ならわかるんですが、この弟が兄に何らかのわだかまりなり劣等感なり、(名前は何でもいいのですが)「不快な感じ」を抱いていたというのが、時間的・空間的蓄積として見えてこなかったんです。それがこの映画に満足できなかった非常に大きな理由です。重厚感がなくて、なんだか薄いんです。雰囲気にごまかされてはいけません。演出のうまさもあって雰囲気的にはシリアスな感じでも、もっと奥の部分で薄い(薄いのはお前の見方じゃ、うちが教えたるわい、という方を心よりお待ちしているので誰か言うてな)。兄に対する和解にしてもそうで、七年間ほったらかしにしておきながら、ホームビデオ程度で全てを思い出し和解するというのでしょうか。雰囲気やなーという感じです。

うーん、田舎と都会のどうたら言う褒め言葉を見ましたけど、それなら同年公開の『幸福のスイッチ』のほうが、まったく別ですけどコントラストとしてちゃんと描けているし、この『ゆれる』には大して活かされていなかったと思いますねえ。装置としては機能しても、風味を醸していないという意味で。そんな感じですねえ。

我ながら辛口続きやなあ。いや、でも、それはそれでそう感じてしまったんだから仕方ないです。上記のようなことを指摘できる映画はいい映画と思うものの中にもありますが、「それは別にええやん」と、そういう映画は思わせてくれます。この映画は思わせてくれなかった。思うことが出来なかった、というわけですね。なんか文句のひとつも言うてくれるとありがたいですね。
[PR]
←menu